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8、愁飛との再会

 陶岳国から次兄の愁飛(チョウフェイ)がやって来たのは、柃華たちより二日遅れてであった。


 後宮を発つ日、滞在地を柃華は暗号として(ふみ)に忍ばせていた。そしてもうひとつ、事前に愁飛の部屋で鳩を飼育し、その鳩を連れてくるように、と。

 星河宮に戻った柃華が鳩を放てば、元いた愁飛の部屋へと戻るからだ。


 長兄の威龍(ウェイロン)が利用していた伝書の方法を、そのまま真似させてもらう。


 よく晴れているので、柃華たちは昼過ぎから渓谷に遊びに出ていた。目的はあれども、せっかくの避暑なのだ。客桟の部屋でじっと座って、愁飛を待つ訳にもいかない。


「釣れませんね」

「つれないねぇ。なんでだろうね」


 岩場に腰を下ろし、釣り糸を垂れていた柃華がぼやいた。蒼海はしゃがんで、水面をじーっと見つめている。

 一見すると夫の仕事に同行した母子に見える。だが、庶民の中に混じると二人は目立つ。渓谷に立ち寄った人たちが、柃華と蒼海に目を止めて立ち止まるほどだ。


 岩にぶつかりしぶきを上げる水は白っぽいが、川面に枝を伸ばした木々の影が映る水は黒っぽく見える。故郷の陶岳国でも、川といえば急流だったと柃華は懐かしく思った。


「あ、おさかないたよ。ほらほら」と、蒼海が声を上げると魚影は遠ざかった。

 離れた場所に座っている凌星と天遠の魚籠(びく)の中には、すでに数尾の魚が入っている。


「時……いや、柃華。渓流の魚は音に敏感だ。蒼海としゃべりながらでは、魚が声に警戒して逃げてしまう。私と天遠のように無言で、ひたすら景色に溶け込むように動かずに糸を垂らし続けるのだ」


 凌星が教えてくれたけれど。釣りというよりまるで修行だ。

 それでも流れる水の近くは涼しい。客桟も夜は後宮よりも過ごしやすいのだが、渓流の清々しさは格別だ。


「こちらでございます」と、道と川を隔てる林から声が聞こえた。柃華は立ちあがり、ふり返る。


 客桟の主人に案内された男性がやってくる。石が多く足場が悪いのに。山道に慣れているので、ふらつくこともない。その人は、宿の主に礼を告げ、そして柃華を見つめた。


「愁飛兄さま」


 ああ、九年ぶりだ。

 今年二十八になった愁飛は、確かに年を重ねているが。物静かで柔和な印象は変わらない。

 愁飛は金に近い髪をひとつに結いあげていた。陶岳国特有の、衿と袖口に植物模様が刺繍された衣をまとっている。(ズボン)の裾にも同じ刺繍が見える。

 愁飛の懐の辺りが、少し膨らんでいるように見えた。


「久しぶりですね、柃華。元気そうな顔を見て、安心しましたよ」


「おや?」と、愁飛が柃華の腰にしがみついている蒼海に視線を向ける。ごつごつとした石が多い足場の悪い場所なのに、愁飛は蒼海の正面に屈んだ。


「初めまして、蒼海皇女殿下でいらっしゃいますね。柃華の兄の時愁飛(シーチョウフェイ)と申します」

「ツ、ツァンハイですっ」


 蒼海は声を張りあげた。きっと川にいる魚は、すべて今の声で散り散りに去ってしまっただろう。


 凌星と天遠も釣竿を置いて、柃華たちの元へとやってくる。初めまして、の後は凌星は自分の身分をどのように説明するのだろう。皇子であることを明かすのだろうか? と考えていた柃華だが。

 愁飛の口から飛び出した言葉に、呆気にとられた。


「お久しぶりです。柃華と一緒にいらっしゃるということは、あなたが宣凌星(シュエンリンシー)殿下でいらしたんですね」

「再びお会いできて光栄です。時愁飛殿下」


 胸の前で手を重ねて、愁飛は南洛国の揖礼(ゆうれい)をする。


「どちらが上という立場でもないのですから。堅苦しい礼は無しにしましょう」


 待って。ちょっと待って。

 柃華は混乱して、手で頭を押さえた。


 これまで愁飛と凌星が顔見知りであると聞いたことはない。兄は南洛国を訪れたことはないはずだ。


「リンホアさま。だいじょうぶ?」


 蒼海が背伸びをして、柃華の顔を覗きこんでくr。蒼海の黒翡翠の瞳に、戸惑っている柃華の顔が映った。

 母親としては、ちょっと情けない表情だ。


「ツァンハイが、だっこしてあげる。ぎゅーっね」


 蒼海の甘い匂いと、渓流の水の匂いが混じっている。子ども特有のぬくもりに包まれて、柃華は瞼を閉じた。


(ああ、この愛らしさで心は和むけれど。お兄さまも凌星さまも、全然教えてくださらないんだもの)


