2、琵琶を習って
朝食後。柃華は、司楽の女官を待っていた。琵琶を借りるためだ。
(音楽かぁ。舞よりはマシという程度なんだけど)
苦手意識のある楽器の練習に取り組むのは、故郷の兄から手紙が届いたからだ。
蒼海皇女を養育することになった件を、柃華はふたりの兄に伝えていた。父には内密にと、言葉を添えて。
北方の一部族にすぎなかった陶岳の民を率いて、国家を樹立したのが父だ。父に蒼海のことを知られれば、きっと皇女の義母として新たな皇后を目指せと命じられるに決まっている。
覇気があるのは結構だ。部族長であった父が率先して動いたからこそ、陶岳の民は安住の地を得たのだから。ただ、男の野望に巻きこまれるのは、従うことしかできない女子供だ。
父が野心家であるからこそ、娘の柃華は南洛国の後宮に囚われることになったのだから。
(本当は愁飛兄さまにだけ知らせたかったのだけど。さすがに太子である威龍兄さまを無視できないものね)
長兄である威龍の返事にはこう書いてあった。
――我ら陶岳国の人間は、南洛国から見れば粗野であろう。実際、柃華の元に皇帝陛下が通わぬのも、そなたに洗練された話術やふるまいに欠けるからではないか? これからは音楽や詩にも親しむとよいであろう。
「そうよね。威龍兄さまにとっては、身内が妃嬪であることが大事だもの」
今朝見た夢は、やはり自分に都合のいい願望だったのだ。柃華は肩を落とした。
――琵琶などどうだ? 楽器の中でも琵琶は最も格式が高い。そなたが琵琶を奏でれば、宣皇帝も聞き惚れてくれるのではないか?
弦楽器を弾くのが、どれほど大変なのかを長兄の威龍は分かっていない。
それでもまだマシかもしれない。
父であれば「琵琶を弾くには撥を使うであろう? 撥は確か牛の角から作るものもあるはずだ。撥をよく研いで、宣皇帝の寝首を掻くことを頭に置いておくように」などと、物騒極まりない返事をよこしかねないのだから。
次兄の愁飛は「柃華は慣れぬ子育ては大変だと思うが。ひとりで抱えこまずに、任春を頼るように。決して無理はせぬように」と、柃華を案じてくれていた。
(あーあ。愁飛兄さんにだけ、会いたいなぁ)
故郷を懐かしむには、家族の存在はあまりにも物騒だ。そしてただひとり話の合う次兄だけと会う自由など、柃華にはない。
「失礼いたします。ご要望の品をお持ちいたしました」
任春と共に、ふたりの女官が部屋に入って来た。ひとりは布で包んだ大きな荷物を持っている。もうひとりの女官は小箱を手にしていた。彼女たちは、尚儀局に属する司楽だ。宴で楽を奏で、ふだんは楽器の管理もしている。
「ありがとう。いちどは琵琶を触ってみようと思って。貸してもらってもいいのかしら」
「はい。時修媛さまでしたら、大事に扱ってくださるでしょうから。琵琶の持ち方や、弾き方に特徴があるので。その点を気をつけていただきたいと思います」
答えたのは、有思月と名乗った女官だ。二十代半ばの思月は身長が高い。きりっとした眉に、意志の強さを感じる。
思月が抱える布の中が琵琶であると察した柃華は、すでに「あ、これは弾くのは無理そうだわ」と心が萎えた。
故郷の陶岳国にも琵琶はあったが、柃華は触ったことはない。南洛国の後宮で催される宴や儀式で、司楽が琵琶を弾いているのを見たり聞いたりしたことはある程度だ。
間近で目にしたことはなかったので、ここまで大きいとは知らなかったのだ。
「包みをほどきますね。品は良いですけど、普通の琵琶と同じですから。難しく考えることはありませんよ」
もうひとりの女官は、陰小蝶と名乗った。二十歳ほどの小蝶は、女官の試験に合格する前は琵琶の奏者であったらしい。思月ほどの鋭さはなく、ふわっと穏やかな印象だ。
「私も琵琶や二胡は子供の頃から習っていたんですけど。他の女官の方が演奏が得意でして。管理や手入れを担当しています。この人、小蝶は上手ですよ」
思月は、小蝶の手元を覗きこんだ。
