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29、蒼海と一緒なら心強い

 貴妃の入れ替わりの事件から、十日ほど経った頃。

 郭貴妃が廃妃となる知らせが、後宮を駆け巡った。あまりの衝撃に、どの宮の侍女や女官や宮女たちもそれぞれに固まっては噂をする。


「どうして急に」

「郭貴妃は、陛下の不興をお買いになったらしいわ」

「あんなにお優しくていらっしゃるのに? 美弓殿下はどうなるの?」


 星河宮の中も、外に出ても。後宮内は郭貴妃の噂ばかりが囁かれている。

 午前の回廊にたたずむ柃華は、空を仰ぎ見た。今にも雨が降りそうに、雲が垂れこめている。湿気が多いせいだろうか、庭の芍薬の花が重たそうに花をうつむかせている。


「とれなぁい」


 蒼海(ツァンハイ)は背伸びをして、茎についている芍薬の蕾に触れている。

 赤紫や白い花色のものもあるが。蒼海はうす桃色の芍薬を好んでいるようだ。 

 うすい花びらが幾重にも重なる芍薬は、高貴さに満ちている。蕾はまるで毬のように丸いので、蒼海は蕾を取りたいのだろう。


「リンホアさま。これで、ぽんってあそべる?」

「それは無理ですね。毬ではないので、跳ねませんし。蕾が弱るので、そっとしておいてあげましょうね」


「わかった」と、蒼海は手を離した。庭のあちこちから、ほーっと息を洩らす音が聞こえる。司苑(しえん)の宮女たちだ。


 宮にある庭の草花は、妃嬪の管理下にあるが。手入れをするのは司苑の宮女だ。

 さすがに蕾のもげた芍薬が並んでいては、美観を損なってしまう。だが、安堵したのも束の間。


「あ、とれちゃった」


 ころんと丸い桃色の蕾を、蒼海が差しだしてくる。

 なんでー、という宮女たちの心の悲鳴が聞こえた気がした。


「ご、ごめんちゃい」


 よほど動揺したのだろう。蒼海の言葉がつたなくなる。おろおろと視線を泳がせた後で、蒼海はうなだれた。


「しょうがありませんね。大きな器に水を張って、この蕾をのせましょう。いずれきれいに咲きますよ」


 柃華が答えたその時。門の方から入ってくる人影が見えた。郭貴妃だ。驚いたことに侍女を伴わずに、たったひとりきりだ。

 もう体調も戻ったのだろう。毅然と顔を上げて、柃華の方へと進んでくる。


 柃華は慌てて揖礼をする。あまりにも突然の訪問だから、貴妃を迎える準備は何もできていない。

 建物のなかから、侍女たちが急いで現れる。

 侍女頭の任春も、紫安としての凌星も柃華の背後で揖礼した。


「突然ごめんなさいね、時修媛(シーしゅうえん)。後宮を去る前に、あなたに会っておきたかったの」


 郭貴妃の暮らす英和宮から、この星河宮までは遠い。歩いてくる間、嫌というほど人目にさらされたであろうに。郭貴妃は穏やかに微笑んでいた。


「お茶を用意させます。どうぞ中に」

「いいえ。すぐにお(いとま)するので、立ち話で大丈夫ですよ。もう侍女を伴う身分ではなくなりますし」


 そう言って郭貴妃は断るが。簡単に済む話ではないだろう。

 雨催いの天気だが。まだ降ってはいない。柃華は庭の四阿へ郭貴妃を案内した。


「あーっ。ツァンハイも」


 芍薬の丸い蕾を右手に持ったまま、蒼海が左手で柃華の裙を摑んだ。

 だが、これから貴妃の話す内容は、蒼海には聞かせぬ方がいいだろう。そう判断した柃華は「紫安と天遠が遊んでくれるそうですよ」と囁いた。


「たかいのしてくれる?」

「はい、肩首をしてくれるでしょうね」


 わぁい、とはしゃぎながら、蒼海は凌星の元へと向かう。


「あれは翌日、肩と腰にくるんだ」


 ぼそぼそと凌星が文句を言うが。聞かなかったことにしよう。


「先日は、助けてくださってありがとうございます。大事に至らずに済みました」


 四阿(あずまや)で、柃華は郭貴妃の向かいの席に腰を下ろした。庭の玫瑰花(ハマナス)はもう散っている。四阿の側には池があり、蓮が植えてあるが。まだ花の時季には早い。

