5、案じてくれる優しさ
翌朝、事件が起きた。
顔を洗って着替えを済ませた柃華は、机に向かった。机に置いてある琵琶を見るためだ。借り物で、しかも高価な楽器だ。確認は欠かせない。
布の結びをほどこうとして、柃華は手間取った。結び目が固い。しかも、妙にほどきにくいのだ。
嫌な予感がした。これは自分の結び方ではない、と脳内で警告の鐘が鳴る。
すぐに柃華は筆を手にした。墨池のふたを外し、墨汁を含ませて筆を走らせる。結び目の図を描くためだ。
一度でもほどいてしまえば、後は記憶に頼るしかない。だが、いつまでも正確に覚えていられるわけもない。
少しずつ結びを外しながら、正確に描き写す。些細な違和感もすべて記しておくのは、起こり得る事件を未然に防ぐ側寫師として生きていたからかもしれない。
「え?」
布を開いた時、柃華は瞠目した。目に映る光景が信じられなかった。
琵琶の弦が切れているのだ。四本とも。
「ゆうべは何ともなかったわ」
夜半、柃華は確かに琵琶を確認した。異常がなかったので、明かりを吹き消して柃華は眠ったのだ。
上弦の月はすでに西の空に沈んでおり、室内は暗闇に閉ざされた。そのせいで床についた時に、隣で眠る蒼海の足を蹴ってしまった。
何も異変はなかったのに。
「リンホアさま。どうしたの?」
天蓋付きの架子牀から起きてきた蒼海が、目をこすっている。ぽわんとした表情。まだ、ちゃんと覚醒していないようだ。
「いえ。何でもありませんよ」
「なんでもなくない、よ。ツァンハイ、わかるもん」
さっきまで眠そうな目をしていたのに。蒼海の顔つきが変わった。
(やはりこの子は聡い。わたしの様子がいつもと違うのに気づいたんだわ)
ごまかすことも、隠すこともしない方がいい。柃華は姿勢を正した。
「司楽の女官から借りていた琵琶の弦が、切れてしまっているんです。寝る前は問題なかったのに。すべての弦が切れるなんて。どうして」
蒼海は、背伸びをして机に置いてある琵琶を眺める。
「きれてるの、なんで?」
「それが分かればいいんですが」
琵琶の弦は張り替えれば問題はないと思う。特に細い弦は切れやすいだろう。だが、四本ともが切れているという事実が、気持ち悪いのだ。
部屋の中は寝る前と同じ状態だ。何かが動かされているわけでもない。机の上も同じ。荒らしたり、探ったりした様子もない。
「リンホアさま、こまってる?」
「はい。困っていますね。思月さん達に、どう説明すればいいのか」
「こまったねー」
柃華と蒼海は、揃ってあごに手をあてて唸った。その時、回廊を渡ってくる足音が聞こえた。
「おはようございます。柃華さま、蒼海さま」
「今朝は遅いな。寝坊でもしたのか」
室に入ってきたのは任春と凌星だ。侍女の格好をした凌星の背後には、天遠も控えている。
「何かあったのか?」
さすがに凌星は察しがいい。琵琶は、入り口からは見えていないはずなのに。柃華と蒼海が机の前で立ちつくしている状況に、違和感を覚えたようだ。
「琵琶の弦がすべて切れていました。誰も触っていないのに」
「ふむ。絹糸の弦は切れやすいものだが。四本が同時というのはおかしいな」
凌星も、柃華の考えと同じことを告げた。机の上に置いた琵琶を、凌星は確認する。
一番上の装飾である琴頭や、螺鈿細工が施された面板など、各部分を丹念に目視したり触れている。
「傷はつけられていないな」
何気なく、凌星は洩らした。その言葉に込められた意味などなかったかもしれない。
なのに。柃華は心がほわっと花開くのを感じた。
凌星は「傷はつけられていない」と言った。「傷はついていない」ではなく。ほんの些細な一言、ただそれだけで柃華と蒼海のことを疑っていないと伝わってくる。
「四の糸は細いから、切れることも多いが。太い一の糸と二の糸は、滅多に切れることはない。私が弾いた時は、音色も劣化していなかったし音程も問題なかった。弦の巻きも緩んではいなかった」
肩をすくめて、凌星は言いにくそうに口元をゆがめた。
「推測ではあるが。弦は故意に切られた可能性が高い」
「何のためにですか。もしかして四夫人がお使いになる琵琶を、わたしごときが借りたからですか?」
気づかぬうちに誰かに嫉妬されたのだろうか。
柃華は宴に呼ばれることもないし、ましてや宴席で舞うこともない。品階の高くない妾は、舞を披露する時に虐められることが多いと耳にしたことがある。それに近い嫌がらせだろうか。
「妃嬪とは名ばかりの蛮族。そう思われているのかもしれませんね」
柃華は人さし指を噛みしめた。誰もが柃華を遠巻きにしている。友人などできないと、後宮に入る時に覚悟はしていたが。やはり自分は「別」なのだと思い知らされる。
郭貴妃は、柃華に気軽に話をしてくれたが。もう後宮にはいない。
「リンホアさま。げんきだして。ツァンハイがいるよ」
「蒼海さま」
蒼海の小さな手が、柃華の手をきゅっと握る。子ども特有の高い体温がてのひらに伝わってきた。
どうしてだろう。泣きたい気分になったのは。
皇后陛下の手は、蒼海のように小さくはない。皇后陛下の体温はもっと低い。手だって蒼海とは違い、乾燥している。
でも、同じなのだ。母と娘ともに、柃華を案じてくれる心が一緒なのだ。
不安そうに見上げてくる蒼海の顔が、にじんでぼやける。
「なかないで。リンホアさま。わるいひとをね、ツァンハイが『めっ』ってしてあげる」
「はい、ありがとうございます」
「ほんとだよ。ツァンハイ、つよいからね」
こぶしを握った蒼海は、自分の胸を叩いた。華奢で小さくて、とても頼もしい娘だ。
笑顔のまま涙をこぼすなど、柃華の人生で初めてのことだった。




