16、行方知れずの郭貴妃
司燈の宮女が、殿舎に明かりを灯す夕暮れ。吊り灯籠に照らされた星河宮の回廊を駆ける女性がいた。
「あの、こちらに郭貴妃はいらしてませんか!」
郭貴妃に仕える侍女だ。息を切らせて、ぼたぼたと雫が落ちるほどに汗をかいている。
「いいえ、午前中にいらしたきりです。何かあったんですか」
まず対応したのは侍女頭の任春だ。
蒼海や凌星と共に夕食をとっていた柃華は、立ちあがった。その拍子に箸が落ちて床に転がっていく。
室内で控えていた天遠が、すっと凌星の前に立つ。やはり天遠の任務は凌星の護衛のようだ。
「蒼海。紫安とご飯を食べていてね」
「やっ。ツァンハイもいくのっ」
頬にご飯粒をつけた蒼海が、椅子から降りようとした。柃華は蒼海に待っているように伝えたが。凌星が、それを制する。
「蒼海皇女も連れて行ってやればいいではないか。それに私も行くからな」
「付き添いならば、任春にお願いします」
柃華はそう伝えたが。蒼海の頬のご飯粒を取ってあげながら、首をふった。
「時修媛、お忘れか? この私は侍女だぞ」
そうだった。今も凌星は白紫安として侍女の姿をしている。だが、ふつう侍女は主と一緒に食事をとらない。だから失念していた。建前上は、凌星が侍女であることを。
(たしかにこんな緊迫した状態で、蒼海さまを置いていくのは好ましくない)
蒼海が侍女の言うことを聞いて、いい子で先に眠る。あり得ない。
きっと柃華の後を追って、暗闇のなか星河宮から抜け出してしまう。これは大いにあり得る。郭貴妃だけではなく、蒼海まで捜すことになるし。何より危険だ。
おとなしく待っているように説得する。たぶん無理。蒼海は駄々をこねて泣いてしまうだろう。
柃華は瞬時にいくつかの状況を想定した。導き出された答えは「蒼海を連れていく」だった。凌星の提案が正しかったのが、どうにも癪だが。
「手の空いている宮女にも手伝ってもらいましょう。この星河宮でも声をかけますが、郭貴妃さまの英和宮でも宮女を集めてください」
柃華は蒼海を抱えあげると、英和宮の侍女に指示を出した。
「郭貴妃が訪れそうな場所に心当たりはありますか? そうね、たとえば御花園であるとか。ひとりになれる場所が分かれば、捜しやすいのですが」
「い、いえ。そういったところは……」
凌星を引き連れた柃華が、室を出て回廊を進む。当然のように天遠もついてくる。
(せめて手がかりがあれば。西へ進むか東へ進むか判断できるんだけど)
風が起こる。海に近い臨洛は午後は凪となる。ちょうど凪の時間が終わったようだ。潮のにおいのする湿った風が、柃華たちの裙を揺らした。
「郭貴妃がお変わりになったなど、気づいたことはありますか? この星河宮からお戻りになられたあと、郭貴妃のご様子はいかがでした?」
柃華は、貴妃の侍女に問うた。
山岳地帯で育った柃華は、蒼海を抱えながらも歩くのが速い。男性である凌星は大股で進む。ふたりのひらめく裙や袖を追いかけるように、郭貴妃の侍女は小走りに進む。
「これといって特には……あ、貴妃さまはお手紙を、ご覧になっていました」
「差し支えなければ、誰からの手紙であるのか教えてもらえるか」
すでに自分が侍女に扮していることを忘れたのだろう。凌星の口調は男性そのものだ。
「郭家からの書状、であると。他の侍女が、話して、おりました」
遠い英和宮から走って来た侍女の声は、切れ切れだ。混乱しているのだろう。幸いにも、凌星が男性であるとは気づかれていない。
「何か急な知らせでしょうか」と、柃華は凌星に尋ねる。
「だとしても、侍女頭や誰にも告げずに宮を出るものか。そもそも陛下の許可がなければ、郭家に戻ることもできぬだろう」
敷石の道を進むと、星河宮の門が見えてきた。もう日は暮れた。西の空はまだ夕映えの余韻を残しているが。すぐに辺りは暗くなる。
「時修媛。どちらに進む?」
門を出て、凌星が問うてきた。時間を無駄にはできない。
(もしわたしが郭貴妃であれば、どこへ行く? 家からの手紙が喜ばしいものであったなら、姿を消したりはしない。逆に急を要する件であっても、誰かに相談をする)
相談できない内容なのか。あるいはひとりで抱え込まねばならぬ内容なのか。
柃華は、はっとした。
「英和宮へ向かいましょう。郭貴妃は遠くへは行っていらっしゃいません」
根拠を述べたわけでもなく、柃華は断定したのに。先を急いだほうがいいと判断してくれたのだろう。凌星は柃華の指示に従った。




