11、飴を持って帰ろう
愁飛と密談をしてからの柃華や凌星の動きは早かった。
凌星が紫安として星河宮で暮らしはじめた頃。確か、黒水族は名馬の産地であるが、南洛国からは遠いため駿馬は入ってこないと聞いたことがある。
黒水族と馬。この二つは、言葉は悪いが利用できる。威龍の誇りを砕けば、彼は必ず動くはずだ。
(そんな些細な話の内容まで覚えていようとするから。わたしは手先にまで神経がまわらないのね)
戦が起こる前に、戦を封じる。そのためには情報を操ることが必要だ。
柃華は自分の指を眺めながら思考を深めた。
威龍の性格、黒水族の思惑。どう操作すれば、陶岳の民に犠牲を出さずに丸く収まるのか。
避暑にしては滞在が短いが、ほんの数日で、柃華たちは後宮に戻ることにした。愁飛はしばらく南洛国の各地を巡るそうだ。
長兄の威龍に、書や画を持ち帰るという前提で国を出たのが理由らしい。お忍びであるので、一国の王子とも思えぬ簡素な馬車に愁飛は乗り込んだ
愁飛と別れる時になって初めて、柃華は兄が好んでいた香のにおいを感じた。ここは王都の臨洛でないとはいえ、やはり陶岳国から南洛国までは遠い。その間に、衣に焚きしめていた香も薄れてしまったのだろう。
柃華は、自分でも気づかぬうちに手を伸ばしていた。
故郷を戦乱に巻きこまぬために、威龍に利用される者が増えぬように。そのことばかりに気を取られ、九年ぶりの兄妹の再会であることを失念していた。
(もっと時間があれば。余裕があれば。愁飛兄さまともたくさんお話しできるのに)
厄介なことばかりを威龍が起こすから。愁飛ともふつうの、何気ない会話ができない。
けれど……。柃華は唇を噛みしめた。
感傷に浸る暇はない。威龍の企みのせいで、紅雨という女性は人を殺めてしまった。柃華は伸ばした手を下した。
「兄さまから預かった鳩に、書を託します。そうなれば陶岳国でも動きがあるでしょう。随時わたしに知らせてください」
柃華の言葉に、馬車の小さな窗から愁飛が顔を出す。
「もっと落ち着いて会えればいいのですが。残念です、柃華」
「戦を未然に防ぐことができれば、きっとそんな日も来ますよ」
微笑んだ柃華の頭に、愁飛は手を置いた。まるで子供にするように、愁飛が頭を撫でてくる。蒼海もだが、凌星に天遠にまで見られているので。柃華は恥ずかしさに頰が厚くなる。
「あ、あの。愁飛兄さま?」
「柃華はよく頑張っていますよ。此度の威龍兄上の件に関しても、そして蒼海皇女の母親としても。立派です」
立派と言いながら、愁飛のしぐさは幼かった頃の妹に対してのふるまいだ。
陶岳国でも南洛国でも、大人の頭を撫でることなどない。それでも愁飛は、妹を慈しむ心が勝ったのだろう。
「いつか柃華は自由になれますよ。陶岳国に二心がなければ、柃華が後宮に囚われる必要もありませんから」
兄の言葉は嬉しいはずなのに。撫でてくれる手のぬくもりも、落ち着くはずなのに。
蒼海や凌星たちと別れて、後宮を出るという考えは柃華にはなかった。
その戸惑いに気づいたのだろう。愁飛は「大丈夫ですよ。きっとうまくいきます」と慰めてくれる。
言葉にはせずとも、側寫に長ける愁飛にはお見通しのようだ。
木洩れ日のこぼれる道を行く馬車が視界から消えるまで、柃華は愁飛を見送っていた。
「ツァンハイね、あめをもってかえるの」
「奶糖が気に入ったんですね。買って帰りましょうか」
柃華の手をぎゅっと握った蒼海が、首を振る。
「おいしいけど。あのね、リンホアさまにあめをあげると、わらうからだよ」
(そんな理由で?)
どうしよう。心が震える。自分は蒼海の保護者だとばかり思っていたけれど。まさか蒼海に守られていたなんて。
小さな娘は愛らしいだけではなく、とても勇ましい。
「蒼海皇女も変わったな。私はこの子が皇后娘娘の元にいる頃から知っているが」
凌星が胸の前で腕を組んで、蒼海を眺めている。
「どうやら時修媛の育て方がよかったようだな。以前よりも、人を思いやることが多い」
凌星の言葉に天遠はうなずいた。ふたりとも目を柔らかく細めている。
「他のどの妃が蒼海皇女を養育したとしても。あなたほどに皇女を愛することは無理であろう。また義母を守りたいと皇女が願うのは、あなたをおいて他にはいないだろうな」
「ツァンハイ、おやこーこーなの」
親孝行。どこで覚えた言葉なのか、蒼海はにかっと笑った。
「時修媛……いや、柃華。案ずることはない。我らが君と共にいるのだから」
凌星の声は力強い。
緑の葉を透かした光が、ちらちらと落ちてくる。王都の臨洛よりも涼しいせいか、盛夏だというのに赤蜻蛉が飛んでいる。
なすべきことは多いし、何かが解決したわけでもないが。遠く離れた愁飛との連絡手段がついたことも、この先の目的が明瞭になったことも。柃華が歩みだす力となった。




