11、後宮の外へ
馬車は後宮の門の外で待っているらしい。柃華と蒼海、任春と侍女たちは歩いて門へと向かった。
見送りの人がいないのは、仕方がない。人質同然であった柃華は、妃嬪たちのお茶会にも宴にも参加しなかったのだから。そもそも招かれもしないお茶会に赴くことなどあり得ない。
柃華と親しくしてくれた皇后は亡くなり、星河宮を訪れてくれた郭貴妃は廃妃となっている。
「寂しいけれど、すっきりしますね」
蒼海の手を引いた柃華は、星河宮をふり返った。
九年以上の長い年月を、寂しく過ごした宮だ。だが、最後になって蒼海を引き取り、凌星たちが現れて賑やかになった。
感慨にふけっていたその時、遠くから声が聞こえた。
「時修媛さま。よかった、間に合いました」
「こんなに早い出立でいらしたんですね」
どこから現れたのか、女官たちが集まってくる。彼女たちを率いていたのは陰小蝶。柃華に琵琶の弾き方や楽器の由来を教えてくれた司楽の女官だ。
朝食を取ったばかりの時間だろうに、女官たちは急ぎ足で――いや、むしろ柃華の元に駆けてくる。
「そういえば蒼海。碰鈴を返していなかったんじゃない?」
「かえす? あれ、かえすの?」
母子二人して忘れていた。あの碰鈴は借り物であったことを。考えなければならぬこと、やるべきことが山積していて鈴を借りたままにしていたのだ。
「もしかして返却の催促でしょうか?」
「でも、碰鈴はもう荷造りして、先に離宮に送ってしまったわよね。事情を説明して待ってもらいましょう」
任春と柃華はこそこそと囁き合った。
「時修媛さま、蒼海さま。どうぞお元気で」
走り寄った小蝶が、息を切らしながら柃華に抱きついた。次にしゃがんで蒼海を抱きしめる。
え? そんな親しい仲だったかしら? と柃華は戸惑った。
「離宮でも琵琶や碰鈴を奏でてください。女官である私の教えに耳を傾けてくださったのは、お二人だけなのです」
柃華と蒼海は互いに顔を見合わせた。確かに陛下の耳を悦ばせるために、舞だけではなく琵琶を弾く妃嬪もいることだろう。慣れぬ楽器の扱いを習うのならば、専門である司楽を頼るのが一番だ。
それでも品階の高い妃嬪が、女官に教えを請うなど自尊心が邪魔することだろう。
「思月が罪を犯して、私はその手引きをしてしまい。どうお詫びしてよいのか、ずっとずっと悩んでいたのです」
小蝶が挙げたのは、陶岳国にいる柃華の長兄の密偵であった女官の名だ。
大事な琴の弦を切られ、さらに柃華を陥れようと思月は企んでいた。小蝶は元同僚に利用されただけと不問に処されたが、それでも良心が咎めていたのだろう。
「あの、あたしも寂しいです。柃華さまとお話ししたいと思っていたのに……」
「愛らしい蒼海さまと本当の母娘のようで、微笑ましく拝見してました」
「柃華さまと侍女の紫安さまが、並んでいらっしゃるところがもう見られないなんて」
集まった女官や宮女たちが、我先にと柃華に声をかける。
こんなにも人の中心になったのは、初めてかもしれない。びっくりした蒼海が、目を丸くして柃華を見上げてくる。
「ど、ど、どうしよう、リンホアさま」
ここに妃嬪はいない。もし皇后や郭貴妃がいたのなら、見送ってくれたのだろうが。それは叶わぬことだ。
それでも言葉を交わしたこともないような女官や宮女までが、別れを惜しんでくれる。
囚われの身ではあったけれど。確かにこの後宮は、自分の居場所であったのだ。
「蒼海。わたしと一緒に、皆さんにお別れとお礼を言いましょうね」
「……うん」
初めての経験に、蒼海は表情を強ばらせながらも皆の方を向いた。
不思議なものだ。後宮を出ることになって初めて、蒼海にいずれ賜るであろう未来の公主としての自覚が生まれたのだから。
◇◇◇
門番によって後宮の重い門が開かれた。ぎぃぃと軋む音を立てながら、門扉の隙間が広がっていく。
