5 旅立ち
朝露の降りる草原を、二つの影が歩いていた。
ハルトとクミーラは、村を出てから北に向かって三時間ほど歩き続けていた。
背後には、もはや懐かしいほど静かな森と、灰色の石垣で囲まれた小さな村「アルベルト村」が遠く霞んで見えるだけだった。
「これで。本当に、出ちゃったんだね」
クミーラがぽつりとつぶやく。
ハルトは小さく頷いた。
「うん。でも、不思議と怖くはない。むしろ、ずっとこの瞬間を待っていた気がする」
東の空には太陽が二つ昇り、光が大地を照らし始めていた。
その光は、どこまでも続く末路の草原、見知らぬ山脈、そして地平線の彼方までもを照らしていた。
「これから、どうするつもり?」
クミーラが尋ねる。
「まずは、中央街道を目指そうと思う。
そこにでられれば、大きな町にも出られるだろうし。何か情報も得られるかもしれない」
クミーラはその返答に、どこか頼もしさを感じたのか、にっこり笑った。
「じゃあ、私の出番ね」
「え?」
「私、街道沿いの地図、少しだけ覚えてるの。見たい?」
彼女が取り出したのは、薄い羊皮紙に手書きされた古びた地図のような物だった。
そこには、ハルトが知らない地名がいくつも並んでいる。
”ミンディアの丘”
”コルトレアの泉”
”ジュリア街道”
そして、最も大きな文字で書かれた、”王都シュレイン・ロウ”。
「ここがいちばん最寄りの村、”タラス村”。たぶん、丸一日歩けばたどり着くわ」
「助かるよ、クミーラ」
ハルトは素直にそう言い、笑った。
その笑顔に、クミーラは少し頬を染めた。
二人は再び歩き出す。
その背にはまだ見ぬ世界が広がり、足元には無数の選択肢があった。
だが、今の二人にとって大事なのは、「最初の一歩」を踏み出したという事実だった。
それだけで、前に進むには十分な力となった。
そして、夕刻。
遠くに小さな煙が立ちのぼっているのを見つけた。
「見て、あれ! あの煙、村かもしれない!」
クミーラが指をさす。
ハルトがその先を見据えた瞬間、胸の中にわずかな違和感が走った。
風に乗ってきた、焦げたような匂い。
煙の色が、どこかおかしい。きれいな灰色ではなく、濁った黒。
「急ごう、クミーラ。なにか変だ!」
ハルトは駆け出していた。
風の匂いが変わったのは、村の輪郭がはっきりと見えた頃だった。
焦げた木材と血の匂いが、夕暮れの冷たい空気に乗って、ハルトとクミーラの鼻を刺す。
「遅かった、の?」
クミーラの声は震えていた。
ハルトは、無言でうなずく。
彼の目には、瓦礫と化した家々、焼け落ちた柵、そして倒れたまま動かない人影が映っていた。
小さな村。おそらく地図にあった”タラス村”は、まるで猛獣にでも踏みにじられたかのような惨状だった。
だが、その中で何よりもハルトの気を引いたのは、村の中央に残された「印」だった。
地面に刻まれた、奇妙な円形の文様。
文字とも記号ともつかぬ線が絡み合い、中心には禍々しい赤黒い”しみ”があった。
「クミーラ、後ろに下がって」
ハルトの声に、クミーラは素直に従い、数歩後ろへ退いた。
ハルトは、その文様にそっと手を伸ばそうとした。その瞬間。
びゅぅーーーーっ!
突風が吹き抜け、文様の中から光の柱が立ち上った。
まるで空間そのものが”軋む”ような音と共に、
まばゆい光が空に向かって放たれる。
「ハルト。なに、あれ……!」
「わからない……けど、これはただの焼き討ちじゃない」
ハルトの瞳が、うっすらと金色に染まっていく。
彼の中の”何か”が、反応していた。
熱く、けれど凍るような感覚。
この場に刻まれた何かが、”自分にむけられている”と、はっきりわかる。
やがて光は集束し、中心の”しみ”がゆっくりと揺らぎ始めた。
それは影のように、そして生き物のように形を整えながら、立ち上がっていく。
「まさか……!」
ハルトは咄嗟に剣を抜いた。
その影は、やがて人の形をとり、ゆらゆらと立ち上がる。
顔は無く、目とおぼしき二つの穴だけが、赤く燃えていた。
『侵入者、確認。対象”転光者”:対応開始』
金属を削るような、機械のような声が大地を震わせた。
その瞬間、クミーラが絶叫する。
「ハルトッ、あれ、”使徒”よッ!!伝承にある、”神の使徒”!!」
ハルトは、剣を構えなおした。
胸の奥で、何かが脈打っていた。
それは、恐怖ではなく、「戦わねばならない」という、強い確信だった。
闇を纏った”使徒”は、ゆらりと大地に降り立った。
その動きに重量感はない。
だが、周囲の空気が一瞬で張り詰める。
「クミーラ、絶対に近寄るな」
「でも……!」
「頼む、今は。動いたら終わる」
ハルトの声には、これまでにない強さが宿っていた。
それに押されるように、クミーラは歯を噛みしめて後退する。
”使徒”は無言で腕を持ち上げた。
指の先に、禍々しい黒い光が集まり………
そして、撃ち出された。
「くっ!」
咄嗟に跳んだ。
土が抉れ、黒い光が貫いたその場には、深く黒く焼け焦げた痕が残る。
人が喰らえば即死。間違いない。
ハルトは着地と同時に走り出す。
脇に構えた剣に、空気が巻き込まれ、うねるように風が流れ込む。
「この剣は”斬る”ためにある!」
ハルトの刃が”使徒”に迫る。だが、その直前、影が溶けるように体を避けた。
「消えた?!」
次の瞬間、背後からの圧力。
本能で身を伏せる。
ズンッ!
その場に鉄塊を叩きつけたような衝撃が走る。
地面が割れた。
避けていなければ、胴を叩き折られていた。
「この速さ!」
だが、ハルトの瞳は、確実に”見えていた”。
”使徒”の気配、動き、空気の揺れ。それら全てを、理解できる。
いや、理解してしまっている。
(戦える?! なぜ? こんなにも……!)
だが、迷いはなかった。
足を踏み込み、剣を逆手に構え、重心を前へ。
「おまえを、倒す!!」