8、証拠がないからこそ
「証拠が見つかったのか?」
「いいえ。ありません」
しれっと答える柃華に、凌星は首をかしげた。確かに納得できないだろう。証拠もないのに、犯人が分かったなど。
「証拠がないからこそ、犯人像が特定できるのです」
たとえば恨みからの犯行であれば、側寫の必要はない。周囲に聞き込みをして、人間関係を浚っていけばいいのだから。
「中に入りましょう。話が洩れ聞こえてはいけませんから」
一見すると回廊にも庭にも人の姿はない。だが、柃華の位置からは見えないだけかもしれない。星河宮に門番はいないのだから、誰かが入りこんで建物の陰に潜んでいる可能性は捨てきれない。
凌星と天遠、蒼海に任春が室内に入ると、柃華は扉を閉めた。そして全員を手招きする。
総勢五人が立ったまま顔を突きあわせるほどの、近い位置だ。蒼海は凌星に抱っこをせがんだ挙句に、柃華に手を伸ばしてくるので。妙に顔の位置が近い。
「では説明いたします。わたしは昨夜、就寝前に琵琶を確認しました。その時に布を結びました。ですが、今朝は結び目が逆になっていたのです」
囁くほどの小さな声で柃華は説明する。
机の上に置いた紙を手にして、結び目の図を見せる。
「逆とはどういうことだ?」と、凌星が図を見ながら問うた。
「左利きの人の結び方です、これは。わたしの知る限り、皆さんの中に左利きの方はいらっしゃいません」
「それはそうだ。南洛国は左利きの子がいれば、小さいうちに矯正させる。五経の礼記に『子が自分で食事できるようになれば、右手を使って食べるように教えなさい』という記述があるほどだからな」
「はい。南洛国ではそうでしょう。ですが、わたしの故郷である陶岳国では右利きでも左利きでも問題はありません。矯正などせずに大人になります」
「つまり、左利きの人間が琵琶の弦を切った、ということか。だが、それでは根拠に乏しいだろう」
凌星の指摘に、柃華はうなずいた。
扉も窗も締まっているので、室内の空気は停滞している。
「ふたつめは、昨夜は上弦の月でした。わたしが床に就いた夜半にはもう沈んでいました。回廊の吊り灯籠の明かりはついていましたが。琵琶を置いてある机や架子牀のあたりは真っ暗です。そのせいで、わたしは蒼海さまの足を蹴ってしまいました」
「ツァンハイ、けられちゃったの?」
すみません、と柃華は今更ながら謝った。眠っているのをわざわざ起こしてまで謝るものでもないし。朝になれば、琵琶の件で忘れてしまっていたのもある。
「なるほど。どんな布であるかを知っていれば、手触りと琵琶を包んだ形から置いてある場所を探ることは可能だな」
「はい。凌星さまのおっしゃるとおりです。そしてもうひとつ」
柃華は、さらに声をひそめた。皆は息を呑んで、幽かな声に耳を澄ます。
「昨日、蒼海さまが未来視をなさいました。『でんか、こんにちは。たかいよ。はやくて、びゅーんなの』という内容でした」
うう、さすがに子供の言葉を真似るのは恥ずかしい。言ってしまってから、柃華は頰が熱くなる心地がした。
視線を感じる。隣にいる凌星も、任春と天遠も。そして最も近い位置に顔のある蒼海も。じっと柃華を見据えている。
「たかいよ、じゃないよ。たかーいよ、だよ」
どうやら蒼海は演技にこだわる性質らしい。注意されてしまった。
「これはわたしの推測ですが」と前置きして、柃華は説明を続ける。
「高い。速くて、びゅーんというのは、鳥のことと思われます。鳥が空を飛んでいる状態を指していらっしゃるのでしょう」
「殿下と鳥の組み合わせが、分かりかねますが」
珍しく天遠が尋ねてきた。「どうですか?」と天遠は凌星に話を振った。凌星は首を横にふる。
「ここでいう鳥は鳩のことでしょう。南洛国のように平坦な土地では必要ありませんが。陶岳国では鳩に書状を持たせて、山越えをさせます。その方が早く届くのです」
「鳩が悠長に飛んでいたら、猛禽に狙われはしまいか?」
「ですから、複数の鳩を飛ばします。同じ内容の書状をつけた状態で」
先刻、柃華は通信の鳩が三羽飛ぶのを目にした。あれは北へ向かっていた。陶岳国へ、だ。
「『殿下』というのは陶岳国の王子。つまりわたしの兄のことでしょう。しかも次兄ではなく、王太子である威龍だと考えます」
慎重に言葉を選んで話さなければ。柃華は気を引き締めた。
凌星は南洛国の皇子だ。柃華ではなく、この後宮にいる誰かが内密に鳩を飛ばして、陶岳国の王太子に書簡を送る。
兄の威龍が、後宮に間諜を送り込んでいると捉えるのが当然だ。




