7、客桟に泊まる
柃華たちが避暑に訪れたのは、渓谷が近い森だった。都の臨洛を早朝に経った馬車は、夕暮れになってようやく目的地に着いた。
柃華も蒼海も飾り気のない簡素な衣をまとっている。絹の襦裙ではなく、木綿だ。麻ほどにはみずぼらしくないが、絹のような光沢はない。袂のない筒袖なので、一見すると宮女のように見える。むろん、簪もつけていない。
「すずしーい。すごいねぇ」
先に馬車から降りた天遠が、蒼海を抱えて外に出す。手を伸ばせば枝垂れる木の葉に触れることができそうで。蒼海は一生懸命に緑滴る葉に触れようとしている。
どうやら渓谷が近いようだ。水が流れる音が聞こえる。
柃華は空を見あげた。山が近いこともあり、空はまだ明るいのに地上は影に沈んでいる。生えている木も、冷涼な気候で育つ白樺が多いのだろう。樹皮がめくれている白い幹を見ていると、陶岳国を思い出す。
侍女頭である任春も同行するつもりであったが。運悪く夏風邪をひいてしまい、星河宮に残っている。
陛下が知れば「他の侍女を連れていけ」と命じるだろうが、次兄の愁飛と落ち合う以上、任春以外は連れていけない。なので陛下には内緒だ。
――ご無理をなさらないでください、柃華さま。絶対ですよ。妃嬪であることがばれたら、危険です。ああ、なんで私はこんな大事な時に風邪なんて……げほげほ。這ってでもお供したいのに……ごほっごほっ、うえぇ。
濁った声で訴える任春は、咳きこみすぎてえづいていた。
――まぁ、この優秀な侍女、白紫安がついているからな。侍女頭どのは大船に乗った気でいなさい。
――不敬を承知で申し上げますが。泥船の間違いでは?
なぜか凌星にするどい突っ込みを入れる時は、任春は明瞭な声を発した。
「移動で疲れただろう。今日はもう休もう」
凌星が宿に入るように促され、柃華は我に返った。
反り返った瓦屋根。『天涯客桟』の看板が掲げられている。
「客桟は泊まったことがあります。入宮する時に臨洛まで何日もかかったので、利用しました」
「それは国営の客桟だな。ここは民間が経営している」
なるほど、確かに自分の記憶にある宿とは雰囲気が違う。凌星の言葉に、柃華はうなずいた。
国営であれ民営であれ、一階が食堂になっているのは共通のようだ。
天遠が宿泊の手続きをしてくれている間、柃華は蒼海と手をつないで客桟の建物を眺めていた。
赤い紙でできた提灯が軒から吊るされており、静かな森の情緒はどこに? と思えるほどだ。ただ、その賑やかさが蒼海は楽しいようで、瞳を煌めかせている。
(そういえば。蒼海が未来視をしていたけれど。あれは愁飛兄さまの文のことだったのよね?)
――わかりました。
蒼海は確かにそう告げた。瞳に紫の光を宿しながら。
(分かったも読めたも。兄さまが潜ませた暗号を、わたしが解読できたことだと思うのだけど)
だが、柃華は今のところそのような言葉を発していない。蒼海に尋ねたいが、たぶん「なんのこと?」と返されるだろう。
客桟の食堂は、宿泊者以外も使用するので賑わっている。旅館部分である二階は人が少なかったので、柃華は意外に思えた。
「なに、ここ。すごーい」
「本当ですね。しかもほぼ男性じゃないですか」
女の園で暮らしている蒼海と柃華にとって、宦官以外の男性と接するのは凌星や宣皇帝くらいだ。
むわっとした汗くさい臭いと、料理で使う油や醤油の匂いが食堂には満ちている。そして酒、さらに紙で巻いた煙草から出る煙も混じっている。どうも商人が多いようだ。
八角草の煙草の臭いは、威龍を思い出させる。柃華は苦い気持ちになった。
「今日は移動で疲れただろうからな。星河宮と違い、落ち着かんだろうが。しっかり食べた方がいいぞ」
「ここは交通の要所なんですね。もっと静かな宿は近くにあるでしょうが、賑わっている方が愁飛兄さまに会うのも目立ちませんね」
「分かってくれて嬉しいぞ。時……いや、えっと柃華」
さすがに後宮の外、しかも男性の多い場所で「時修媛」と呼ぶわけにはいかないのだろう。柃華の身分がばれては、誘拐される可能性もある。だからこそ柃華や蒼海だけでなく、凌星に天遠までもくたびれた衣を着ているのだ。
「凌星さまに名前で呼ばれると、妙な感じですね」
「妙とは?」
何気ない言葉だったのに。凌星が柃華に問いかけてくる。
「いや、何となくです」と柃華が返しても、青菜を炒めた油菜や蒸し鶏が運ばれてきても、凌星は答えを待っている。
うう、視線に圧がある。
「なんだなんだ。夫婦喧嘩か?」
隣の卓の男から声がかかった。どうやら無言で向き合っている柃華と凌星を見て、夫婦と勘違いしたようだ。
これまで野次られたことのない柃華は驚いて、箸を持つ手が止まってしまった。
いや、夫婦って。確かに蒼海という小さな子はいるけれど。天遠さまもいるし。
「あのね、リンホアさ……リンホアはツァンハイのおかあさまなの」
蒼海は柃華の腕を摑んだ。さすがに人見知りをしない蒼海だ。見知らぬ中年男性に堂々と紹介している。
「母ちゃんを名前呼びかぁ。びっくりだな」
「可愛い嬢ちゃんのためにも、仲直りをしなよ。色男。そっちの兄ちゃんも困っているぞ」と、男は天遠を指さした。
「私は使用人というところでしょうか。あながち間違いではありませんが」
天遠が声をひそめて、斜めの席に座る柃華に話しかける。確かに凌星も天遠も何度も洗って色あせた衣と、細めの褲を履いているが。凌星の生来の品格は、どうしても溢れてしまうものなのかもしれない。
煙草の臭いに、賑やかな話し声。ほとんど男ばかりという状況で、柃華は料理の味がよく分からなかった。
明日か明後日には愁飛もこの地に着くことだろう。
天涯客桟の二階の部屋で、柃華は蒼海と床に就いた。凌星たちの部屋は隣だ。
「リンホアさま、おにんぎょうもいっしょにねていい?」
「いいですよ。今日も蒼海はおりこうさんでしたね」
「うん。ばんごはんね、しょっぱかったけど。おのこししなかったよ」
「後宮と違い、主に荷物を運ぶ男性が食べる物ですから。汗をかくのでしょうね、塩気が強かったですね」
すべすべの陶器人形を撫でながら、褒められた蒼海は微笑んだ。
柃華が蒼海を褒めたかったのは、食事のことだけではない。柃華の「さま」づけで呼ぶのを止めたのだ。理屈は分からずとも、とっさの判断だろう。
階下の食堂では、まだ酒宴が開かれているのだろう。ぼわぼわとくぐもった話し声が、床から伝わってくる。
窗から聞こえるのは、渓流の水音。蒼海を抱きしめながら、柃華は眠りに落ちていった。




