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4、娘ができた

蒼海(ツァンハイ)さま。泣きたいときは、この柃華(リンホア)のもとで泣いてください。爪を噛んで、涙をこらえてはなりません。愛らしい爪が割れてしまいますよ」

「えっ」


 柃華(リンホア)に指摘されて、初めて蒼海は気づいたのだろう。

 自分の指をしげしげと眺めた。子ども特有の薄い爪だ。毎日噛み続けて、どの指の爪も先端はぼろぼろになってしまっている。


 爪にも髪にも、以前よりも削げた頰にも。蒼海の苦しみは現れているのに。誰もそれを気に留めない。


「失礼いたしますよ」


 そう告げて、柃華は蒼海皇女を抱えあげた。

 室内に、ふわっと風が起こる。皇帝の側に控える近習たちが、目を丸くしている。


「た、たかいよ。です」

「大丈夫。陛下が座していらっしゃる龍椅(りゅうき)よりも低いですから。罰せられることはありません」


 蒼海皇女を左の腕で抱えて、柃華は微笑んだ。

 こんな高い位置に持ちあげられたことなどなかろうに。蒼海の体には力が入っていなかった。むしろやわらかく微笑んでいる。


(わたしは、皇女に信頼してもらっているのだ)


 皇后が亡くなってからの半月。蒼海皇女は笑うことはおろか、表情を和らげることすらなかっただろう。


 いずれは(グオ)貴妃の宮で暮らすために、蒼海は貴妃と生活を共にしたはずだ。

 きっと食事の時も緊張したはずだ。粗相のないように、お行儀よく。会話も遊びですらも、気を張り続けて。

 そんな状態で、どうしてまともに食べることができるだろう。皇女は育ち盛りだというのに。


(郭貴妃は厳しい方ではない。それでも慣れぬ他人との暮らしは、今の蒼海さまには難しい)


 どうすればいい?

 答えは分かっている。明白だ。

 柃華が蒼海皇女の継母となり、この子を育てればいいのだ。


(だが。わたしは修媛(しゅうえん)とは名ばかりの、故国との諍いが起きた時の人質の身。いずれは公主となる蒼海さまを任せてもらえるとは思えない)


 宣皇帝はというと、眉をしかめて難しい表情を浮かべている。

 何か言いたそうに口を動かすのだが。すぐに言葉を飲みこんでいる風だ。


 初代皇后の地久節(ちきゅうせつ)に、現皇后が服毒した。現皇后の死を悼みはするが、そんな日を選んで自死するなど。あまりにも不敬ではないか。遺された蒼海皇女はどうするのだ。

 そんな逡巡が見て取れる。


 いっそ好機かもしれない。陛下は、皇女の今後を決めかねているのだから。


星河宮(せいがきゅう)時柃華(シーリンホア)が、陛下にお願いを申しあげます」

「無欲なそなたが、朕に願いとは珍しいこともあったものだ。どうした? なにか欲しいものでもあるのか?」


 まだ線香の匂いの残る蒼海を、柃華は両腕で抱きしめた。


「蒼海皇女の義母に、この時柃華を任じてください。わたしは皇女を導くことができます。いえ、わたしにしかできぬことです」


 すっと通る声だった。

 室に控えている近侍たちが、驚いたように一斉に柃華に目を向けた。


――人質代わりの嬪が、何を言っているのだ。

――蒼海皇女を丸め込んで、利用しようというのではないか?


 そんなきつい視線が柃華に注がれる。

 九嬪という身分であっても、気の弱い者なら前言を撤回してしまうだろう。正直、柃華とて恐れはある。


(でも、わたしは蒼海さまの継母に名乗り出たのだ。弱い女が母になれるわけがない)


 柃華は近侍や女官を見まわした。


「この中で、蒼海皇女の爪がぼろぼろであることに、気づいた人はおりますか? 皇女が以前よりも痩せてしまわれたことに、気づいた人はおりますか? お可哀想に、と同情さえしておけば、皇女を放っておいていい。違いますか?」


 返事はない。

 これまで柃華に向けられていた疑念の視線は、すっと逸らされた。


 郭貴妃は、蒼海皇女の養育を断ったという。一見すると、冷たい人のように思えるが。その実、とても正しい人なのだろう。

 貴妃という高位の妃で、男の子を生んでもいる。そして皇后の忘れ形見である蒼海を育てれば、陛下は郭貴妃をこれまで以上に取り立てる。

 そうなれば、次の皇后に郭貴妃が冊されるだろう。


 たとえ貴妃が蒼海皇女に手をかけず、教育を侍女や女官に任せても問題はない。蒼海を放置し続けることも可能だからだ。


(郭貴妃は、いずれ皇太子になるかもしれない皇子と、血のつながらない蒼海さまを等しく愛することはできない。だから養母にはなれぬと、理解しておられるのだわ)


 皇帝が、ふっと息をついた。龍椅よりも数段下に立つ柃華を、じっと見据える。その瞳にぬくもりが宿ったように思えた。


「確かにな。時修媛、そなたほど蒼海のことを気にかけている者は、宮城にも後宮にもおらぬな」


 よかろう、と皇帝は立ちあがる。


「これは勅命である。時修媛、そなたは蒼海皇女の義母となり、彼女が立派な公主となるように育て、導くのだ」


 柃華の心が跳ねた。間近にある蒼海の目が輝いたのが、はっきりと見えたからだ。


「謹んで拝命いたします」

「いたちます」


 柃華に抱えられたままで、蒼海まで頭を下げた。


(必ずや蒼海さまを立派な公主となるよう、お育てする。そして、皇后娘娘の死の真相を突きとめてみせる)


 自分には側寫の知識と技術があるのだから。絶対に成し遂げる。


 この日。柃華に娘ができた。


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