25、ただいま【1】
天遠が医局まで走り、医師を連れて戻ってきた。
郭貴妃の体調を確認する間、妹の世真は「大丈夫なんですよね」「問題ないですよね」と、なんども医師に尋ねていた。
その必死な様子と、姉を乱雑に扱うさまが一致しない。
それほどに、郭家の威信を守ることが最重要課題なのだろう。
「なんでまた、こんな無茶を。いいか、郭貴妃は体が芯から冷えてしまっている。夏とはいえ、戸外に一晩放置するなど。しかも身動きもできない状態で」
なんと愚かなことを、と医師は首をふる。
同行していた医官の女性が、郭貴妃の曲げたままになっていた腕や足をさすり、丸薬と水を飲ませた。膝や肘が軋むのだろう。足と腕を伸ばされた郭貴妃は、眉根を寄せて呻いた。
「では、我々はこれで」
凌星と天遠が、郭世真を大理寺に引き渡すために歩きだした。大理寺は司法と刑罰を担当する役所だ。
柃華はひとりでとぼとぼと、星河宮への道を戻る。
暑い。午前だというのに陽射しは容赦なく柃華を刺してくる。まるで無数の光の矢が降ってくるかのようだ。
「時修媛さまよ。どうかなさったのかしら」
通りすがりの女官の心配そうな囁きが、のったりと湿った風と共に柃華の耳をかすめる。
足が重い。まるで足首に鉄の重い枷をつけられたかのようだ。
(でも。一晩じゅう灯籠の中に押し込められていた郭貴妃は、もっとおつらいわ)
そして。大量の線香の煙を浴びせられたせいで、喘息の発作を起こした皇后の苦しみはこんなものではない。
遠い。寺廟に赴くことなど、柃華はほとんどないが。それでも、歩く速度が格段に落ちているので。どれだけ歩いても星河宮が見えない。
じりじりと照りつける太陽が、柃華の肌を灼く。こめかみを汗が伝って流れた。
「リンホアさまっ」
幻聴かと思った。
「リンホアさまだぁ!」
とたとたとた、と足音を立てながら蒼海が走ってくる。はいている裙を鷲摑みにして。まっすぐに。柃華を目指して。
「わぁぁぁぁん! リンホアさま、どこにいってたの?」
どすん、と勢いよく蒼海が突っ込んできた。真正面からぶつかられた柃華は、よろけて地面にへたりこんでしまう。
「蒼海さま?」
「ばかぁ。リンホアのいじわる、おたんこなす。ツァンハイをおいていっちゃ、やだぁ」
尻もちをついた状態の柃華の膝に、蒼海はのっている。ぼたぼたと大粒の涙を流し、泣き叫びながら。
どこをどう通って来たのやら。蒼海の髪には木の葉が何枚かついていた。
「ごめんなさい。起きておひとりは寂しいですよね。この柃華の落ち度でした」
そうだ。蒼海は最愛の母に遺されてしまったのだ。父はいても皇帝だから。皇女をろくに気にかけることもない。
柃華は、蒼海を抱きしめた。
大事な大事な、あのお方の忘れ形見だ。わたしが常にお側にいて、立派に育てると誓ったのだ。
「お人形では、ダメでしたね」
「おにんぎょうは、おにんぎょうでいいのっ。リンホアさまは、リンホアさまなのっ」
なるほど。たしかに。
柃華は皇后娘娘の代わりにはなれないけれど。母親としてではなく、柃華を大事な人として蒼海は考えてくれているのだ。
(嬉しいかもしれない)
いや、ものすごーく嬉しい。
「なぜ、にやけているんだ?」
突然、背後から声をかけられて柃華は口から心臓が出るかと思った。
恐る恐るふり返ると、凌星が立っていた。背中に光を受けているせいで、逆光になって凌星の表情がよく分からない。
分からない、が。きっと意地悪な笑みを浮かべているに違いない。
凌星は腕を組んで、ふんぞり返っている。
「天遠さんと、大理寺に向かったんじゃないんですか? 忘れ物ですか?」
「君は側寫は得意なようだが。私には興味がないようだな」
「はい?」
凌星は肩をすくめた。
「見ろ。今の私を」と、凌星が己の頭を手で指し示す。早朝に宮を抜け出そうとした柃華を追うために、凌星は髪を下ろしたままだ。皇子のように髷を作るでもなく、侍女のように結って簪を挿すでもなく。
「まるでずぼらな人のようですね」
「そこじゃないだろ。今の私では侍女には見えず、男として扱われてしまうのが問題なのだ」
柃華はうなずいた。
髪を下ろしたままの凌星は、飾り気もない状態だから男性に見えてしまう。
後宮は皇帝陛下以外は男子禁制だ。後宮で生まれ育った皇子といえども、成長すれば後宮を出なければならない。
「後宮の風紀を乱したと、逆に刑部に送られて笞打ちですね。無実を訴えても、刑は執行され。その後、真実が明らかになり凌星殿下に拷問を施したと酷吏が処罰されます」
「嫌な未来を予言するな」
凌星が口を尖らせた。柃華と同じく二十代半ばであろうに。その表情に、彼の少年時代が重なったように思えた。




