10、旅立ちの朝
後宮を出る日の朝は晴れていた。
調度品などはそのまま置いていくので、星河宮は一見するとすっきりと片付いて見える。だが、不思議と空っぽであることが分かる。
任春の他、侍女を三人連れていくことになった。
「柃華さま。白紫安はお連れしないのですか?」
共に後宮を出る侍女が、凌星扮する侍女の名をあげた。彼女たちは紫安の姿を求めて、回廊やその奥を見遣る。
勿論そこに紫安の姿はない。当然だ、凌星は先に後宮の外で待っているのだから。
「麗しのお姉さま二人が揃うところが眼福でしたのに」
柃華は任春と顔を見合わせた。
――え? 気づかないものなの?
――普通、気づきますよね。凌星さまは天遠さまと一緒に、夜には庭の四阿でお酒を酌み交わしておられましたよ。
――挙句の果てには馬弔の遊戯もしていたわね。侍女たちは早寝だったのかしら。
柃華と任春は、こそこそと互いに耳元で囁き合った。それとも生まれも育ちも陶岳国の任春は、察しがいいだけなのだろうか。
柃華も任春も、蒼海に手を焼く紫安を見慣れ過ぎているので、忘れてしまっている。凌星の女装はただ美しいだけではなく、所作もきれいなのだ。
足の運び、手の動き、指先まで神経が行き届いている。筆の運びも、箸の使い方も丁寧で、女性よりもたおやかだ。
「紫安が同行しないのは残念ですけれど。でも離宮には凌星殿下がいらっしゃるんですよね」
「私、凌星殿下にはお目にかかったことがないんです。楽しみです」
「柃華さま。殿下に見初められたとのことですけど。もしかして避暑地に赴かれた時ですか?」
興味津々の侍女たちに囲まれて、柃華は「あー、そうね」と言葉を濁した。
噂を流したのが誰かは分からぬが――いや、凌星本人か或いは皇帝の指示なのか。どうやら柃華の暮らす星河宮に皇帝が一度も訪れなかったのは、いつまでも妃を娶らぬ凌星のためだと言われている。
凌星の将来の妃候補として男性の目に入らぬように大事に保護された女性、それが時柃華なのだ、と。
そんな馬鹿な、わたしはただの人質なのに。流布している噂を聞いた時に柃華は口をあんぐりと開けてしまった。
「事実って、どうにでも捻じ曲げられるわよね」
柃華は、回廊にしゃがんでいる蒼海に目を向けた。今朝は早起きだったので、眠いのだろう。何かを大事そうに抱えながら、蒼海の頭が微かに上下している。
瞼を閉じた蒼海を、柃華は抱き上げた。両手の指を重ねた間から見えたのは、おそらく女官の人形だ。布でぐるぐる巻きになっているのけれど、上部の隙間から陶器の頭部が見える。
荷造りをして行李にしまったはずなのに。夜寝る時も常に枕元に置いているほどに気に入っている人形だから、荷物の中にいれるのが可愛そうになったのだろう。
「へーか、だよ」
ぼんやりと瞼を開いた蒼海が、寝言のように言葉を発する。「陛下」だろうか。
もしや未来視かと、柃華は蒼海の細くなった目を覗きこんだ。いや、澄んだ紫の色は宿っていない。
だとしたらやはり寝言なのかも。
そう思った時だった。柃華の背後で、ざっと何かが一斉に動く音がした。見れば、任春をはじめ、他の三人の侍女が揖礼し、深く頭を下げている。
え? まさか。そんなことがあるはずは――
柃華は恐る恐るふり返った。
星河宮にいるはずのない、訪れるはずのない宣皇帝がそこに立っていた。
「ああ、いや。蒼海を抱えたまま礼はとれぬだろう。時柃華、そのままでよい」
護衛を伴った皇帝が、柃華に向かって片手を上げる。うとうととした蒼海に目を向けて、口もとをほころばせながら。
「ここが星河宮か。他の宮とは異なり、脂粉ではなく水の匂いがする。なるほど、蓮池があるのか。花の時期に間に合ってよかった」
柃華は、せめてもと頭を下げた。後宮に入ってから九年も経つが、まさか最後の日にこの宮を皇帝が訪れるとは。
「華美ではない、凛とした美しさだ。そなたに相応しい宮であったのだな。朕はそれすらも知らぬままであった」
「勿体ないお言葉です」
「ずっとそなたを閉じこめたまま、放置してすまなかった。だが、今はそれが幸いしたようだ」
これまで皇帝と言葉を交わす時の柃華は、常にひりついていた。互いの腹の内をさぐるような会話ばかりであったから。
それゆえに柃華は、皇帝から素直に謝られてどうしていいのか分からなかった。
もしかして都合のいい夢を見ているのではないか、と頰をつねりたくなったほどだ。
「そのように妙な顔をするでない。まったく朕はそなたに信頼されておらぬようだ。しかし、朕がそなたに対して距離を取っていたからこそ、凌星の願いを叶えてやることができた」
「願い……ですか?」
「そうだ。通常、父の妃嬪を息子に譲るなど論外だ。後宮を出て、女道士として何年か潔斎してから息子に嫁ぎなおすという例も過去にはあったが。稀だ」
皇帝がまったく顧みない、足を運ぶこともない、女性として魅力も価値もないと見捨てられていたからこそ、柃華が清らかであることが逆に証明された。
閨や房事を詳細に残す宦官の記録に、時修媛の名は一切出てこない。遡っても、どこにもない。あるはずがない。
「そなたは蒼海の母でもある。蒼海は他の妃嬪も女官も認めない。それに凌星に蒼海を育てることができるとも思えぬ」
「……ズーアンね、ツァンハイにえびをむいてくれたよ。おなすも食べさせてくれたよ」
柃華の首にしがみつきながら、蒼海が凌星を擁護する。
「えびもおなすも、おいしかったよ」
それは父親である皇帝の知らぬ息子の姿であったのだろう。「そうか、あいつはそんなことができるのか」と、感慨深そうにうなずいた。
幼子ではあるが、義理を果たしたとばかりに蒼海はへらっと笑った。




