14、涼茶
侍女の紫安に扮した凌星殿下は、まず郭貴妃の前に碗を置いた。
お茶にしては色が赤い。それに湯気も立っていない。
「こちらは棗と山査子、洛神花の涼茶でございます。甘味は羅漢果でつけております」
さすがに貴妃という客人の前では、凌星もしっかりと仕事をするようだ。
澄んだ深い赤に、柃華の頬が緩んだ。
洛神花は、種を包む厚く肥大した咢を煮出してお茶にする。芙蓉の一種で、花は白いが中心部は深紅だ。
南洛国のような暑い国で栽培されている。飲めば体の熱を取り、涼しくなる飲み物だ。
「リンホアさま。リアンチャだぁ」
「そうね、蒼海さま。久しぶりですね」
「ツァンハイは、さまじゃないよ? ツァンハイだよ」
お行儀悪く足をぶらぶらさせる蒼海を、郭貴妃は柔らかな表情で眺めている。
「やはり蒼海皇女の養育は、あなたが適任のようですね。こんなにも懐いていらっしゃるんですもの」
「ありがとうございます。わたしに義母が務まるか心配なのですが」
「大丈夫ですよ。わたくしでも皇子を育てることはできているのですから」
貴妃の言葉や表情は優しい。
だが、郭貴妃と柃華では出自が違う。陶岳国の常識は、南洛国の非常識ということもあり得るのだから。
柃華は碗を手にとり、涼茶を飲んだ。ほのかに甘く、そして酸味を感じる。
懐かしい味が口いっぱいに広がった。味や香りと一緒に、大好きだった皇后娘娘の顔が浮かんで消えた。
――臨洛の暑さは堪えるでしょう? 洛神花の涼茶は、体の熱さも疲れもとってくれるわ。
さぁ、どうぞ。と皇后娘娘は、柃華に涼茶を勧めてくれた。
――苦夏。つまり「暑さに負ける」という経験は陶岳国ではなかったでしょう?
皇后娘娘は、いつも柃華を気遣ってくれた。
――いつか寒い国から、王女がこの後宮に輿入れするかもしれない。南洛国の夏に苦しむかもしれない。わたくしはずっとそう考えていたの。あなたは人質同然の苦境にあっても、まっすぐだわ。だから、手を差し伸べたいのよ。
苦夏には涼茶を。
涼茶は、薬草の味がきついものもあったが。飲んだ後には、体が楽になったのだ。
もし皇后娘娘に気にかけてもらえなければ、柃華は心まで病んでいたかもしれない。後宮内で疎外感はあれども、卑屈になることなく過ごせたのは、すべて皇后娘娘のおかげだ。
薬草の味がきついものもあったが。飲んだ後には、体が楽になったのだ。
もし皇后娘娘に気にかけてもらえなければ、柃華は心まで病んでいたかもしれない。
「地久節は初代の国母の生誕の日。わたくし達も寺廟にお参りした時に、皇后娘娘にお会いしました。ですのに」
あの時は、皇后娘娘はお元気でした。まさか、同日にお亡くなりになるなんて。
言いかけた言葉の続きを、郭貴妃は飲みこんだようだ。
蒼海の前で話すことではないと判断したのだろう。
「郭家の者は、わたくしが立后されることを望んでいるのです。妹にも叱られました。『養育を断るなど、姉さんは自覚が足りない』って。でも、権力争いに巻きこみたくなかったんです。ですから親しくするわけにもいかず」
郭貴妃は賢明な人だ、と柃華は気づいた。貴妃はあえて言葉を省略することで、蒼海が理解できぬように心を配っている。
「皇后となれば、一族の栄華となりますから。当然でしょうね」
女として生まれたら、自分の人生を生きることは叶わない。家のため、夫のため、子のため、親のため。家族や人に尽くすのが当たり前だ。
それは南洛国も、陶岳国も変わりはない。
「そういえば、蒼海皇女はときどき変わったことをおっしゃるのよね」
郭貴妃の言葉に、和やかな雰囲気が一変した。柃華の持っていた碗が、こつんと音を立てて卓に置かれる。側に控える凌星が、盆を持ったまま固まっている。固まったまま、動かない。
張本人の蒼海だけが「おいしーい。ふーふーしなくてものめるよ、リンホアさま」と、洛神花のお茶をすすっていた。
柃華の背中をつつく指がある。凌星だ。
どんな「変わったこと」なのかを聞きだせと、無言で命じられている。
(いや、どうするのよ。蒼海さまは未来を語るんですね、とか。特別な力をお持ちですね、なんて言われたら。どう切り返せばいいのよ)
皇女に未来を見る力がある。それは政治のみならず戦にも利用することができる。皇帝陛下と亡くなった皇后、凌星と柃華だけが知る極秘事項のはずだ。
(どうして皇子である凌星殿下だけが、未来視の秘密をご存じなのだろう)
柃華はそう思ったが。考えてもしょうのないことだ、とすぐに思考を切り替えた。
凌星がなおも背中をつついてくる。とんとん。しだいにぐりぐりと指をねじ込まれる。けっこう痛い。
(郭貴妃に、単刀直入に尋ねるのはダメだ。話題がそれとなくずれるように誘導しなければ)
これは柃華が得意とする側寫の術ではない。
だが、真実を引きだすのと同様に、真実から目を逸らさせることも時には必要だ。
柃華は息を呑んだ。
「蒼海さまは、勘が鋭くていらっしゃるんです。朝食が魚生粥であることを、お当てになったんですよ。嗅覚がいいのかもしれませんね」
「まぁ。やっぱり?」
郭貴妃が、手をぱんっと叩いた。
「ほんの数日、蒼海皇女と生活を共にしたんですけど。お菓子がなにかお分かりになるんですよね。やはり麻花児や揚げ花生は、油の匂いがしますものね」
「そ、そうなんですよ。ほんとうに蒼海さまは嗅覚が優れていらして」
柃華の声が上ずった。うなじをひとすじ汗が伝う。
そうか。郭貴妃が蒼海に抱いていた違和感は、お菓子がなんであるかを間違いなく当てることだったのか。
(よかったぁ。蒼海さまが幼くて。お菓子にしか興味がなくて、ほんとうによかったぁ)
もし椅子に座っていなければ、柃華は床にへたり込んでいただろう。
「そうよね。鼻がいいだけよね。困ったことに美弓ったら、蒼海さまが何でも見透かすみたいで怖い、なんて……あっ」
蒼海が同席していることを失念していたのだろう。郭貴妃は手で口を覆った。
「ツァンハイ、こわくないよ」
「そうよね。蒼海さまが怖いなんて、おかしなことを言うものね。ちゃんと美弓を注意しておきましたからね」
郭貴妃はおろおろしながら、蒼海の機嫌を窺った。
美弓殿下は、郭貴妃の子どもだ。今は皇子だが、もし新たな皇后として貴妃が立てられたら。美弓殿下が皇太子となるだろう。
(やっぱり子供は聡いな。気をつけないと)
この場を乗り切ることはできた。けれど、郭貴妃だけをごまかせばいいというものではない。
蒼海の能力は隠さなければならない。その力を普通のことと考えている蒼海に、どう説明すればいいのか。柃華は頭を悩ませた。




