6、思月の鳩
よく晴れた午後は、眠気を誘う。星河宮の回廊に置いた椅子で詩を読んでいた柃華は、書から顔を上げた。庭では蒼海が碰玲で遊んでいる。
――庭前に風鈴草あり りりりりと風に群れては銀嶺の音
詩の一節のように、庭では風鈴草が揺れている。
「陶岳国の山にも、風鈴草は咲いていたわね」
司苑が丹精込めて育てた立派な風鈴草とは違い、高地にひっそりと咲く花は小さく寂しい様子だった。
リィィンと澄んだ音が聞こえる。蒼海が碰鈴を鳴らしたのだ。
「風鈴草の花も鳴るならば、こんな風に澄んだ音色なのかしら」
ぽつりと呟いた柃華は、突然の衝撃に目を丸くした。い、痛い。
見れば、座っている柃華に蒼海が飛びついていた。油断していたから、柃華は体の力を抜いていた。
咳きこむ柃華を見上げた蒼海が「リンホアさま、だいじょうぶ?」と案じてくれる。
「だ、大丈夫、ですが。せめて声をかけてくださいね」
そういえば皇后娘娘から聞いたことがある。「蒼海は瞬発力があるのか、足が速いのか分からないけれど。とにかく予測できないうちに飛びついてくるの。あれは痛いわよ」と。
他にも「蒼海と一緒に寝ている時にね、わたくしのあごを頭突きされたの。目がチカチカするほど痛かったわ」とも。
柃華は蒼海と一緒の架子牀で眠っているが。今のところ頭突きはされていない。ただ、よく蒼海が上に乗っかっていることがある。あれは痛いというより、重い。
知らなかった。子育てって痛いんだ。
「あのね、とりさんだよ」
ほら、と蒼海が空を指さした。三羽の白い鳩が、星河宮の上空を横切っていく。
あれは長兄の威龍と司楽の女官である思月が使用していた鳩だ。柃華は立ちあがった。
「思月はもう司楽ではないのに」
貴重な琵琶の弦を切り、その罪を柃華にかぶせようとした思月は奴婢に落とされた。
宮女よりもさらに下の身分だ。
思月は、威龍の名を出さなかった。自分ひとりの犯行だと主張したらしい。彼を庇ったの事なのか、あるいは罪を軽くするためなのか。間者であることがばれたら、待ち受けるのは拷問だ。
確か思月は後宮を追いだされ、宮城の外の皇城にある獄舎の掃除をさせられていると聞いたことがある。
犯罪者の捕らえられた牢の中に入り、敷いてある筵を干してまた戻す。箒で床を掃いている間も、投獄されている者に野卑な言葉をかけられ、押し倒されることもあるという。
鳩は一心に飛んでいる。向かう先は鳩舎だろう。帰巣本能の強い鳩は、どれほど遠くから放たれても元の住処に戻るという。
「蒼海、わたしは出かけます。一緒に来ますか?」
「うんっ」と元気よく、蒼海が返事する。
柃華は部屋を覗いて、侍女に水を頼んだ。侍女はすぐに竹筒に入れた水を持ってきてくれる。
柃華は蒼海を抱き上げて、任春か凌星を捜す。ちょうど折よく紫安の格好をして、回廊を歩く凌星の姿が見えた。
侍女頭の任春は、紫安が男性であることを知っているが。意外と、それ以外の侍女は気づいていない。
ふつうに考えれば、一国の皇子が侍女として自分よりも品階の低い嬪に仕えるなどありえないので。疑いもしないのだろう。
鳩が戻って来たという事情を説明すると、凌星はついて行くと言った。
「鳩舎は、おそらくは女官の宿舎の近くにあるでしょう」
柃華は蒼海と手をつないで、星河宮の門を出た。司楽の侍女はどの宿舎で暮らしているのか、柃華は知らない。そもそも上級女官と下級女官は宿舎は違う。
それでも侍女なら、属している宮で生活するから。妃嬪に話を通さなければならないから、面倒は少ないかもしれない。
「司楽の女官の宿舎はこちらだな」
凌星が迷うことなく方向を定める。天遠も主に従った。
(この人は、あまたある後宮の建物すべてが頭に入っているのだろうか)
呑気そうに見えるのに。外の世界に出たことのある皇子にとって、情報は何よりも大事なのかもしれない。
鳩舎は宿舎の裏手にあった。色あせた板を組み合わせた箱のような形状をしている。扉が開いていないせいだろう。鳩舎の上に鳩が三羽とまっていた。
「いつもなら思月がすぐに鳩舎の中に入れてあげていたのね」
南洛国では、鳩に書を託すことはない。思月は連れてきた鳩を、衣の袖や懐に隠していたに違いない。
鳩は飛ぶ姿だけを見ていたら、とうてい懐になど入らないように思えるが。それは錯覚だ。鳩の翼が大きいが、胴体部分が小さい。なので、狭い空間にでも収めることができる。
鳩舎の中には、空になった器が置いてある。その器に柃華は水を満たした。
相当に喉が渇いていたのだろう。警戒しながらも鳩は中に入り、一心に水を飲んだ。
「遠いところを飛んできたのね」
白い羽はところどころ傷んでいる。猛禽に襲われたわけではなさそうだが。やはり山の峰を越えるのは風も強く、大変なのだろう。
「とりさん、びゅーんってとんだの?」
「そうね、一生懸命に飛んだのね」
麻袋が鳩舎の隅に置いてあった。開いてみると雑穀が入っている。鳩のエサだろう。
やはり空の皿に、柃華は手ですくった雑穀を入れた。乾燥した穀物の匂いが広がった。鳩は警戒するのも忘れて、雑穀をついばんでいる。
世話をする思月はもう後宮にはいない。蒼海が鳩が帰ってきたことを教えてくれなければ、長い旅路を経た鳥たちは飢えたままだったろう。
「足に紙がつけられているわ」
餌を食べる鳩に気づかれぬように、柃華は紙を縛る紐を外した。




