13、郭貴妃
翌日の午前。郭貴妃が、侍女を伴って星河宮を訪れた。
よく晴れた日だ。最近は晴天が続いているので、土が乾燥しているのだろう。香り高く咲きほこっていた玫瑰花の花弁の縁が萎れている。
庭の手入れをする司苑の宮女が柄杓で水をあげてくれるのだが。それでも足りぬようだ。
「かような遠い宮まで、ようこそお越しくださいました」
左右の手を重ねて、柃華は揖礼した。
郭貴妃の暮らす英和宮は、皇帝が暮らす寝宮に近いが。星河宮は離れている。とはいえ、馬車を使うほどにも遠くはない。輿を使うのも大げさだ。
「いいのよ。庭を歩くばかりでは、体も鈍りますからね」
侍女から手渡された手帕で、貴妃は首の辺りをぬぐった。ふわっと香りが立った。
松や樅といった、冬でも常緑の木の匂いだ。
星河宮には針葉樹は植えられていない。とすると、郭貴妃の匂いだろう。
「乳香を焚いていらっしゃるんですね。よい香りですね」
「まぁ。乳香をご存じなの? そうなの、お気に入りだから。いつも焚いているのよ」
柃華の言葉に、郭貴妃の目が輝いた。
乳香は遥かな砂漠の国で採取される。木の幹に傷をつけると、涙のように雫が溜まる。それは樹脂だ。
駱駝に乗った隊商によって南洛国に運ばれる。それは香りの道とも呼ばれる。
「わたしは一度しか嗅いだことがありませんが。涼しい森のような香りは、よく覚えております」
乳香は南洛国では採れない。貴重な香なので、同じ重さの黄金と取り引きされるという。
(さすがは郭家だわ。陶岳国の王家よりも、財力がある)
「でもね」と、郭貴妃は表情を曇らせた。
「妹が怒るのよ。贅沢をするなら、もっと華美な衣裳や装飾品にまわしなさいって」
「香りは見た目では分かりません。ですが、視覚ではなく嗅覚として印象に残ります。香りにこだわるのは粋であると、わたしは考えます」
「そうなの! すごいわ。さすがは時修媛ね」
郭貴妃の声は弾んでいる。というか「さすがは」とは? 柃華は気になったが、いつまでも立ち話をする訳にもいかない。
「最近、急に暑くなりましたから。こちらの星河宮でも、玫瑰花が萎れていますね。わたくしも宮に戻れば、花がらを摘むのを手伝おうかしら」
四夫人ともあろう人が、庭の草花の手入れをするのか。柃華は驚いた。
それぞれの殿舎を管理するのは、そこに住まう妃嬪だ。だが、実際に庭仕事をするのは司苑の宮女たちなのに。
入宮前まで柃華が過ごした陶岳国は、玫瑰花はこんなにも豪勢に咲かない。石楠花やヤマユリに黄色い花を咲かせるキスゲなど。王宮に植えられていたのは、どれも高地で花開く植物ばかりだ。
王宮の庭といっても、他国に人から見ればまるで自然の花野のようであった。
「いらっしゃ、ませ」
柃華にしがみつきながら、蒼海も郭貴妃に頭を下げた。
自分を連れ戻しに来たのではないかと、蒼海は警戒しているようだ。
「畏まらないでね、おふたりとも。わたくしが無理にお邪魔したのですから」
郭貴妃は蒼海に微笑みかけた。作り笑顔ではない、口もとだけではなく目もとも柔らかだ。
(蒼海だけでなく、わたしまで警戒しすぎだったようね)
蒼海皇女に「『さま』はいらない」と言われてから、思考の中でも柃華は敬称を使わぬように心がけている。
それに、いくら側寫術に長けているとはいえ。柃華とて誰に対しても分析するわけではない。そんなことをしていたら、疲れ果ててしまう。
自分でも気づかぬうちに、郭貴妃に対して用心しているのだと気づいた。
修媛である柃華が、直接に四夫人と話す機会はほとんどない。なかでも貴妃は皇后に次ぐ位の高さだ。
蒼海の養育を断ったことからも、もっと厳しい人だと思っていた。
蒼海皇女が公主に封ぜられるためには、後宮を出るわけにはいかない。ならば、貴妃に皇女の養育を任せるという皇帝陛下の判断は、妥当なものだった。
「どうぞ中にお入りください。お茶の用意をしておりますので」
玫瑰花が盛りであれば、庭の四阿でもよかったのだが。萎れた花を司苑が摘んでいるので、席は室内に設けることとなった。
「あら?」
盆に載せた碗を運んできた侍女を見て、郭貴妃が瞠目した。
やってきたのは凌星だ。たしかに侍女として仕事をこなすようにと話したが。まさかいきなり貴妃にお茶を運ぶなど。
さすがは皇子だ。怖いもの知らず。
回廊に面した花窗から、侍女頭の任春が覗いている。しかも慌てた風に手を動かしているのが、窗の透かし模様から見える。
(任春ったら。凌星殿下に、お盆を奪われてしまったのね)
「星河宮には麗人が多いのね」
郭貴妃は、うっとりと感嘆の声を出した。
「あの、それはどういう?」
「時修媛さまも、こちらの侍女も。いずれも女性ですのに。とても耽美でいらしゃるんですもの」
「た……ん、び?」
なんだそれは? 椅子に座った柃華と、盆を持ったまま立った凌星は互いに顔を見合わせた。隣の席にいる蒼海が、言葉の意味を知るはずもない。
ただ花窗の向こうに見える任春は、貴妃の言葉に納得したように「うんうん」と頷いていた。