分厚く高い塀で隔てられた外界へ。先日、次兄の愁飛と密会した時と違い、柃華はもう二度と後宮には戻らない。
「やぁ、待ちかねたぞ」
燦燦と降りそそぐ日差しを受けて、凌星が立っていた。背後に控えていた天遠が、すぐに蒼海へと歩み寄る。
柃華は揖礼をして、頭を下げた。
「時柃華と申します。こちらは殿下もよくご存じの蒼海皇女でございます。どうぞよろしくお願いいたします」
まるで面識などないかのように、初対面であるかのように言葉を選ぶ。訳の分からない蒼海は「え? なんで?」と凌星と天遠を眺めている。
事情を知っている任春だけが、腰を屈めて「紫安のことは、内緒なんですよ」と蒼海に耳打ちした。
生活に必要な衣服などの荷は、先に離宮に送ってある。今日は二台の馬車に分乗することになっている。
「うまがたくさんいるね、リンホアさま」
「ええ、馬ですね。この間も馬車に乗りましたね」
「おしりがいたくなるんだよ。ね?」
早く馬車に乗りたいのか、蒼海が柃華の手を引っぱる。海の近くにある離宮は、皇城からはさほど遠くないので、お尻が痛くなることはないだろう。
柃華の少し後ろで、侍女たちがそわそわしている。
「天遠さまって、侍女の紫安と一緒にいらしたわよね」
「じゃあなんで今は殿下のお供をしてらっしゃるの?」
疑問も尤もだろう。凌星は女装をしていたが、宦官である天遠は変装することもなく星河宮で暮らしていたのだから。
「もしかして……」
一人の侍女が真相に気づいたのだろうか。柃華はてのひらに汗をかき、凌星は顔を強ばらせている。
さすがに一国の皇子が女装をして後宮に潜入していたなど、言えるはずもない。
「もしかして紫安って、実は貴族のお嬢さまだったのかしら。だから侍女の仕事をするにも、供が必要だったのね」
「そうよ。だってあの子、美人だけど怠け癖があったもの。なのに任春さまに咎められることもなかったし」
「怠け癖……」と、己の評価の低さに凌星が地味に傷ついている。任春としては、まさか殿下にきびきび働けと命令できるはずもない。
「ああ、いえ。違うんですよ」
珍しく天遠が口を挟んだ。穏やかな笑みをたたえながら。
「あの紫安は白家の人間、つまり私の従妹なのです。私は元々蒼海さまの護衛のために星河宮に遣わされていました。紫安とは顔見知りなので、よく一緒に居ただけです」
「そうだったんですね。どうして紫安と仲がいいのかとずっと不思議だったんですよ」
侍女たちは納得して頷いた。
「従兄である私ですから言えるのですが。紫安は侍女に必要な細やかさがありませんし、図々しいところがあるので。柃華さまもさぞや苦労なさったと思います」
おお、一刀両断だ。
普段は物静かな天遠だけに、その言葉には真実味がある。
「いや、紫安は気遣いの出来る侍女だと思うぞ」
凌星が紫安をかばった。事情を知らない侍女たちは、興味津々に凌星を見つめている。
紫安は凌星殿下とも顔見知りなのか、と尋ねたそうだ。
思わず自らをかばって口走ってしまった凌星は、侍女たちの好奇に満ちた眼差しから逃れることができなさそうだ。
「離宮に着くのが遅れてしまいます。凌星殿下、そろそろ出発いたしましょう」
見るに見かねた柃華は、仕方なく助け舟を出した。
天遠は凌星に付き従って、急峻な嶺を越えて陶岳国に潜入したこともあるが。むしろ後宮での暮らしで主の正体がばれるかもしれないことに、神経をすり減らしていたのかもしれない。
高い塀を隔てただけなのに。不思議と風に混じる匂いが、後宮とは違って感じた。
甘くまとわりつくような香りはしない。からりと乾いた土の匂いのする風だ。
一台目の馬車には柃華と蒼海、凌星と天遠が乗っている。後ろの馬車は任春と侍女たちだ。
馬車の小さな窗を、蒼海が手を伸ばして引いた。
水の匂いがした。見れば馬車は橋を渡っているようだ。対向する馬車が過ぎていくので、大きな橋のようだ。陽光を受けた川面が眩しいほどに煌めいて、柃華は目を細めた。
