17、蒼海にとって肩首は楽しい
ちょうど夕食の時間だ。
どの宮の前を通り過ぎても、醤油や炊いた米のにおいが漂ってきた。
「美弓殿下は、おひとりで残っていらっしゃるんですよね」
「は、はい。他の侍女がお世話なさっています。でも、お母さまがいらっしゃらないので不安そうで」
「早く郭貴妃を見つけて差しあげないと」
美弓皇子は、蒼海よりひとつ年上の五歳だ。母親が消えたなど、不安でしょうがないだろう。泣いているかもしれない。
柃華は歩を速めた。
英和宮に着く頃には、すでに辺りは宵闇に包まれていた。湿気が多いので、夜風が肌にべったりとまとわりつく。
「時修媛。私が蒼海皇女を預かろう」
凌星が柃華に手を差し伸べてくる。たしかに蒼海を抱っこしたままで、柃華は腕がだるくなっている。四歳の女の子は意外と重い。
「やっ。ズーアンじゃないの。リンホアがいいの」
蒼海は、柃華の頭にしがみついた。柃華の結った髪は乱れ、簪もずれているだろう。
(しょうがないか。ほんの数日だけれど、蒼海は郭貴妃のもとで暮らしたことがあるのだから。またこの英和宮に戻されると考えてもおかしくないわ)
「あの、貴妃さまはほんとうに英和宮にいらっしゃるんですか?」
不安そうに郭貴妃の侍女が尋ねてくる。これまで走り続けていた侍女は、ひどく汗をかいていた。この侍女は香を焚きしめていないので。潮と汗の混じったにおいがする。
「提げ灯籠を持ってきてもらえますか? 司燈にいちばん明るい物を頼んでください。そうですね、ふたつは欲しいですね」
「は、はい」
「それと。碗でも壺でもいいですが。水をお願いします」
侍女は急いで英和宮に駆けていった。皇后の暮らす玲玉宮のように門番がいるわけではない。
柃華は空を見あげた。星が見えはじめている。風に流されて散っていく雲は薄くて白い。月が昇りはじめているのだろう、雲の下の方がおぼろに明るく見える。
「雨は降りそうにありませんね」
「天気が関係あるのか? 側寫術に」
「ありますよ。明かりが来れば分かります」
不思議そうに問いかけてくる凌星に、柃華は答えた。ただ、側寫を始めるにあたって、やはり蒼海を抱えたままという訳にはいかない。
どうしたものか? と思案した柃華は、ふと思い出したことがあった。
「そうだ、蒼海。紫安が遊んでくれるそうですよ」
「は? 郭貴妃が行方不明なんだぞ。そんな呑気なことができるか」
不満そうに訴える凌星の言葉は無視だ。
「蒼海。肩首ってご存じですか?」
「ごぞんじないよ」と蒼海は答える。
「紫安が肩首をしてくれるそうです。高くて楽しいですよ。お月さまが近くなります」
言うが早いか、柃華は蒼海を凌星に渡した。肩首とは肩車のことだ。
「ちょっと待て。いきなり肩首など、私はしたこともされたこともない」
「大丈夫、問題ないです。たぶん」
柃華は小さい頃に、年の離れた長兄の威龍に肩の上に乗せてもらったことがある。両親には内緒だぞ、と言いながら威龍は人垣の向こうの大道芸を柃華に見せてくれたのだ。
一抱えもあるほどの壺をくるくると回す芸を、柃華は一心に見つめていた。長兄の肩に乗せてもらいながら。誰よりも高い場所から見る壺回しは、強烈な思い出だ。
陶岳国が建国して間もない頃で。父の補佐をしている威龍は忙しそうではあったが、今よりもずっと柃華の話を聞いてくれていた。
――兄さま。鳥が飛んでます。ほら、山を越えてきます。
幼い柃華は、空を指さした。急峻な山越えを得意とする鶴ではない。あれは群れの数も多く、飛ぶ姿も優美だ。今見える鳥は、全部で三羽。一生懸命にぱたぱたと翅を動かしているように思えた。
――ああ、通信の鳩だな。王宮に向かっているのだろう。書状を運んでいるのだよ。
――鳥さんがお手紙を運ぶんですか? くちばしにくわえて?
妹の問いかけに、長兄は声を立てて笑った。豪快な笑い方に、周囲の人がふり返る。王太子と王女が聴衆に混じっているのも、当時の陶岳国では不思議ではなかった。
――足の部分に筒を装着している。その中に、書が入っているんだ。入りきらない場合は、背にくくりつけるのだが。三羽いるのは、どれかが飛べなくなったり猛禽に襲われた場合の予備だ。険しい山を越えて人が運ぶよりも、鳩の方が早いのだ。
兄はそう教えてくれたが。どう考えても、人の方が鳩よりも大きいのにと不思議でしょうがなかった。
柃華は大道芸よりも、使命を帯びた鳥ばかりを眺めていた。
もう自分は大人で、兄に肩首をしてもらうことはない。この先も二度とありえぬことだ。
「蒼海。しっかりと紫安の頭に捕まっているんですよ」
「はいっ。いいつけ、まもります」
柃華の言いつけに、きりりとした表情で蒼海が答える。線の細い凌星は、さすがによろけた。だが、蒼海を落とすまいと足を踏んばる。えらいえらい。
「天遠。代わってくれないのか」
「私は凌星さまの護衛ですので。平時ではないこの状況で蒼海さまを肩にお乗せしては、いざという時に動けません。いかに主の頼みであろうと、お断りいたします」
郭貴妃の侍女はまだ戻ってこないので。天遠は凌星を紫安と呼んでいない。
「お待たせいたしました」
英和宮の奥から声が届いた。足音を立てながら侍女が門へと戻ってくる。そばには提げ灯籠を持った女性ふたりを伴っている。後宮の明かりの管理をする司燈だ。宮に常駐しているので尚寝局に勤める女官ではなく、その下の宮女だ。
「ありがとう。この辺りの地面を照らしてもらってもいいですか」
柃華は白い敷石を指さした。辺りには黒い土がこぼれている。侍女から壺を受けとり、てのひらに水を垂らす。指先を濡らして、三本の指で水を弾く。
霧雨のように、地面に水が散っていく。
「雨になると困ると言っていたのではないか?」と、凌星が柃華の手元を覗く。彼の頭の上から、蒼海も凝視している。
「はい。土が流れてしまいますから、雨はいけません」
周囲を湿らせながら、柃華は答えた。
「ですが。湿り気は必要です。王都である臨洛一帯の土壌は基本的に白土です。これは陶芸にも使われます。我々がふだん使用している皿も、臨洛の土を使っているので白いでしょう?」
「確かに」
「土というのは乾燥していれば白っぽく、湿ると茶色く見えるものですから。白い敷石に同色の土では見分けがつきにくいのです」
柃華はふたりの司燈に頼んで、左右から提げ灯籠で照らしてもらう。こうすることで影ができない。
「わかりました」
柃華は顔を上げた。




