28、米水《ミーシュイ》は体に良い
あまりにも眠いので、柃華は仮眠を取った。正確には、凌星によって寝るように命じられたのだ。
「失礼な……眠くても、話くらいは、むにゃむにゃ」
「むにゃむにゃと口にしている時点で、まともに会話できんだろうが」
「しょうがないな」と呟いて。凌星は柃華を椅子から抱えあげた。ふわっと体が軽くなり、足が床から離れる。
ふだんの柃華なら「大丈夫です。降ろしてください」と毅然とした態度をとるのだが。なにせ眠気には勝てない。
「ダイジョブ、歩けます」
「どの口が言うんだか」
肩をすくめながら、凌星は架子妝のある奥へと進む。「うわぁぁぁ、素敵」と声が聞こえた。これは任春の声だ。
(何が素敵なんだろう。それにしても、逞しい胸。これ、任春……のわけない)
ぼんやりとして、柃華の思考はまとまらない。
「凌星さま。私が時修媛さまを運びましょうか」
「それには及ばぬ」
天遠の申し出を、凌星は断った。
(ああ、凌星さまが運んでくれているんだ)
皇子なのに。まだ冊封されていないとはいえ、いずれは王に封じられる身分なのに。あなたは侍女として、この星河宮に派遣されているのに。
「ティエンユエンは、ツァンハイをだっこするの」
「はい? 皇女殿下も眠くていらっしゃるのですか?」
天遠の問いかけに、蒼海は「ううん」と首をふる。そして「だっこ、だっこ」と跳びはねた。眠いどころか、目はぱっちりだ。
「蒼海なら……このわたしが、抱っこします」
「おいおい、勘弁してくれ。ふたりとも抱えては、私の腕も腰も膝も壊れてしまう」
柃華の申し出は、あえなく却下された。
頭に枕の硬い感触を覚える。敷布と薄い布団の心地よさに、柃華はあっという間に眠りの中に沈んでいった。
◇◇◇
いい匂い。
柃華は目を覚ました。どれくらい時間が経ったのだろう。毎回、匂いで覚醒しているような気がする。
涼やかで、ほのかに甘い緑の香り。これはお茶だ。
「お、起きたか」
架子妝に横たわる柃華を、凌星が覗きこむ。凌星は、寝台の側に置いた椅子に座っている。もしかして、ずっとついていてくれたのだろうか。
「どうして凌星さまが?」
柃華は、慌てて上体を起こした。凌星はにっこりと微笑んで、座ったままで揖礼をする。なんだか嫌味っぽい。
「わたしは侍女の紫安でございますよ。主の安眠を見守って、おかしなことがございましょうか」
「おかしなことだらけです」
どこの宮にも、妃嬪の寝顔を見続ける仕事などない。これは断言できる。
せめて顔をもういちど洗おう。柃華は立ちあがった。
衝立の陰に入り、盥に汲んである水で洗顔する。
「君は涼茶が好きだったな。用意しておいたぞ」
衝立の意味など無視して、凌星が顔を覗かせる。
「あのね、ツァンハイがはこぶの、おてつだいしたの。ズーアンはなにもしてない、よ?」
凌星をちらっと見ながら、蒼海が堂々と告げ口をした。
「それにね、リアンチャじゃないもん」
いつから星河宮は、こんな無法地帯になったのやら。蒼海だけならばまだしも、凌星が現れてからこの宮は、にぎやかでしょうがない。
「早く、早く」と蒼海に手を引かれて、室の外へと導かれる。手巾で、ちゃんと顔を拭えていないので、柃華のあごから雫がぽたりと落ちる。
外は光に満ちていた。あまりの眩しさに、目が痛い。
ようやく柃華が起きたのが、嬉しいのだろう。蒼海がぐいぐいと腕を引っぱる。
光が目に染みる。そして緑も。空の青も。
回廊を渡った先には四阿がある。壁のない柱と屋根だけの四阿の中央には卓があり、その上には杯がおいてあった。
「ミーシュイだよ」
「米水ですか。懐かしいです」
蒼海は、どうだとばかりに胸を張る。厨房から四阿まで、よくこぼさずに運べたものだ。と思ったが。柃華は見てしまった。
地面に点々と米水がこぼれているのを。
「米水とは。米のとぎ汁を飲むのか?」
凌星の問いかけに「さすがにそれはないでしょう」と柃華が眉根を寄せる。
「しらないの? ズーアン。ゆうめいだよ」
「そうですよ。ご存じないんですか? 皇子殿下でいらっしゃるのに」
「いや。米奬なら知っているが。色も香りも違うぞ」
凌星の言う米奬は米でできた飲み物だが。花生の粉が入っているので、米の味だけではない。
その点、米水は赤米、白米、ハト麦を煮出した飲料なので、もっとあっさりしている。断じて米のとぎ汁ではない。
「皇后娘娘が、よく出してくださったんです。作り方も教えていただいたんですけど。もしかして一般的ではないんですか?」
「私は知らん。どうだ? 天遠」
「存じあげません」
凌星と天遠は互いに顔を見合わせる。
「胃や脾臓の負担を和らげると、聞いていますよ」
「初耳だな」
あれ? 暑い夏は、厨房の女官に米水を作ってもらうことも多々あるが。実は皇后娘娘の秘伝の飲み物だったりするんだろうか。柃華は考えた。
四阿に据えられた石の椅子に座った凌星は、杯を手に取った。
「米水というだけあって、米奬ほどには、どろりとしていないのだな」
くいっとひとくち飲んだ凌星は、目を細めた。そして天遠にも座って飲むように勧める。
「失礼いたします」と言いおいて、天遠も米水を飲む。
「これはいいですね。米奬と違い、あっさりしていて潤います」
「そうだよな」
「味も淡白ですが。むしろ熱気の中ではこれくらいの薄さが、飲みやすいですね。夏に最適な飲料です」
「まったくだ」
うんうんとうなずく凌星だが。この人、もしかして味に対する言語化が苦手なのだろうか、と柃華は考えた。
でも、ちょっと。いや、ずいぶんと嬉しい。
皇后娘娘から教えてもらった飲み物なのだ。一般的ではないかもしれないが、皇后娘娘が柃華の体調を考えて勧めてくれたものを、凌星に褒めてもらえたのだから。
やはりわたしは皇后娘娘のことが、好きなのだ。大好きなのだと柃華は自覚した。いなくなってしまった今でも、変わりなく。