 蓮の葉が揺れて、水面を風が渡っていく。


「妹の世真(シージェン)はまだ牢獄に入っております。彼女は大罪を犯しました。死は免れないでしょう」


 郭貴妃の声は、曇天のように陰鬱だ。


 以前。地久節を見学したいと妹に頼まれたから。貴妃はその願いを聞いた。

 皇帝陛下が参列するわけでもない。初代皇后の誕生日は、後宮内の儀式としてはささやかなものだ。なにも問題はないと思ったのだ。


「まさか世真が、父や伯父たちから皇后暗殺を託されていたなど。知っていれば、決して後宮内には立ち入らせなかったものを」

「伯父上は、御史大夫(ぎょしたいふ)でいらっしゃいますね」


 こくりと郭貴妃はうなずいた。御史大夫は副宰相の立場であり、皇帝の側近だ。地方の高官にも郭一族の者がいる。

 かえって皇后の一族は政府の要職にはついていない。もともとが書家や画家の多い墨客(ぼっかく)の家系だからだろう。


 皇后には皇子はいない。蒼海皇女を養育すれば、郭貴妃はいずれ立后されるだろう。美弓(メイゴン)殿下も皇太子に、そしていずれは皇帝に選ばれるはず。

 たったひとり、皇后が消えるだけで郭家は国を手に入れることができる。


 陛下の側近である郭貴妃の伯父は、皇后に喘息があることを皇帝陛下から耳にしたことがあるのだろう。


(線香の煙は、少しならば問題はないけれど。噎せかえるほど大量であれば、喘息の発作を誘発する)


 地久節ならば、皇后や四夫人は寺廟にお参りする。

 侍女に紛れ込んだ世真が「御史大夫さまが、国母のために用意してくださったのですから」と、大量の線香に火をつけても訝しむ者はない。


 そして皇后が線香が原因で発作を起こしたと分からぬように。御史大夫の息のかかった者が「毒を飲んだ」と嘘の情報を流したのだろう。そうとしか考えられない。


「美弓殿下はどうなるのですか?」


 柃華は問うた。郭貴妃は瞼を伏せた。

 しばし沈黙が降りる。風に揺れた蓮の葉が触れあう、微かな音が聞こえた。


「美弓は平民に落とされます。郭の姓も捨て、一生、監視下で生きることとなります。それでもあの子を殺さぬのは、陛下のせめてもの温情でしょう」

「貴妃さまは?」

「わたくしは尼寺に入ることになっております」


 郭貴妃の声には諦観が滲んでいた。自分の生き方ですら自身で選ぶことができない。

 それは柃華とて同じこと。


 一族から貴妃が輩出された。皇子が生まれた。外戚も高官となった。それだけでも素晴らしいことではないか。

 どうして人は上を、もっと上を、さらなる上を求めるのだろう。

 その欲のせいで郭一族は断絶され、所領も没収されることだろう。残るのは尼となった貴妃と平民に落とされた皇子のみ。


 柃華は唇を噛みしめ、こぶしを握りしめた。

 郭家だけではない。柃華自身も、父の野心のせいで他国の後宮で人質となっている。男の犠牲になるのは、いつも女だ。


「尼寺に入る前に、皇后娘娘の墓陵にお参りしたいと願っております」


 さっきまでは雨が降りそうだったのに。風向きが変わったのだろう。灰色の雲は流されて、ところどころ青空がのぞいている。

 星河宮を辞する時。郭貴妃はそう告げて、蒼海を見つめた。


 まだ若い郭貴妃だが。これからの長い人生のすべてを、皇后への鎮魂に捧げる覚悟であるのが伝わってきた。

 そしていずれは近く処刑されるであろう双子の妹や、郭一族のために郭貴妃は祈り続けるのだろう。


「そういえば。どうしてわたくしが、灯籠のなかに閉じ込められているとお分かりになったの?」


 門を出た郭貴妃はふり返った。けれど、すぐに見送りをする柃華と蒼海を見て、目を細めた。


側寫(そくしゃ)という術のおかげかしら」

「そうかもしれません」


 柃華は微笑みながら、腰を落とした。傍にいる蒼海の肩に手を置く。


(蒼海がいなければ、すぐには郭貴妃を見つけることはできなかった)


 確かに自分は側寫ができる。けれどそれは情報を集めて、次に起こる事件を推測するという方法だ。事件の解決には側寫だけでは時間がかかる。

 だからこそ蒼海がいれば、とても心強い。これからも、きっと。


 柃華は、小さくなる郭貴妃の背中を見送った。

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