「ほら、蒼海さま。市が見えますよ」
橋を過ぎ、柃華が指さした先には露店が並んでいた。山のように西瓜が積んである。ころころと茶色く丸い果物が枝についているのは、龍眼だ。これは滋養強壮、補血という血を補う薬にもなる。
「夏の疲れには、龍眼と冬瓜の甘いお茶もいいぞ」
「そうなんですか。せっかく離宮で暮らすのですから、わたしが涼茶を作ってみようかしら」
柃華はふと思いついた。後宮で暮らしている間、厨房に入るなどあり得なかったが。名ばかりだったとはいえもう妃嬪ではないのだし、お茶くらいなら蒼海と一緒に作れるかもしれない。
だが、凌星は眉を寄せて渋い表情を浮かべた。
「まぁ反対はしない。しないが……試作は必要だな」
「あの、柃華さま。涼茶の作り方をご存じですか?」と天遠が遠慮がちに尋ねてくる。
「ツァンハイしってるよ。はっぱをね、おみずにつけるの」
うん、あながち間違いではないが。たぶん、蒼海が考えているのはままごとの範疇だ。
「酸梅湯でしたら、烏梅と山査子と砂糖を煮出すんですよね? 知識でしたらあります」
「うむ、おおむね合っている。材料を煮出した後は、ザルで漉すこと。砂糖は黄氷糖を用いると良いな。黄氷糖は熱を冷まして毒を出す、清熱解毒の作用があるのだ。涼茶にふさわしい」
南洛国の周辺国に潜入していたことのある凌星は、さすがに柃華と違い自分で涼茶を作ったことがあるようだ。
小さな台所で火を起こして、山査子や烏梅をぐつぐつと煮込む鍋を見守る凌星を想像すると、ちょっと笑えた。
不思議なものだ。これまで凌星や天遠と共にいると、きな臭い話ばかりをしていたのに。しがらみから解放されると、こんなにも意味のない会話になるのだろうか。
そして、重要ではない話がとても楽しい。
「時修媛、良かったのか? 私と夫婦になることになってしまったが」
さっきまでの得意げな態度はどこへやら、凌星は急に声を落とした。
「あなたは父の妃嬪であった。しかも私は監視として星河宮に派遣されていた。正直な話……私はその、あなたに好かれるような男ではない。それは自覚している」
馬車が止まったのだろう。振動が収まり、外の雑踏の音が聞こえてきた。
「険しい嶺に咲く雪蓮のような時修媛を美しいと思った。父からも故国からも見捨てられ、それでもあなたは蒼海を守り、凛と立ち続けていた。これを恋と言うのなら、きっとそうなのだろう」
「でしょ? ツァンハイのおかあさまだもん」
なぜか蒼海が胸を張る。
見れば、いつもは堂々としている凌星が不安そうに肩を落としている。そんな姿は珍しいのだろう。天遠も瞬きを繰り返しながら主を凝視していた。
「恋というのは、わたしには正直よく分かりません。南洛国の皇帝の妃嬪になるために育てられ、初恋もしたことがありませんから」
むしろ王女であった少女時代に恋心でも芽生えようものなら、陶岳国の父や威龍にすべて毟り取られ、踏みにじられたことだろう。
「ですが星河宮で凌星殿下と共に暮らし、難題を解決していく内に、生まれた気持ちがあります」
ちゃんと凌星の目を見て伝えよう。柃華は座った状態で背筋を伸ばして向き直った。
「凌星さまがいてくださると、安心できるのです。一人で立ち向かわなくていいと思えるのです。恋とは違うかもしれませんが、信頼できるのです」
「……そうか、そうなのか」
凌星の表情が緩んだ。目許が和らぎ、うす暗い馬車の中でも瞳に光が宿るのが分かった。
「時修媛。あなたが抱いたその気持ちに名前を付けるなら、愛になる」
「愛、ですか?」
思いがけない指摘に、柃華の声が裏返る。蒼海が面白がって「あいです」と追い打ちをかけた。
ちょっと待って。政略結婚でないなら、まずは恋をして愛になって――それが順番なのでは? 一足飛びに愛になるのは、まるで家族同然に暮らしていたから?
