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3、清らかな鈴の音

 琵琶の形は陶岳国のものと同じだ。だが持ち方も弾き方も、何もかもが違う南洛国の琵琶に、柃華は苦戦した。

 おとなしく待っていた蒼海だが。とうとう椅子に座ったままで、足をぶらぶらとさせはじめた。


(いけない。蒼海さまが飽きてしまっている)


 柃華は義甲と琵琶を置いて、蒼海の前にしゃがんだ。


「庭に出て遊んできますか?」

「ううん」

「でも、退屈でしょう?」

「いいの。ツァンハイね、リンホアさまといるの」


 椅子から身を乗り出した蒼海が、柃華の首にきゅっとしがみついた。細い背中に、柃華は腕をまわした。蒼海を抱きしめると、ぬくもりが伝わってくる。

 郭貴妃の行方不明の件で、蒼海が起きた時に柃華が殿舎を空けていたのが今も尾を引いているのだろう。


 ふっと耳もとで囁く声が聞こえた。なに? と柃華は蒼海の顔を覗きこむ。

 黒翡翠の瞳が、紫色に透きとおるのが見えた。

 未来視だ。柃華は気を引き締める。


「でんか、こんにちは。たかーいよ、はやくて、びゅーんなの」

「は?」


 警戒していた柃華は、呆気に取られて口をぽかんと開いてしまった。

 紫に染まった蒼海の瞳は、いつもの黒に戻っている。


「びゅーんって、どうかなさったんですか?」と司楽の女官、思月(シーユエ)が問いかけてくる。


「蒼海さまは、時々変わったことをおっしゃいますよね」


 侍女頭の任春(レンチュン)も興味津々だ。もうひとりの女官の小蝶(シャオディエ)は、琵琶の弦に緩みがないかを確認している。仕事熱心なのだろう、気を散らすことがない。


(無理だって。まさか蒼海皇女が未来を垣間見ました、なんて言えるはずないもの)


 どうやってごまかせばいいのだろう。蒼海の特殊な能力を知っているのは、柃華と凌星(リンシー)くらいしかいない。天遠(ティエンユエン)は凌星の護衛だから、知っていても無関心でいてくれるけれど。任春は、そうはいかない。


 柃華は、とっさに室内に視線を巡らせた。

 何か、思月と任春の気が逸れるようなものはないか? 不自然ではなく、納得してくれるようなものは。


「あ、そうだ。琵琶はびゅーんとは鳴らないんですけど。蒼海さまも、楽器を触ってみたいですよね」


 お願い、うなずいて。「ちがうよ」って言わないで。柃華は、蒼海に目で訴えた。瞬きも忘れるほどに。

 柃華の迫力に気圧されたのか、蒼海は何度もこくこくとうなずいてくれた。


「そうですよね。退屈ですよね」と、任春が納得する。

 よかった、ごまかせた。柃華は体の力が抜けるのを感じた。

 未来視は時と場所を選ばない。そこに誰がいようが、蒼海は語りはじめてしまう。


「でしたら蒼海皇女には、こちらはいかがでしょうか」


 思月が、持参した荷から布の包みを取りだした。左の指でそっと布を開くと、中から金色が現れた。


「うわぁ、きらきら」


 蒼海が目を輝かせた。

 夏は太陽が高い位置にあるので、室内はうす暗い。思月が二つの杯に似たものを掲げると、窗辺の光に金が煌めいた。


「こちらは碰鈴(ペイリン)といいます。小さくて軽いので、蒼海さまでも扱えると存じます」


 碰鈴は、紐の両端に杯状の鈴がついている。思月は左右の手で紐を持ち、鈴同士を当てた。

 リィィィン。澄んだ音が響く。まるで空気が清らかになるかのように。音は波のように室内を、そして窗や開いた扉から広がっていった。


「すっごい、きれいね。すっごくきれいね。ね、リンホアさま」

「本当ですね。目が覚めるような、美しい音ですね」


 蒼海と柃華は互いに見つめ合って微笑んだ。


 思月から碰鈴を受けとった蒼海は、神妙な面持ちでふたつの鈴を鳴らした。涼やかな音色が心地よい。柃華は、思考まで明瞭になる気がした。


「琵琶もですが。石窟寺院の壁画には、この碰鈴(ペイリン)が描かれているんですよ」


 教えてくれたのは小蝶(シャオディエ)だ。


「こんな小さな楽器なのに。これは天上の音楽というわけね。あなたは、その壁画を見たことがあるの?」

「はい。この宮城のある臨洛周辺には大河が流れていますから。南洛国では、大河のほとりの崖や砂漠にある断崖を寺院にすることが多いんです。無数の窟の内部には、鮮やかな壁画が描かれているんですよ」


「この人は楽器の由来にも詳しいんですよ」と、思月が言葉を添えた。

 リィィィン、リィン、と碰鈴が鳴る。


 きっと蒼天を背にした天人が、金の碰鈴を打ち合わせるのだろう。琵琶も奏でられているに違いない。空を行く飛天が、蓮の花びらを散らしているかもしれない。


 柃華は、石窟寺院の壁画を実際に目にしたことはないが。そのさまは想像することができた。


「どうした? 何やらとてつもなく清らかな音が聞こえたのだが」


 突然、ずかずかと凌星が部屋に入って来た。背後には護衛の天遠が控えている。


「あら。これは失礼いたしました」と、一瞬にして凌星がしゃべり方を変え、声音も高くする。そして、恭しく柃華に向かって揖礼をした。

 どうやら見慣れぬ女官たちがいるのに気づき、とっさに紫安になったようだ。


「みて、ズーアン。いいでしょ。ツァンハイのだよ」


 ふふん、とあごを上げて蒼海が碰鈴を見せびらかす。その楽器は借りているだけで、譲ってもらったわけではないのだが。

 思月は、呆然と凌星を眺めている。小蝶は、ようやく琵琶から顔を上げて「どうしたの?」と問うた。


(もしかして侍女じゃなくて、男性だとばれてしまった?)


 凌星は、侍女としての服装をしていたが。入室した時は、明らかに男性の声や歩き方だった。その点に、思月が違和感を覚えたなら。

 いくら皇帝陛下に命じられたこととはいえ、後宮で成人男性が暮らしているとばれるのはまずい。しかも皇帝の側室である柃華の殿舎だ。


 侍女としての仕事を、凌星はほとんどせず。ただ柃華が蒼海を正しく育てているかの見張りなのだから。実際はいてもいなくても、どちらでもよい存在なのだが。

 どうして凌星の素性や性別がばれるのが、こんなにも怖いのか。


 柃華の心臓の音がバクバクとうるさくなる。


(凌星さまは、郭貴妃が拉致された件でわたしを手伝ってくださった。わたしひとりでは、郭貴妃を助けることはできなかったかもしれない)


 ズボラでいい加減で、我儘で。好き放題にふるまって。侍女らしくない凌星のふるまいに、柃華は顔をしかめることも多いのに。

 なのに凌星が糾弾され、罪に問われて後宮から追い出される姿を想像するのがつらい。


 分からない。凌星を庇いたくなる自分の気持ちが、柃華には理解できなかった。

 けれど願うのはひとつだけ。


 どうかお願い、男だとばれないで。柃華は祈る気持ちで瞼を閉じた。


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