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1、陶岳国の紅雨

 夏だというのに、陶岳国の急峻な山の斜面から吹き下ろす風は冷たい。

 井紅雨(ジンホンユィー)は、王宮の一室で目を見開いた。蒼天のような青い瞳に映っているのは半裸の男だ。

 床に転がった男は、すでに息をしていない。木の床にじわりと鮮血が広がっていく。


「は、はははっ。なによ、それ。なんで簡単に死んでんのよ」


 紅雨(ホンユィー)の手から花瓶が落ちた。男の頭を殴っても割れなかった花瓶は、床にぶつかった途端はかなく砕けた。


「ようやく迎えが来たのに。母さんに楽させてやれると思ったのに」


 飛び散った花瓶の破片を紅雨は踏んだ。足裏に鋭い痛みが走る。足だけではない、心はとうに痛んでぼろぼろだ。

 二十歳にもなってようやく王族である父は紅雨を娘と認めてくれた、王宮に呼び寄せてくれた。これで飢えることもない、日々の食事が、わずかな蕎麦の実の粥という暮らしから抜け出せる。なのに。


「……威龍(ウェイロン)さま。あたしがこんな男にいいようにされても平気だったんですか。あたしなんて、どうでもよかったんですか」


 紅雨の寝衣の前ははだけられ、白く重たい胸が覗いている。


 一年前。初めて威龍に出会った日のことは、鮮やかに覚えている。王太子に見初められなければ、紅雨は貧しいままだった。


 ――紅雨と申したな。幼い頃から山羊の乳を飲んだり、奶酪(ナイラオ)を食べたりしていないのか?


 いいえいいえ、威龍殿下。うちは貧しくて、酸味のあるどろりとした酸奶(スアンナイ)も熱を加えればとろりと溶ける奶酪も買うことができませんでした。

 

 母さんはいつも床に就いたままで、なのに夢見がちで。


 ――紅雨、あなたのお父さまは立派な方よ。王族の一員でいらっしゃるの。王さまのお母さまの弟君だから、王さまから見れば叔父にあたるわね。いつか私たちを家族として王宮で暮らせるようにするって、約束してくださったの。


 ひなびた野菜がほんの少し入っただけのスープを、母さんは大事に飲んでいた。


 今は痩せこけているけれど。若い頃はあんたの母さんはとても美人だったんだよ、と近所の人がよく話していた。だから高貴な方のお手がついたんだね、とも。


 側室とはいえ王宮で暮らすのであれば、教養も必要だ。母と子供であった紅雨は、揃って寺院に通い文字を習った。

 紅雨が五歳になっても、十歳になっても、十五歳になっても迎えは来ない。


 ――本当に王族になれるの? 王族なら、なんであたしたちは食べる物にも事欠く生活をしないといけないの? 隙間風が吹きこむボロ屋で暮らさないといけないの?


 でも、十九歳を迎える前にとうとう来たのだ。王宮からの迎えが。この戸すらもちゃんと閉まらないボロ屋に。

 しかもこれまで家族を見捨ててきた父ではない。王太子だ。次の王だ。


 馬に騎乗した時威龍(シーウェイロン)は、鍛え上げられた体をしていた。背後から照らす夕日が、威龍を神々しく見せている。


 ――ようやく見つけた。


 その鋭い眼光に見据えられた時。紅雨は草の中にへたりこんだ。手に持っていた麻袋が地面に落ちて、貴重な蕎麦の実がこぼれてしまった。

 いつもならそんなヘマをしたら、すぐに蕎麦の実を拾うのに。一粒も残さずにつまんで袋に戻すのに。

 威龍の鋭い視線に縛られたかのように、紅雨は動くことができなかった。


 とうとうあたしの番が来た。夢物語じゃなかった。母さんは王族とは名ばかりの男に遊ばれただけだけど。あたしは違う。

 王太子自らが、あたしを見つけて迎えに来たんだ。


 ――叔父は阿呆か。(しず)()との快楽だけを貪って、落としだねは放置か。小さい頃から面倒を見ておれば、もっと体も育ったであろうに。

 威龍の言葉は難しくて、紅雨にはよく理解できなかった。

 けれど、これだけは分かった。紅雨と母を捨てた父に対して、威龍は怒ってくれている。

 この人は……王太子さまはあたしの味方だ。


 ――井紅雨。これからお前は時紅雨となる。栄えある王族の一員だ、俺と一緒に王宮に来い。お前の母親の暮らしも楽になろう。母が病ならば医官に診せてやろう。


 まさに救いだった。十九年間、労働と飢えに苦しみ、病弱な母を支えてきた紅雨への報酬だ。


 顔すら知らぬ父、過去の栄光ばかりを語る母。まっとうに育っていない紅雨は、手を差し伸べてくれる威龍にすぐに縋りついた。


 ――どうしてこの娘の手は荒れているのだ。顔も腕も足も、肌がかさついている。馬油を塗ってやれ。

 ――伸び放題の髪をきれいにしてやれ。髪も艶が出るようにするんだ。さぞや美しい娘となろう。


 王宮で暮らしはじめた紅雨の世話をするようにと、威龍は侍女たちに命じてくれる。

 部屋の掃除や洗濯をすると紅雨が言えば、威龍は首を振る。


 ――雑用などする必要はない。お前に必要なのは王族の一員としての美しさと輝きだ。つまらぬ水仕事などすれば、また手が荒れてしまうではないか。


 威龍は紅雨を公式の場にも出すようになった。学校や診療所への視察へも、紅雨を伴った。そこでは王族としての立ち居振る舞いや品格が求められる。


 ――この陶岳国がいかに民の暮らしを大事にしているか、教育水準を上げようとしているか。お前はそれを語れるようになりなさい。


(ああ。これは王妃教育だわ。威龍さまはあたしを好いてくださってるんだわ)


 労働を免じられ、王族の一員として人前に出るようになった紅雨は、輝くばかりに美しくなった。

 陶岳国の言葉ではない、別の国の言葉の勉強もさせられたけれど。飾りだけの王太子妃ではないのだから、頑張った。


 歩く時の猫背も直した。恭しく手を重ねて、礼をすることも。食事の時の箸の持ち方、音を立てずに匙で汁を飲むことも。毎日が学ぶことの連続だった。

 威龍にふさわしい妃となるように。この透岳国の立派な王妃として振る舞えるように。


 母が無欲であったばかりに貧乏生活に甘んじていたが、元々王家の血を引いているのだから、威龍が紅雨をあるべき場所に戻してくれたのだ。

 だから衝撃を受けた。威龍の放った一言に。


 ――紅雨。今日からは性技を仕込んでもらう。この男は娼館で、店出しのために娼婦を教育している。なに、筆も紙もいらん。その体に技を叩きこめばよいのだ。お前はその技を武器に生きていくのだ。


 八角草(はっかくそう)の煙草をふかしながら、王太子はつれてきた痩せぎすの男を眺めた。


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