甲斐甲斐しく蒼海の世話をして、茄子を食べさせ、エビの殻を剥いてあげていた凌星の様子を思い出した。
侍女の姿をしていたけれど。凌星は、本当の父親である皇帝よりも蒼海の親であるように見えた。
「わたしたちは最初から、家族になっていたということですか?」
「まぁ、そうなるな。離宮の暮らしに慣れたら、一緒に涼茶を作ってみないか? 柃華」
凌星の提案もだが、彼の発した「柃華」との名前が、まるで一陣の風のように柃華の耳を襲った。
名前呼びされたのは、初めてではない。だが、それは修媛という身分を隠すためであったり、敢えて呼ばれていただけだ。
今初めて、凌星は柃華の名をちゃんと呼んだ。
まるで近くに雷が落ちた時のように、柃華の腕や首の皮膚がぴりぴりとする。
柃華は初めて、凌星や紫安が女官たちに人気があるのか理解した。夫婦になった今更だけれど――
◇◇◇
離宮は後宮とは違い、塀も壁も白い。これは強い日差しを反射して、室内を涼しくするためだそうだ。
海が近いので風が通るように、柱と天井だけの建物もある。
高台にある離宮からは、眼下に海を眺めることもできる。
すでに日は西に傾き、水面は橙色に染まっている。空が青いと海も青くなり、空が豪奢な薔薇色やすみれ色になると海もまた同じ色を映す。
風は吹いていないが、これは夕凪という時間なのだと凌星が教えてくれた。
空気が停滞した時間が過ぎると、涼しい風が吹くのだそうだ。
「きれいねー。リンホアさま、あのね、うみにはかいがおちてるんだよ」
離宮の凉台から砂浜を見下ろして、蒼海が声を弾ませる。
「貝ですか。どんな貝がいるんでしょうね」
「こんどひろいにいこうね。あとね、かにもおちてるの。かにもひろうよ」
多分蟹は落ちているわけではなく、歩いているのだと思う。
陰謀渦巻く後宮を出て、環境が落ち着いたからだろうか。それとも皇帝に対して嘘の先見を語ったからだろか。
蒼海の黒翡翠の瞳が、紫に澄むことはない。
「柃華、蒼海。お茶の用意ができたそうだ」
凉台に二人を呼びに来たのは凌星だ。まだ彼に柃華と呼ばれるのには慣れないが。それでも耳が喜んでいるような気がした。
「リンシーもね、ツァンハイみたいにいえばいいよ?」
「ん? 何と言うのだ?」
柃華と凌星の間に入って、蒼海はそれぞれと手を繋ぐ。
「『リンホア、だーいすき』っていうの。すなおがいいよ」
一瞬の静寂。
風は吹いていないのに、砂浜をひたひたと満たす微かな波音が聞こえたように思えた。
そして凌星は盛大に咳きこんだ。




