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3、浮碧亭

 浮碧亭(ふへきてい)は池のほとりにある。先端が反り返った屋根を持つ、こじんまりとした建物だ。

 昼間なので子午蓮(じごれん)とも呼ばれる睡蓮の花が開いている。水面に浮く艶やかな丸い葉と、紫色やうすくれないの花。蓮ほど大輪ではないが、まるで色とりどりの宝石を花にしたかのようだ。


 ふと、前方の池のほとりに人が佇んでいるのが見えた。

 肩を落として、少し背を丸めている。頼りなさげな姿だ。供もいない。だから、それが(シュエン)皇帝だとは柃華はすぐには気づかなかった。


「挨拶は、しばらく待った方がいいな」


 凌星は立ちどまった。

 広大な南洛国を統治する皇帝とは思えぬほどの弱々しさ。柃華の知る皇帝陛下よりも十歳は老けて見えた。黒っぽい地味な衣をまとっているせいだろうか。


「あんな生気のない父の姿は初めて見る」

皇后娘娘ファンホウニャンニャンを喪った傷は、すぐに癒えることはないのでしょうね」


 臣下の前では、主上は皇帝としてふるまっていたのだろう。今、所在なさげに佇んでいるのは、妻を殺された一人の男性でしかない。


「亡くなってからも、皇后陛下はあんなにも想われているのだな」


 ぽつりと凌星が呟いた。

 その発言の裏に、少しの羨ましさが滲んでいるのを柃華は読み取った。


 おそらくは凌星の母親と比較しているのだろう。陛下が即位する前の皇太子時代に、凌星は生まれている。だが、母は立后されることもなく病死したという。


 長年、凌星は宮城には存在しない皇子だった。

 位の低い女官を娶ることを許されずに、宮城を出て行ってしまったとか。宦官に執着され、無理心中させられそうになったという噂が広まっていた。


 都である臨洛(りんらく)から消えていた間。凌星がどこにいたのか何をしていたのか、彼は教えてはくれない。不躾に尋ねることは、柃華にはできない。


(いつか教えてくれるほど、わたしのことを信頼してくれるのかしら)


 ふと、つないでいる蒼海の手に力がこもるのを柃華は感じた。


「どうかしましたか?」と尋ねた時。蒼海の瞳が、澄んだ紫に光った。

 これは未来視だ。柃華に緊張が走る。


「おみずにさくおはなだよ。おいけがあるの。えーん、えーんしちゃったの」


 柃華は、(くん)の裾が汚れるのも構わずにしゃがみこんだ。蒼海の語りが終わるのを待って、彼女の顔を覗きこむ。

 凌星や天遠も異変を察したのだろう。立ちどまって、誰もが口を開かない。


「あれ? どうしちゃったの。リンホアさま」

「いえ、何でもないんですよ」


 蒼海は、自らが未来語りをすることを知らない。尋ねたところで、要領を得ない。


 ここが柃華の暮らす星河宮であれば、蒼海を抱っこしてあげたかったのだが。陛下の便殿(びんでん)を訪れている以上、余計なふるまいはしない方がいい。


 蒼海は知らない。何気なく語るその言葉で、(グオ)貴妃のように危機を救われた人もいる。司楽の女官である思月(シーユエ)のように、厳しく処罰された者もいる。

 きっと蒼海は気づかない方がいいのだ。この小さくて華奢な身には、あまりにも重い。

 人を助けるためだけの未来語りではないのだから。


 しばらくすると、池のほとりの皇帝が歩き出した。どうやら柃華たちに気づいたらしい。

 すぐに護衛が駆けつけて、陛下の側につく。この便殿はよほど安全なようだ。


「陛下にご挨拶を申し上げます」


 凌星が前に進み、胸の前で手を重ねて揖礼をとる。今は侍女として柃華に仕えているが。凌星の実際の身分は皇子だ。修媛である柃華は、凌星の後に続く。


「女装も似合っておるな、凌星。そなたの母を見るようだ」

「恐縮です」


 あまり嬉しそうではない声で、凌星は皇帝に答えた。


 最近、星河宮に仕える侍女から聞いた話だが。凌星の母親は、皇帝が皇太子であった時に奉儀(ほうぎ)という身分の側室であったそうだ。奉儀の位階は高くはない。


 星河宮の侍女で紫安が凌星であると知る者は少ない。侍女頭の任春ぐらいだろうか、紫安の正体を知っているのは。


 たいていの侍女は、紫安のことを背が高くてえらそうで、怠慢な侍女だと認識している。それでも注意されれば紫安は素直に聞くので、かろうじて問題は起こっていない。


「あれは朕のことを好いてはいなかった。凌星、そなたもであろう?」


 答えにくい質問をする、と言いたいのを凌星は堪えているようだ。

 この父子の仲は良好ではない。そして陛下と蒼海の仲も似たようなものだ。


 揖礼(ゆうれい)をする柃華を真似て、蒼海も手を重ねてちょこんと頭を下げる。今日も縦結びの緞帯(リボン)が揺れた。

 任春が、何度も結び直そうと言ったのだが。「リンホアさまがむすんだから、いいの」と、蒼海が決して譲らないのもいつも通り。


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