表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
63/73

1、牢獄の紅雨

「開けろ。開けろーっ!」

 牢獄の格子を、井紅雨(ジンホンユィー)が拳で叩く。ガンガンガンッ! と毎日続く騒音に、牢番は「またか」と吐き捨てた。

 夏でも(みぞれ)が降る陶岳国だ。獄舎はさらに日当たりの悪い場所に造られ、壁も床も石でできているので寒い。


威龍(ウェイロン)を、あいつを寄越せ。あたしの前で地面にひたいをつけて、謝らせろ!」


 常に紅雨は声を張りあげているので。喉はひどく痛み、治ることのない風邪を引いている。

 鉄格子を叩き続けたせいで、手の側面には血が滲んでいる。傷がふさがらぬうちにまた傷つけるので、皮膚は破れて膿んでいる。

 どんなに牢獄が寒くとも、手は焼けるように熱くて痛い。


 この苦しさを、痛みを決して忘れるものか。あいつに踏みにじられた、この侮辱を忘れてなるものか。


(いや、謝らせるだけじゃダメだ。王族の奴らは、あたしと母さんの人生を滅茶苦茶にしたんだ)


 ろくに陽も射さない床に敷かれた筵は、湿って黴のにおいがした。食事として出された酸っぱい平パンのクズを、鼠が狙っていた。


「お前は人を殺したんだ。それでも首を刎ねられないのは、王太子殿下の温情だ。いい加減に黙れ」

「何が温情だ。あのクソ野郎をさっさと呼べっ」


 紅雨のうるささに閉口した門番は、格子を蹴飛ばした。ガンッと派手な音が、獄舎に響く。


 何もかもがうまくいかない。紅雨はひざを抱えて座りこんだ。骨折した足は添え木をつけられ、布でぐるぐるに巻かれている。きっと外に出ても、まともに歩くことなんてできない。

 痛い、全身が痛い。


「殺してやる……あのクソ殿下を殺してやる」


 どうせもう殺人犯なのだ。一人殺しても、二人殺しても大差はない。

 高い位置にある小さな窓から見える空は、今日も灰色だ。氷まじりの雨が降っているのだろう。びしゃびしゃと冷たい音が聞こえた。


 ふと、鳩が三羽飛んでいるのが見えた。陰鬱な雲を背景に、鳩は鮮やかなほどに白い。


(確か三羽の鳩は、手紙を運ぶっていうけど)


 どうせ自分には関係ないと、紅雨は舌打ちをした。


 ◇◇◇


 陶岳国の王宮に、久しぶりに鳩が戻って来たという知らせを受けて、威龍の心は跳ねた。

 南洛国の後宮に忍ばせておいた女官からの知らせだ。


柃華リンホアの過失で貴重な琵琶の弦が切れたのだ。四夫人たちの怒りを買って、柃華は修媛(しゅうえん)の座を下されたに違いない)


 妹が冷宮送りになるのはかわいそうだが。女と生まれたからには、父や兄に隷属するのは当たり前のこと。宣皇帝を虜にできなかった色気のない柃華が悪いのだ。


 宮殿の外階段では、王家の紋章の旗が風にあおられていた。一旈(りゅう)、二旈、三旈。山の峰を越える鳩の意匠の旗が、ずらりとはためいている。

 長い階段を下りながら、鳩舎へと向かっていた威龍は立ちどまった。


「そうか。次の修媛候補であった娘が使い物にならなくなったのだった」


 さっきまで降っていた霙はやんでいるが、階段は濡れたままだ。威龍が履いている夏用の布沓(ぬのぐつ)が、じわりと湿り気を帯びてくる。


「次の娘を用意しなければならないな」


 紅雨には失望した。粗野で凶暴で無教養。さらには人を殺してしまった。

 あれが王族の端くれでなければ、とうに首を刎ねている。通りに紅雨の首を晒してやったというのに。


「どこかに都合のいい娘はいないのか。美しく品があり、昼間はしとやかで教養もあるのに、夜には大胆にふるまう女性だ」


 そう呟いて、威龍は苦く笑った。そんな女がいれば自分のものにする。わざわざ(シュエン)皇帝にくれてやることもない。


 鳩の世話をする使用人が、鳩舎の前で威龍を迎えた。男は長旅を終えた鳩をねぎらい、餌をやっている。

 鳥の餌である雑穀のにおいは嫌いだ。威龍は眉をひそめた。


 鳩に託されていた文を、威龍は開く。


 ――あの人の過失を、皇帝陛下はお許しになりません。四夫人も怒り心頭です。あの人が嬪を廃される日も近いでしょう。すべては殿下のお望みの通りです。


 来た。来た、来た、来たっ。やっと来たか!


 感動のあまり、威龍は文を持つ手が震えた。

 そうだ、これだよ。妹が拷問されるわけでもなく、今の側室の座を明け渡す。望んだとおりの展開だ。 


 冷宮がどんなところかは知らない。寵愛を喪った妃嬪が追いやられる宮だとは聞いたことがあるが。なに、牢獄ほどにひどくはないだろう。


 あまりにも妹の罪が重ければ、宣皇帝は陶岳国からの側室を迎えない。

 だが、謝罪の意も込めて宣皇帝の好きそうな女を送り込めばどうだ。この陶岳の人間が、南洛国の皇帝の子を生むのだ。次の皇位を狙うことのできる子を。こんなに愉快なことがあろうか。


「早く紅雨を……」と言いかけて、威龍は呆然とした。


 分かっていたはずなのに、理解していなかった。あの娘はもう使えない、と。

 山から吹き下ろす冷たい風が、威龍の持つ紙をバタバタとはためかせる。鳩の水を替えながら、世話係の男が威龍を窺った。


「人殺しの罪人を、南洛国に送るわけにはいかぬ。逆上した紅雨が、今度は宣皇帝を殺したらどうする。陶岳国へどのような報復が行われるか……」


 すでに計画は足もとから崩れているのか。ならば、どうすればいい? 父も叔父も、王家の血を引く紅雨が殺人を犯したことを非常にお怒りだ。別の娘を用意するのも許さぬだろう。


「愁飛に相談を。いや、ダメだ。あいつは紅雨の件に関して反対していた」


 その時、階段を下りてくる足音が聞こえた。


「威龍殿下。黒水族の使者が王宮に来ております。今、陛下と謁見中でございます。殿下も同席なさいますか?」


 礼をして、威龍に声をかけてきたのは大臣であった。

 そうだ。黒水族は、我が国と同盟を結びたがっている。馬での戦に長けたあの国が味方となれば、あてにならぬ女など使う必要もない。


 衣の裾を風にあおられながら、威龍は長い階段を登った。この国では、常に強い風が吹いている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
script?guid=on
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