布が開かれると、中から重そうな琵琶が現れた。虹色に光る花が埋め込まれている。螺鈿細工の花だ。
「あの、これ。借りていいものではないのでは?」
一見するだけで、とても高価な品だと分かる。柃華は、もっと簡素な練習用の琵琶を借りようと考えていた。
「私たち女官は使用しません。そうですね、四夫人が宴でお使いになることもあります」
「ご自身で琵琶をお持ちの妃嬪もいらっしゃるんですけど。弦の張り替えができない方も多いので。なので、私たちが管理してお貸しすることもあるんですよ」
ふだんから琵琶に慣れ親しんでいる司楽の女官は、気楽に言うが。
女官は使えず、正一品の四夫人のみが使える琵琶など。正二品の柃華が、使っていいとは思えない。
「大丈夫です。時修媛さまは大事に扱ってくださるでしょうから」
琵琶を断ろうとした柃華よりも先に、思月は話した。それだって、なんの安心材料にもなりはしない。
「ツァンハイのは?」
柃華が緊張で凍りついているのに。物怖じをしない蒼海は、初対面の思月と小蝶に問いかけた。さすがに皇女に声をかけられて、女官たちは戸惑ったように顔を見合わせる。
「あ、本当に皇女さまをお育てになっていらっしゃるんですね」
言葉を発したのは小蝶だった。
「本当って? 尚儀局で噂になっているのかしら」
柃華は探りを入れてみることにした。
星河宮にこもっていては、噂を耳にすることもない。以前、蒼海を養育していた郭貴妃が廃されたことに関して、女官たちはどのような話をしているのか。柃華は知りようもなかった。
「いえ。噂と言うほどではありませんけど。ねぇ、思月」
「はい。ですが、心配している人はいました。義理の母娘というのは、関係が難しいですし」
小蝶も思月も、奥歯にものが挟まったかのような、はっきりとしない話し方だ。
「心配? やはり他民族であるわたしが、皇女を育てるのを懸念しているのかしら」
問い詰めるつもりはないのだが。女官たちの言葉が、柃華には気にかかった。
蒼海の義母として、ちゃんとできているのか。柃華は自分に自信はない。子を生んだことも育てた経験もなく、しかも別な国の人間なのだから。
ただ、これだけは分かる。蒼海が笑っていられるように、寂しがらないように。それが最優先だ。蒼海は、いずれ公主となるべく躾も勉強も大事だが。皇后娘娘が蒼海に愛情を注いだように、自分も蒼海を可愛がりたい。
女官たちはどう答えていいか分からなかったのだろう。
誰も言葉を発せず、外の鳥のさえずりだけが室内に届いた。
「あの。琵琶の話に戻ります。こちらが義甲となっています。握る撥は用いませんので、違和感があるかもしれませんが」
思月が口を開いた。左手に持った琥珀色の爪状の義甲を、柃華に手渡す。小さくて薄いので、指で挟んで弦を鳴らすらしい。
義甲を渡された時、思月の指が柃華のてのひらに触れた。
「きれいね。透きとおっているわ」
光にかざすと、義甲は飴色に澄んで美しい。どうやら鼈甲でできているようだ。
噂に関して、これ以上は話すつもりもないのであれば。柃華も突っ込んで訊くわけにもいかない。
「柃華さま。義甲が珍しくていらっしゃるんですか?」
「見るのも触るのも初めてよ」
琵琶の演奏に慣れている小蝶にとっては、見慣れた道具なのだろう。
(お父さまだったら、撥で皇帝の寝首を掻けなんて言いかねない人だけれど。南洛国では琵琶の演奏に用いるのが、こんな小さな義甲だとは想像もしないでしょうね)
柃華は、思月から琵琶の説明を受けた。
南洛国では琵琶は寝かせるのではなく、縦にして持つこと。腿の上で琵琶を立てた時の重心の位置。琵琶自体に重さがあるので、手首や指の関節を痛めない持ち方。
「こうして構えてくださいね」
実際に柃華の手を取って教えてくれたのは小蝶だ。触れてくる小蝶の指先は平たい。そして指の腹の皮膚は硬い。不思議な指だと柃華は思った。




