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4、皇后娘娘の名

 幸いなことに柃華の長兄である威龍が南洛国の後宮に密偵を忍ばせていたことは、皇帝から問われなかった。問われなかった。


(もしかして。凌星(リンシー)さまが伏せてくれていた?)


 貴重な琵琶の弦を切った有思月(ヨウシーユエ)は、柃華を陥れようとした。その点だけを処罰された。

 必要以上に事を荒立てては二国間の諍いになる。次に起こる犯罪を未然に防ぐ、それは側寫の考え方と近い。


「凌星。蒼海(ツァンハイ)は妙なことを申してはおらぬか?」


 皇帝の問いかけに、柃華の体に緊張が走る。思わず傍にいる蒼海の手を握ってしまった。

 今、陛下に蒼海の未来視について話すことは、凌星が責務を果たすだけのこと。それを柃華に止める権利はない。


 それでも願わずにはいられない。

 蒼海の未来のため、ふつうの日常のために。どうか報告しないで、と。


 凌星が礼を取り、前に進む。

 皇帝は急ぎ話が聞きたいのだろう。浮碧亭の中に入って座ることもなく、立ち話のままだ。それほどに蒼海の力を気にしているのだ。


「陛下にお伝え申しあげます。私は星河宮にしばらく滞在しておりました。今のところ、皇女に変わったところは見受けられません。あ、いえ。全くないわけではございませんが」


 凌星は言葉を切った。

 蛙が蓮の葉から池に飛び込んだのだろう。ぽちゃん、と水音が聞こえた。続く凌星の言葉を待って、柃華は息を呑む。


「今日もですが、皇女は緞帯(リボン)が縦結びになっても、決して直させてくださいません」

「なんだ? それは」


 思ってもいない報告だったのだろう。陛下が怪訝に眉を上げる。


時修媛(シーしゅうえん)以外、お気に入りの緞帯(リボン)を触らせないようです。ですが、時修媛は不器用でいらっしゃいます」


 しばしの沈黙の後、陛下は笑いだした。軽やかな笑い声が広がっていく。


「なんとまぁ、些細なことに目が向くのは侍女のなりをしているからか? よかろう。一国の皇女が不格好な緞帯をつけていてはならぬ」


 なんという余計なことを。凌星の想定外の報告に、柃華は歯ぎしりした。


(確かにわたしが不器用なことは認めるけれど。それをわざわざ陛下に伝える必要がある?)


 宣皇帝(シュエンこうてい)が望むのは、蒼海が立派な公主として封ぜられること。そのためには知識に教養、品位あるふるまいも求められる。


「確かに蒼海の髪に結んだ緞帯は、不格好ではあるな」

「……いいの」


 父親に見据えられて、蒼海は柃華の後ろに隠れた。


「ツァンハイね、リンホアさまがむすんでくれるのがいいの」


 蒼海が意見したのがよほど珍しいのだろう。陛下は片方の眉を上げた。まるで続く蒼海の言葉を待つかのように、身動きをしない。


「みんな、おかしいっていうけど。おかしくないの。リンホアさま、がんばってむすんでくれるもん」


 さっきまで背後に隠れていた蒼海が、一歩前に出る。小さなこぶしを握りしめて、声を張りあげた。


「ツァンハイも、リンホアさまといっしょにれんしゅうするもんっ!」


 柃華だけではなく、宣皇帝も呆気に取られてしまった。

 無邪気で人懐こい蒼海だが、父親である陛下のことは苦手意識があるのに。ろくに会話もしないのに。

 ただひとり涼しい表情をしていたのは、凌星だ。


「つまり勇ましく庇うほどに、蒼海さまは時修媛を慕っているのです。義母としての役割を越えた愛情が、時修媛にあるからでしょう」

「なるほど。妙なこととは、蒼海の様子が変わったことか。確かに母を恋うて泣いてばかりだったのにな。蒼海は前を向いて進んでおるのだな」


 皇帝が柃華の前まで進んだ。そして微笑んだのだ。

 初めてだ。柃華が入宮してから、陛下に笑顔を向けられたことは一度としてなかった。

 これはきっと皇后娘娘ファンホウニャンニャンが見慣れていた夫の姿だ。


――時修媛。いいえ、柃華。あなたは陛下のことを冷淡な人だと思っているでしょう? 新興の陶岳国を恐れるがあまり、あなたを輿入れさせた挙句に放置ですもの。互いに寄り添えないのも当然でしょうけれど。


 ふいに柃華の内に、皇后娘娘の声が響いた。あまりにも懐かしい、柔らかな声だ。


――いつか陛下があなたを自由にしてくださるように、わたくしからもお願いをしてみましょう。この窮屈な後宮から旅立つあなたを、わたくしは見送ります。寂しいけれど……でも、便りを送ってくださるわね?


和音(フゥーイン)さま」


 柃華の口から皇后の名がこぼれた。皇后にしては素朴な名を呼ぶだけで、柃華の心は震える。

 うつむいていては、きっと涙がこぼれる。懐かしいあの人の名を呼んでしまったのだから。皇后娘娘という身分ではなく、徐和音(シューフゥーイン)というひとりの女性の名を。


 上空では風が強いのだろう。雲が楊柳(ようりゅう)(わた)のように散っていく。その白い雲の中に、瑠璃の粒が見えた気がした。

 空よりも深い青。和音さまがいらっしゃる処。


「ああ。久しく和音の名を聞いたな。そうか、時修媛。和音はそなたに名を呼ぶことを許していたのか」


 柃華につられて空を見あげる皇帝の瞳も潤んでいた。

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