 腰の辺りを蒼海に抱きしめられながら。嬉しいのか文句を言いたいのか柃華は分からなくなってしまった。


 凌星と愁飛は、事前に柃華に話していなかったことを詫びた。愁飛は「まさか一度会ったことのある彼が、南洛国の皇子だとは思わなかったのです」と説明した。


 吟遊の旅だと、その青年は話していた。それが凌星と天遠であった。


「私は父に命じられて、天遠と共に陶岳国を含む周辺国に滞在していた。まぁ、平たく言えば密偵だな。主に新興国として力をつけてきた陶岳国に赴いていた期間が長い。今だから言えるが、陶岳国の内部を探るようにとの指示を受けていた」


 その頃には柃華は、すでに南洛国の後宮に入っていた。

 もし凌星の報告次第では、柃華の立場はさらに悪くなっていたかもしれない。だが、柃華はただ以前と同じように放置されていただけだった。


(王宮の内部にまで入り込んでいたのなら、凌星さまはわたしの父さまや威龍兄上の企みを耳にしたこともあるかもしれない。この人なら口の軽い侍女や宮女をたぶらかして、情報を手に入れることなど苦も無くなさるだろうから)


 けれど、そうはならなかった。


「私は急峻な嶺に咲く、雪蓮(せつれん)を見てしまったからな」


 そうか、だから凌星は雪蓮を知っていたのだ。あの険しい山を登った者だけが出会うことのできる花を。青に青を重ねて、黒のように見える快晴の空を。夏でも喉や肺が冷えそうな、冴えた風を。


 凌星は噂されているような、位の低い女官との結婚を反対され、宮城を出ていったわけでもない。宦官と無理心中を迫られて逃亡したわけでもない。


「真実を話せず申し訳なかった。時修媛、愁飛殿下」


 深々と、凌星が頭を下げる。愁飛は、すぐに頭を上げるように告げた。


「もしこれが威龍兄上であれば、自分も密偵を送り込んでおきながら激怒したでしょうが。自国を守るために隠密の行動をするのはいずこも同じです。むしろあなたを追い返したからこそ、威龍兄上の密偵は、柃華に見破られたのでしょう」

「やはり琵琶ですね?」


 柃華は問うた。

 威龍にさし向けられた、司楽の思月と凌星。ふたりには接点はないが、ただひとつ重なる点はある。


 それは琵琶だ。思月は琵琶の構え方が国によって違うことと、義甲での奏法を知っていた。だが、その知識を得たのは南洛国の女官になってからだ。


 仮に凌星が琵琶の奏者として、陶岳国の王宮に入ることができていたなら。威龍は最先端の奏法を知ることが可能であっただろう。凌星と会話をしていれば、左利きは南洛国に存在しないと教えられていたかもしれない。


 そうであれば側寫に手間取ることになったかもしれない。琵琶の弦を断ち切ったのは柃華であるという冤罪は免れなかった。


「不思議な縁ですね。凌星さまが間者としての役割を全うなさっていれば、わたしは冷宮送りになっていたのですから」

「ふだんのように女装しておけば成功したのかもしれないな。だが、時修媛につらい思いをさせずに済んだ」


 柃華と凌星の会話を眺めていた愁飛が、視線を落とした。ふたりの間に蒼海が立ち、右手は柃華と左手は凌星とつないでいたのだから。


「まるで親子みたいですね」

「あのね、おててつないだらね、ぴょーんてしてくれるの」

「ぴょーん、ですか? それはどのようなものでしょう」


 想像がつかないのだろう、愁飛は首をかしげた。父と母に手をつないでもらい、歩くたびに地面を蹴って宙に浮かぶ。そんな遊びを愁飛はしてもらったことはない。むろん、柃華もだが。


「見せてあげようか?」と言い始めた蒼海を、凌星はかろうじて止めた。

「昨日も親子に間違えられましたよ」と、柃華は得意げに話す。


「やはり父や威龍兄上は、柃華の嫁ぎ先を選び間違えたと思います。どうして娘や妹の幸せを願うのではなく、その人生を当たり前のように利用するのでしょう。あなた方は、こんなにも睦まじいというのに」


 愁飛は憂いを帯びた目をした。

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