1、柃華と蒼海
いつも腰にまとわりついてきた蒼海皇女のあどけない声が、今も耳に残っている。
柃華は庭の四阿で、寄せては返す波の音を聞いていた。
夏の強い日差しを反射して室内を涼しく保つため、宮の壁も庭を囲む塀も白い。
目に入れても痛くないほど可愛がっている蒼海も、近々公主に冊封される。大人にはまだまだ早いが、一人前であると認められるのだ。
さぁっと夕風が吹き、桔梗色や橙色に染まった雲が流れていく。蓮池の緑滴る葉が、風に撫でられて水晶のような雫を落とした。
「柃華お母さま。見ぃつけた……じゃなくて、こちらにいらしたのね」
少女となり、四歳の頃よりも背も伸びた蒼海が四阿に駆けてくる。庭に誰もいないのを確認して、座っている柃華にぎゅうっと抱きついた。
「蒼海。それでは子供みたいですよ?」
「いいの。蒼海ね、柃華さまの子供だもん。いつまでも柃華さまの大事な子供だもん」
四歳の頃と同じ口調に戻ったのに、もう舌足らずの幼い声ではない。
「困りましたね」と苦笑しながら、柃華は蒼海の柔らかな髪を撫でた。
「そうだわ。今日は涼茶を作ったんですよ。五花茶なんですが、蒼海もいかが?」
「うんっ、いただきます。お母さまのことも好きだけど、お母さまが淹れてくれる五花茶も大好きなの」
確かに連取に練習を重ねて、柃華はようやく渋すぎず苦すぎず、飲みやすい涼茶を煮出すことができるようになった。生薬を使用する涼茶の中でも、五花茶はすっきりとしてほの甘く、苦みも強くない。
皇后娘娘。あなたの蒼海さまは今日もお元気でいらっしゃいますよ。
今はもういない懐かしい人の面影を思いながら、柃華は暮れていく空を仰いだ。
あれはもう七年も前のこと――
◇◇◇
南洛国の後宮で、皇后が亡くなった。
侍女の目を盗み、自ら毒を飲んだという。
それは南洛国の初代皇后の生誕を祝う、地久節の日であった。遅効性の毒であったようだ。廟に参った折に着ていた衣の袖に毒が染みていたのだ。
あまりの苦しさに、今の皇后は咳きこんで。息もできぬほどに咳きこんで、寝台から床に転がり落ちたそうだ。
絹の被子を摑んだのだろう。床に落ちた赤い被子は、まるで鮮血のようであったと。
その夜は、激しい雨が後宮に数多ある殿舎の瓦屋根を叩いていた。
夜更けなのに、辺りが白く見えるほどの豪雨。そして耳をつんざくほどの雷鳴が響いていた。
だから皇后の自殺の発見が遅れたのだ。
「あり得ない。あり得るはずがない」
南洛国の後宮。妃嬪の内の修媛である時柃華は、血がにじむほどに唇を噛みしめた。
「皇后娘娘が、服毒をなさるはずがない。何かの間違いに決まっている」
皇后は娘である皇女のために、身辺には神経質なほどに気を配っていた。
食事ごとの毒見はもちろんのこと。薬湯を飲むときですら毒見に確認をさせていた。
そんな皇后がどうして自殺などしようか。
あり得ないのだ。絶対に。
皇后の住まう玲玉宮は、無数の線香の煙が満ちていた。
目が痛くなるほどの煙だ。柃華の茶色に近い淡い色の髪にも、弔いの白い衣にも肌にも、線香のにおいが染みていく。
「おかあさま。やっぱりおきないの?」
蒼海皇女が呟いた。まだ幼いので、公主には封じられていない。
そう、たった四歳の女の子だ。母が二度と瞼を開くことなどないと、分からないのも無理はない。
顔に白い布をかけられて、寝台に横たわった母をじっと見据えている。瞳は黒翡翠のように、潤んでいる。
「ツァンハイ、しってるの。おかあさま、ねてたの。ずっと」
おや? と柃華は片方の眉を上げた。
聞き逃すわけにはいかぬ、重大な言葉だったからだ。
しかし。これから蒼海皇女はどうなるのだ。誰かがお育てしなければならぬのに。
学問を教えるのならば、内文学館の女官でも務まるだろう。
だが、いずれ蒼海皇女は公主に封じられる。
そのための教育にしつけ、心の安寧、どこへ嫁がせても恥ずかしくない品格。それらすべてを教えることができるのは、皇后の次の位である四夫人たちだけだ。
(でも。利害を考えずに、四夫人たちに皇女をお育てできるとは到底思えない)
皇女の継母となることで、空位となった皇后の座を狙う妃もいるだろう。
しかも陛下は、これで二度大事な人を失っている。
皇后を。そして陛下が皇太子時代に生まれた皇子を。
(名はたしか……宣凌星殿下だったか)
凌星殿下は、亡くなったというよりも行方知れずといった方が正しい。ある時から、いっさい表に出ることがなくなった。
位の低い女官を娶ることを許されずに、宮城を出て行ってしまったとか。宦官に執着され、無理心中させられそうになって逃亡したとか。一時期は、ろくでもない噂が立っていたが。いつしか忘れられた皇子となってしまった。
皇太子ではないのだし、凌星殿下の母親の身分は高くはないので。皆の興味も薄れたのだろう。
(陛下はこれから、どうなさるおつもりなのか)
蒼海の隣に立った柃華はしゃがみ、そっと手を伸ばした。
せめて皇女の肩に手を添えようと思ったのだ。
だが、蒼海皇女は柃華の左手を握ってきた。ためらうこともなく。
「あっ」と、蒼海がちいさく声を上げたのは、母と柃華を間違えたのかもしれない。
それほど自然に、皇后は娘と手をつないでいたのだろう。日頃から。
(そうか。皇后娘娘は、蒼海さまとふたりで歩くときは、常に右を歩いていらしたんだわ)
二十五歳の柃華は皇后よりも年上だ。背丈も柃華のほうが高い。さらに柃華は蛮族といわれる他国の出身でもあるのに。
正一品の四夫人でもなく、正二品の柃華を、皇后は大事にしてくれた。
「いいんですよ。つないでいましょう」
すぐに離そうとした蒼海の手を、柃華はぎゅっと握った。四歳の女の子の指は、こんなにも細いことを初めて知った。
柃華は、皇帝の側室である九嬪のなかの修媛であるが。入宮した当初は、白皙の青年が修媛になったと大騒ぎされた。
それほどに柃華の存在は、後宮で際立っていた。
「手をにぎっちゃって、もうしわけないです。しゅうえんさまのごめいわくになります」
たどたどしい話し方ではあるが。幼いながらも南洛国の皇女だ。言葉遣いに品がある。
きっと皇后娘娘が、蒼海皇女に教えたのだろう。立派な公主になるようにと。
蒼海が外そうとする手を、柃華はさらにぎゅっと握りしめる。
この手を離してはいけないような気がしたのだ。
柃華の判断は正解だった。
皇后の死因は自ら服毒したことではなく、他殺だったのだから。