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19、帰ってきた貴妃

 柃華たちが北に向かおうとした時だった。


「あら。皆さん、どうなさったの?」


 ちょうど北の方から郭貴妃がやってきたのだ。急ぎ足で歩いたのか、前で結ぶ帯の紐がほどけそうだ。


(今朝、うちの星河宮にいらした時は着崩れていなかったのに)


 柃華は立ちあがり、手を重ねて揖礼(ゆうれい)をした。


「ただの散歩ではないのか?」と、凌星が柃華に耳打ちした。確かに散歩帰りに見えるし、どこにも事件性はなさそうに思える。


(わたしの勘違いだったのか?)


 いや、貴妃ともあろう方が侍女に何も告げずに、ふらりと殿舎を出ていくものだろうか。自分ひとりの姿が見えなくなっただけで、周囲がいかに心配をして捜しまわるかは貴妃自身も熟知しているはずだ。


「心配したんですよ。どちらにいらしたんですか」と、侍女が郭貴妃に駆け寄った。


「ごめんなさいね。ほら、月が出ていたでしょ。つい月を追いかけたくなったのね。浮かれてしまってごめんなさい」


 ほほ、と郭貴妃は袖で口もとを隠して微笑んだ。


「せめて私どもをお連れください。おひとりで宮をお出になるなんて、いけません」

「ほんとにダメよねぇ、わたくしったら。何をしてもダメなんですもの、嫌になってしまうわ」


 ふと、郭貴妃が凌星に目を留めた。いや、ちがう。彼の上にいる蒼海皇女を見ている。


「蒼海皇女?」


 こくりとうなずいた蒼海が、頭を下げる。


「英和宮に来てくださったのね。よかったわ。明日にでも、お迎えに行こうと思っていたんですよ」

「迎え、ですか?」


 柃華は問うた。話が見えない。


「ええ。やはり四夫人であるわたくしが皇女をお育て申し上げた方がいいと、考え直したんですよ。こちらには皇子もいるでしょう? 年も蒼海さまよりもひとつ上ですし、お互い切磋琢磨して皇子皇女としての意識を身につけるのが、良いことだと思うんです」


「ですが」

「皇后陛下の忘れ形見である蒼海皇女は公主に、わたくしの美弓(メイゴン)皇子は皇太子に。立場は異なれど、目指す先は同じだと思うんですよ」


 まくし立てるように郭貴妃は話し続ける。


「陛下は、蒼海皇女を時修媛に任せると決断なさったようですけれど。後々のことを考えると、異国出身の修媛では何かとお困りでしょうし」

「でも……ツァンハイ、リンホアといっしょなの」


 向かい合う郭貴妃と蒼海の間に、柃華は立った。ちょうど凌星だけを、柃華の背中で隠す形になる。


「どうしてお考えを変えたのですか?」と、柃華は郭貴妃に問うた。


「今日お会いした時は、わたくしが蒼海皇女を育てるのが適任とおっしゃってくださったではないですか」

「それは。よくよく考えてみれば、やはり身分や立場というものがありますから」


 なるほど、郭貴妃の言うことも一理ある。会話している時は調子よく話をあわせていたとしても。ひとりになって冷静に考えれば、検討しなおすこともあるだろう。


「そうそう」と、柃華は明るい声で話題を移す。


「今朝は、遠いうちの宮に来てくださったのに。熱いお茶をお出しして、おもてなしに気が利かなくてすみませんでした。次にいらしてくださる時は、気をつけますね」

「え? あ、ああ。お気になさらないで」

「北方の出身なものですから。南洛国の方のように体を冷やす飲み物に詳しくないんです」


 柃華は再び礼をすると、踵を返した。


「帰りましょう」


 歩きはじめた柃華の後を、凌星と天遠が追う。

「お騒がせして申し訳ございません」という、侍女の声が背中に聞こえた。


「どういうことだ、時修媛。郭貴妃は拉致などされていないではないか」


 蒼海を肩に乗せたまま、凌星は進む。涼しさをはらんだ夜風が、高い位置にいる蒼海の緞帯(リボン)を揺らした。今日も髪の緞帯は縦結びだ。


「あれは郭貴妃ではありません」

「だが、本人だろ。同じ顔に同じ体形、衣裳も同じだ。侍女も彼女を『郭貴妃』と呼んでいた。蒼海皇女を一度引きとったことも、何もおかしくない」


 そりゃあ、ね。と柃華は肩をすくめる。

 空を仰げば、月が青白い。満月にはまだ少し早いのか、真円ではない。


「星河宮に戻りましょう。郭貴妃の捜索は明日再開します。今の段階では、貴妃に危害は加えられないでしょう。ですが、今後は分かりませんから」


 柃華は両腕を上に向けてさしのべた。袂がさらりと夜風をはらむ。


「リンホアさま。だっこいいの?」

「ええ、もちろんですよ。帰りはわたしがお連れしましょうね」


 わぁい、と歓声を上げながら蒼海が凌星の肩から降りる。


「蒼海。紫安にお礼を言いましょうね」

「うん。ありがと、ズーアン。また、たかいたかいしてね」


 純粋無垢な笑顔を蒼海に向けられて、凌星は面食らったようだ。瞬きをくり返している。

「お、おう」と、皇子らしくない返事をした。


 柃華の腕に戻った蒼海は、ぴったりと頰を寄せてきた。

 やっぱり可愛い。蒼海は可愛すぎる。

 とろけそうな笑みを、柃華は浮かべた。


 四歳の子どもを抱えたまま歩くとなると、きっと明日は腕の筋肉が痛いだろう。それでも、灯籠に照らされた後宮の夜のなか、蒼海とくっついて歩きたかったのだ。


「なんだろう。寒いわけでもないのに。首もとがすうすうする」

「むしろ風は湿って、暑いほどですよ」


 うなじをさする凌星に、天遠が声をかける。天遠にとっても、今日の仕事はもう終わりだからだろう。皇子と、近侍であり護衛でもある宦官という関係よりはずいぶんと近い。


「子供は大人よりも体が温かいですからね。でも、それだけじゃないんでしょうね」

「なんだ? 時修媛。思わせぶりな言い方をして」


 前のめりになって話す凌星に、柃華は「ふふっ」と笑みだけで返した。


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