3、蒼海皇女
季節は初夏だ。後宮では薔薇に似た玫瑰花が咲き誇り、甘い香りを風が運ぶ。
夕刻。皇帝の元を訪れた柃華は、頭を下げて揖礼した。龍椅に座した皇帝の近くには、蒼海皇女が控えていた。
「リンホアさまっ」
裙の裾をからげながら、蒼海皇女が駆ける。柃華に向かって。
どん、とぶつかるように蒼海が柃華にしがみついた。
「やっ。ぜったいに、いや。おかあさまは、おかあさまだけなの」
「どうした蒼海。急に我儘を言いだして」
陛下は驚いたように声を上げた。
「そうですよ。皇女殿下。いつもの聞き分けの良さはどうなさったんですか?」
「やっ。しらないっ」
陛下の近侍に咎められても、蒼海は聞く耳を持たない。
蒼海は、柃華の胴に腕をまわして腹部に顔を埋めている。以前よりうすくなった肩も、声も震えている。
(そうか。郭貴妃を義母として受け入れられないんだ)
黒髪に結んだ緞帯は、乱れて解けそうだ。以前は艶のあった黒髪もぱさつき、ところどころ絡まっている。
(もしや郭貴妃がいらっしゃるから。皇后娘娘の侍女たちは、蒼海さまを甲斐甲斐しく世話できないのでは?)
皇后の侍女たちに可愛がられていては、蒼海はいつまでも郭貴妃に懐かない。だから、侍女はあえて蒼海の面倒を見ていない可能性がある。
郭貴妃が手ずから蒼海の髪を梳き、緞帯を結ぶことで、ふたりが仲良くなるように、と。
柃華は推測した。状況から分析する推測は、側寫術の基本だ。
子供の頃から、柃華は分類や分析に秀でていた。
故郷の陶岳国は山に囲まれているので、交易には山を越えねばならない。険しい峰を避け、比較的通りやすい山道を行く。
早春、次兄の愁飛と王宮の庭に出ていた柃華は、顔なじみの商人に声をかけた。まだ柃華が十歳の頃、愁飛が十三歳の頃であった。
「今日は出発しない方がいいです」と。
十人の商隊を率いる隊長は、眉をひそめた。ひげ面で毛むくじゃらの隊長が恐ろしくて、柃華は愁飛の背後に隠れた。
「柃華。言いたいことがあるなら、ちゃんと言った方がいいよ」
愁飛に促されて、柃華は隊長の前に出る。さすがに膝が震えた。上手く説明できるかどうか分からなくて、声がかすれた。
子供の自分が、隊長を怒らせてしまうんじゃないか。それでも、商人たちが危険な目に遭うよりは、勇気を出した方がいい。柃華は小さなこぶしを握りしめた。
「なだれが、おこるかも、しれないです」
山を見上げた隊長は、表情を和らげる。
「問題ないと思います。峰に雲もかかっていませんし。ほら、山越えをした者も、無事に王宮にやってきているではありませんか。王女殿下がご心配なさらずとも。我らはもう何十年もあの山を越えてきました」
「でも……行っちゃだめだと思うんです」
柃華は引き下がらなかった。山越えをしてきた旅人が、揃って薄着だったからだ。しかも沓には泥が付着している。まだ雪が解ける時期でもないのに。
「ほら。山の上の雲が、すぐにながれてるでしょ。風が強いんです。それに今日はあったかいですけど。おとといは雪がふったから……」
急に気温が上がること。積雪のうえに、さらに新雪が積もること。風が強いこと。それらの条件が重なると雪崩が起こりやすい。
大人になった今なら説明もたやすいが。わずか十歳の柃華には危険な条件を集めても、うまく説得することができなかった。
ただ山を指さして「今日はやめてください」と、くり返すだけだ。
「この辺りでは雪崩なんか、滅多に起こりません。うちの商隊も、野盗に遭ったことはあっても、雪崩に遭ったことはないんですから。心配なさりすぎですよ」
どうしても信じてもらえない。確かに陶岳国では雪崩は滅多に起こらない。ただ、ここのところは天気がおかしかったのだ。寒暖差と春の雪と。明らかにいつもの早春とは違う。
けれど、柃華の言葉には信憑性がなかった。
出発の予定時間を過ぎた商人は「次に訪れる時は、王女殿下のお好きな菓子を仕入れてきますから」と、困ったような笑顔を浮かべた。
その時、山の斜面から白い煙が立つのが見えた。音もなく、青空に白が散ったのだ。
