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6、陶岳国の兄弟

 陶岳国の第二王子である時愁飛(シーチョウフェイ)は、兄の威龍(ウェイロン)に謁見していた。

 たとえ威龍が王太子であるとはいえ、まだ王として即位はしていない。なのに、威龍は壇上の椅子に腰かけ、愁飛はまるで臣下のように床に敷いた絨毯で跪いている。


「旅に出たいと父上に申し出たそうだな、愁飛。暢気なものだな」


 威龍が椅子の肘掛けの部分を、指でこつこつと叩いた。


「父上のお許しはいただきました」

「父は半ば耄碌(もうろく)している、正常な判断ができん。後継者ではないとはいえ、王子をふらふらと遊びに行かせるなど。意味のないことだ」


 耄碌(もうろく)なさっているのは兄上でしょうに。こんな小国が、大国の内側に忍び込んで牙を立てようとしている。そんなのは無駄であるのに。

 言いたい言葉をぐっと飲みこんで、愁飛は笑顔を浮かべた。


 ここからが本番だ。長兄の心理を探り、交渉の主導権を自分が握らなければならない。そのためには笑顔を浮かべることも、言葉を重ねることもたやすい。


「我が陶岳国は歴史の浅い国。文化と伝統がございません。南洛国に赴き、書や画を集めてこようかと思います」


 愁飛の指摘に、威龍は眉をひそめた。建国して二十年ほどの陶岳国には、洗練された文化がない。辺境の部族であるという劣等感が、威龍は王族の誰よりも強い。それゆえ決して歴史の古い南洛国の王都へ赴かない。


「南洛国の真似をすることも無かろう。我が国を尊び、和睦を結びたいという部族もある」


 黒水族(こくすいぞく)のことか、と愁飛は察した。

 まだ国を興すに至らない部族におだてられて、威龍は悦に入っているようだ。確かに黒水からすれば、建国二十年ほどの陶岳にでもすり寄ってくるだろう。


「学びは真似ることから始まります。大国の書や詩、画を模倣させて文人墨客(ぶんじんぼっかく)を育成すればよろしいのです。さすれば黒水の民も、さらに我らを称賛するでしょう」


 愁飛は言葉を選んだ。長兄の気分を害さずに、自分の意見を通すには慎重にならねばならない。


「南洛国に赴き、書や画を入手して参ります。それに筆に硯、紙や彩色のための顔料も必要です。洗練された文化が花開くためには、道具が必須ですから」


 なんとかして南洛国へ行く許可を、威龍から得なければ。でなければ、愁飛は柃華に会うことも叶わない。


「愁飛。そなたは俺が粗野だと言いたいのか?」


 鋭い語調で威龍が問いかける。


 ほら、来た。愁飛は笑顔の仮面を外さずに警戒した。あなたがそんな風だから、民に目を向ける政策を取れと言えないのだ。

 もし愁飛が、威龍を諫めたら。威龍は激怒して、実の弟であっても獄舎に放りこむだろう。大臣たちも、まだ王太子である威龍を恐れている。


 側寫(そくしゃ)の術を応用し、愁飛は長兄の心理を読む。愁飛と柃華は習得している術だが。威龍はつまらない技だと馬鹿にしている。


 かつては威龍とて、民を守るためにと側寫を学んでいたというのに。

 立太子されてから、威龍は「なにゆえ王太子が地面に落ちたゴミを拾って確認しなければならない。何度も何度も現場に足を運ばねばならない。そんなのは下賤の民のすることだ」と側寫に見向きもしなくなった。


(けれど兄さん。あなたは馬鹿にしてきた側寫によって、足もとをすくわれるのです)


 愁飛は深く息を吸った。


「大国から、粗野で無知な民と侮られるのではないか。その点は陶岳国の誰もが危惧しております。私も同様です。ですから洗練された文化を知るために、外に出たいのです。黒水族の憧憬の念を崩してはなりません」

「なるほど」


 威龍はうなずいた。


「確か南洛国では楽器の演奏も盛んだそうだな。宴席では二胡や琵琶が奏でられるという」


 長兄の口から琵琶や二胡の名が出たことに、愁飛は驚きを隠せなかった。

 陶岳での宴で奏でられるのは、笛程度だ。それも雅な筒笛(つつぶえ)ではなく、酔いに任せて角笛を吹き鳴らす。角笛の()を戦わせるように、威勢よく吹くのだ。


「兄上が遊学をお認めくださらないのは、分かります。我らは民の統一が遅れただけで、決して劣っているわけではございません。ですが、急峻な嶺のせいで文化の伝播が遅れているのも、また事実。意志を持ってあの山を越えれば、我らにも洗練がもたらされます」


