9、紅雨の事情
柃華たちは、場所を天涯客桟の凌星たちの部屋に移した。
人に立ち聞きされぬように、廊下には天遠が見張りとして立つ。蒼海は渓流で遊び疲れたのか、寝台で眠っている。
父や王太子である威龍は、移動する時には必ず側近をつけるが。夏で残雪はないとはいえ、険しい山道を越えてきた愁飛はひとりきりだ。
「今更隠すことでもありませんし、凌星殿下はご存じでしょうが。我が国には統率された軍はありません」
香り高い青茶を飲みながら、愁飛は内情を明かした。
避暑地ということもあり、臨洛ほどの暑さではないので。客桟では夏場でも淹れたての熱いお茶が供されている。
茶壺という急須が用意されているが。渋くなるので、茶葉は長く湯に浸してはおけない。すぐに茶海という容器に、抽出されたお茶を注ぎきる。それからそれぞれの茶杯に分けていく。
陶岳国のように寒冷な土地では茶葉は育たない。
「私が慣れているから。任せておきなさい」
茶壺に手を伸ばした柃華を、凌星が制する。
「軍が存在しないということは、戦になれば農民を徴兵するしかありませんね。となれば穀物の収穫量も減り、税も減る。それに伴い国力も下がるでしょう」
「その通りです。しかも我が陶岳国では、山の斜面に小さな農地が連なっています。馬は平地での移動手段、牛は荷を運ぶのに使いますが。牛馬を用いて畑を、一気に鋤で耕すことができないのです。農民が鋤や鍬などの農具を、弓矢や矛といった武具に持ち替えて訓練する暇などありません」
愁飛は礼を告げ、お茶を口に含んだ。卓に置かれた、牛乳を煮詰めて作った飴である奶糖に手を伸ばす者はいない。
陶岳国は戦に向かない国だ。他国から攻め込まれれば、地の利を生かして少数の兵で応戦するしかない。それも奇襲に限られる。
だが、奇襲をかけるにしても兵を訓練し、率いる将あってこそだ。
(だから威龍兄さまは、女性を利用するのだわ。後宮は宮城の一番奥深い部分。そして陛下のもっとも近くに入りこむことのできる存在だから)
宣皇帝の心を虜にして、体を蕩かせて。嫡男が生まれれば太子に、そして皇帝に。
今はもう廃妃となった郭貴妃の実家である郭家が、抱いていた野望と何ら変わらない。
「兄さま。井紅雨という女性でしたよね。威龍兄さまに利用されたのは」
「ああ。彼女は純潔を守ろうとして、相手の男を鈍器で殴ったのです。そして二階から飛び降りました」
愁飛は、ちらっと凌星に視線を向けた。凌星の表情に驚きが見られないことから、すでに柃華が事件の概要を伝えていると判断したようだ。再び愁飛は話しはじめる。
「紅雨は足を骨折しました。幸いにも植え込みに落ちたので、頭部は守られたようですが。歩くこともできず、顔にはひどい傷を負っています」
「今は療養中でしょうが。今後、紅雨の処遇はどうなりますか?」
「壺で殴打された男は亡くなりました。井紅雨を叔父上の娘として認めるという話も立ち消えました。父上も叔父上も、たいそうお怒りです」
愁飛はため息をついて、言葉を続けた。
「威龍兄上も責任を感じるところがあったのでしょう。紅雨は処刑を免れました。ただ一生獄中で過ごすことになるでしょう」
なんということ。柃華はきつく瞼を閉じた。
父親が王族であっても、婚外の子だったから放置して。女としての体が必要だからと、無慈悲な扱いをする。
紅雨という女性は、きっと助けてと叫んだだろう。誰も救ってはくれなかったから。頼りにしていたはずの威龍に裏切られたから。相手を殺してしまったのだろう。
誰ひとりとして救われない。
威龍が野心を抱かなければ、紅雨は貧しくとも真っ当な人生を歩んでいたはずなのに。
(わたしも紅雨も、司楽の有思月もそうだわ。兵を集めることができないからと、威龍兄さまは女性を道具として扱う。これっぽちの罪悪感も抱かずに)
どうすればいいのか。司楽の女官である思月と紅雨を使い捨てにして。威龍はきっとすぐに「次」を捜すだろう。
柃華が陶岳国に赴くわけにはいかない。避暑として許可されている期間を、大幅に過ぎることになってしまうからだ。しかも両親や威龍のみならず、民にも柃華の顔を知られている。
修媛という立場が、王女という身分が柃華の足枷となる。
柃華はお茶を飲んだが、すでに冷めてしまっていた。