「雪崩だっ!」
誰かが叫んだ。
柃華の隣に立つ愁飛の顔面は真っ青だ。「まさか……」と発する声がかすれている。
本当に雪崩が起こったことの恐ろしさに、柃華は次兄にしがみついた。
商人たちは呆然と空を見あげた後、慌てて柃華に向き直った。そして隊長ばかりでなく、十人はいる商人が地面にひざまずいた。一斉に。
「王女殿下のおっしゃる通りでした。信じることができず、申し訳ございません」
柃華は身震いした。
商人たちを救うことができた、それはとても嬉しい。だが、実際に雪崩が起こるまで、柃華の言葉は信じてはもらえなかったのだ。
たまたま運が良かっただけだ。柃華では、商隊を引き留めることはできなかったのだから。もし雪崩の発生が遅れていたなら。彼らは全滅していた可能性が高い。
(わたしはもっと知識をたくわえなくちゃいけない。王族なのだから。民を危険にさらすわけにはいかないのだから)
その日から柃華は、側寫師を志した。
北方に位置する陶岳国では、家畜どころか炭や薪などの燃料、冬の間の備蓄の食糧を盗まれるだけでも死に直結する。ゆえに犯人を捕らえるよりも先に、犯罪を未然に防ぐための側寫術が発達した。
王族自らが側寫師になることで、事件の再犯も防ぐことができる。貴族の罪を、庶民は暴くことができないからだ。
そして柃華は、ふたりの兄と共に事件現場に赴くようになった。
犯人はどんな特徴があるのか。男か女か。犯行現場の状況から、神経質か大雑把か。計画的なのか、衝動的なのか。次の犯行はあるのか、あるならばいつどこで行われるのか。
柃華も、陶岳国を守るための頭脳を志した。
結局、隣国である南洛国の後宮に入ったので。目標は頓挫してしまったが。
(それでも南洛国の王都にいることで、お父さまたちが差し向けるかもしれない間者に気づくことができるかもしれない)
陶岳国が南洛国に侵攻するのを事前に防ぐことができれば。それは結果的に故郷の民を救うことになる。
そして今、救うべきは幼い蒼海皇女の心を救うことだ。
柃華は、毛先が絡まった蒼海の髪を撫でた。潤いのない感触が、てのひらに伝わってくる。
(もしかしたら皇后娘娘の侍女たちは、皇女の世話ができないのではなく。あえてお世話をしなければ、郭貴妃が蒼海さまを気にかけると考えたのかもしれないわ)
だが残念ながら、それは成功していない。
「蒼海さま。緞帯を結びなおしてもよろしいですか?」
柃華が尋ねると、蒼海はこくりとうなずいた。「はい」と答えたであろう声は、柃華の衣に吸いこまれていった。
「時修媛。やはり皇女はそなたに懐いておるようだな」と、陛下が問いかける。
「わたしは皇后娘娘によくしていただきましたから。皇女さまともお目にかかる機会が多かったのです」
「ふむ。困ったな」
蒼海皇女の緞帯を結ぶ柃華を見ながら、宣皇帝はため息をついた。
「率直に申すが。郭貴妃は、蒼海に違和感を抱いておる。朕が思うに、気味悪がっているのではなかろうか」
(率直すぎるでしょ。というか陛下であっても、言っていいことと悪いことがある。あまりにも無神経だわ)
柃華はただうなずいた。
「そうですか」とも「大変ですね」とも言いたくない。たとえ相手が皇帝であっても、娘が気味悪いなど口にすべきではない。それも本人の前で。
さっきまで一人で立っていた蒼海が、また柃華にしがみついてくる。腕にぎゅっと力がこもっている。
(これは蒼海さまの悲鳴だわ)
母親である皇后陛下が亡くなって、さほども経っていない。なのにたったひとり残された蒼海皇女のことを、誰も真剣には考えてあげていない。
皇后の実家に蒼海を預けた方がいいのか。いや、後宮から出たとはいえ、やんごとなき皇女であれば政略結婚の駒として利用されるかもしれない。
四歳の女の子に、大人の会話の内容は理解できないだろう。
それでも不穏な雰囲気を察することは可能だ。むしろ子供の方が感受性は鋭い。
蒼海皇女は、本当は泣き叫びたかっただろう。
でも、できない。慰めてくれる母は、戻ってきてくれないのだから。