 愁飛は注意を払いながら、言葉を重ねた。

 兄の自尊心を傷つけてはならない。豪胆に見える威龍だが、実際はかなりの神経質だ。主に田舎者、不粋、野蛮という点に関して敏感なのだ。


(嫌なものです。兄弟で会話をするだけだというのに。相手の心理の裏を読み、こちらの真意を隠さねばならぬとは)


 ただ楽しかったことを報告し、笑いあっていた子供の頃には戻れない。


「そうだな。我らは劣っているわけではない」


 弟の言に満足したように、威龍がうなずく。


「まぁ、急く必要もなかろう。愁飛、お前がわざわざ他国へ出向かずとも、俺の手駒はすでに南洛国に入りこんでいる」

「柃華のことですか? 妹を駒扱いするのは如何かと」


 怪訝な表情を浮かべる愁飛を見おろして、威龍は笑った。癇に障るほどの大笑いだ。


「あんなものは駒でも何でもない。宣皇帝を虜にできん妹など、すぐに冷宮送りになるだろうさ」


 冷宮という単語が、愁飛の頭の中で意味を結ぶのに時間がかかった。


 まだ柃華が幼かった頃、威龍は確かに妹を可愛がっていた。そう、まだ建国して日も浅い頃だった。歴史のないことが劣等感となる。洗練された文化のないことが恥となる。そう考えだしてから、威龍は妹を道具として見るようになった。


「兄上は冷宮をご存じないから、簡単に柃華を修媛から廃すればよいとお考えなのです」

「そなたは知っておるのか?」


「はい」と答えた愁飛は、冷宮送りにされた妃嬪がいかに惨めな暮らしであるかを語った。食事もろくに与えられず、掃除もされず虫が湧き、夏は耐えがたい暑さであり、冬は凍えて命を落とす者もいる。それが冷宮だ。


「ふぅん。よかったではないか?」


「は?」と、愁飛は素っ頓狂な声で返した。


「幸いにも柃華は酷寒に慣れている。陶岳の冬を思えば、臨洛の寒さなどたいしたこともなかろう。夏ならば、衣をはだければよい。柃華は食も細い方だしな」


 この人は、本気で言っているのか? 


「しかし愁飛。そなたはよく冷宮のことなど知っているな。どこで仕入れた知識だ」

「南洛国の宮城で商売をしていた者が、教えてくれました。あくまでも噂ですが」


 愁飛は動揺を悟られぬように、声を落とした。欲に取りつかれているのに、威龍は妙なところで聡い。


 商人の話は嘘ではないが、真実を話せるはずがない。かつて幼い柃華が雪崩を予知して、商隊を救ったことがあった。その話は我らの知らぬうちに、南洛国の王宮で広まっていたらしい。


 いつであったか、そう三年前のことだ。

 愁飛は出会ったのだ、急峻な嶺を越えてきた青年とその従者に。その青年は布に包んだ楽器を背負っていた。何かと愁飛が問うと、琵琶だと彼は答えた。涼しい面立ちの美しい青年だ。


 ――まぁ吟遊と申しますか。陶岳国の王宮で琵琶を奏で詩を吟じることができればと思い、山を越えたのです。


 各地を巡る長い旅であったのだろう。青年も従者もまとっている衣はすり切れていた。それでも青年の品の良さは損なわれることがなかった。


 ――なんとも美しい琵琶ですね。細工が素晴らしいです。それに、(ばち)を用いるのではないのですね。

 ――かつては撥を用いていたそうです。荒々しいからこそ、心を揺さぶる奏法ですね。


 青年は義甲(ぎこう)という、ほんの小さな板を見せてくれた。

 ぜひ王宮で父や母に聞かせてあげたいと愁飛は願ったのだが。威龍に却下された。

 中央の琵琶を見せびらかしに、わざわざ辺境まで来たのか。洗練された音楽を自慢しに来たのかと。

 長兄の非礼を愁飛は、青年に詫びた。


 ――私の妹は南洛国の後宮に入っているのです。妹は義甲で弾く琵琶を聞いてるのでしょうか。そのような素晴らしい経験をしているといいのですが。


 それは兄としての願いだ。柃華は嬪といえども人質も同然。ゆったりと雅な暮らしをしているとは限らない。


 ――後宮に輿入れなさっているのなら、妹さんとはお会いすることは叶わないでしょうが。もし万が一にも機会があるのでしたら。せめて風に乗せて、紅色の壁の向こうまで琵琶の音を届けて差し上げたいですね。

 ――紅色の壁?


 そう問いかけて、愁飛は気づいた。自分も威龍も、おそらくは父でさえも南洛国の後宮の壁が紅いことを知らない。

 皇城(こうじょう)の奥が宮城、さらにその奥が後宮だ。一般の人目につく場所ではない。だがこの青年は知っている。知ることのできる立場にあるのだ。


 しつこく食い下がったからだろう。威龍は渋々、愁飛が旅に出ることを認めた。

 そしてぽつりと呟いたのだ。「鳩が戻ってこぬのだ」と。

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