それでしたらお譲りいたしますけれど
恋愛要素はとても控えめ。
聖女と一言で言っても備わっている能力はそれぞれだ。
個人で違うというよりは、国によって異なる、という方が正しい。
マケット国の聖女は傷を癒したりする事も結界を張る事もできないが、しかし豊かな実りをもたらす力を持っている。
他の国では逆に傷を癒す力を持つ聖女だったり、結界を張って魔獣を遠ざける力を持つ聖女がいるわけだが。
どの国の聖女もいずれも短命と言われていた。
聖女はある日神託が下る事で判明する。
生まれた時から聖女として選ばれたという者はいない。ある程度成長してから聖女として選ばれるのだ。
聖女は主に貴族階級の娘から現れることが多かった。
平民の中から出たことがないわけでもなかったが、どちらかといえば貴族の娘から出る事が多い。
貴族たちは魔法が使えるのもあって、恐らくはそれも関係しているのではないか、と一部の者たちからは思われていた。真実は不明である。
リコリス・フィールは聖女であった。
彼女が聖女である、と神託が下った時、リコリスの親は悲しんだ。
聖女という存在は人々にとって崇められる存在ではあるけれど、その悉くが若くして命を落とす。それ故に、両親は娘が早死にすると思い大いに悲しんだのだ。
子供を自分の駒のように扱う親も多いけれど、そういう意味ではリコリスの親は情に溢れていた。
リコリスは聖女となった時、自分に神託のようなものはなかったけれど、それでも「あぁ、これが」と理解はした。実りをもたらす力以外に、聖女としての特徴というべきか、ともかく別の力も感じていた。
それを誰かに言おうとは思わなかった。
言ったところでどうにもならないからだ。
恐らく歴代の聖女の中には口に出した者もいるかもしれないが、正気を疑われるか、人から遠ざけられるか……心を病むか。どちらにしてもロクな事にはならない。
リコリスはそう判断して、副産物のような力に関しては誰にも言わなかった。勿論、親にも。
聖女として別に特別何かをしなければならないというわけではない。
神殿の奥で祈りを捧げるだとか、特別な儀式をしなければならないだとか。
そういう事は必要とされていなかった。
そうはいっても、時折それらしき事をする場合もあるけれど。あくまでもただのパフォーマンスである。
なので聖女になったからとて、生活がガラリと変わる事もなかった。
それは、リコリスの――フィール家の血によるものであったのかもしれないけれど。
王族は勿論、貴族の多くは魔法が使える。
魔法といっても、誰もが同じものを使えるわけではなく大抵は一族に伝わるものだったりする。
リコリスの家、フィール家は代々その目に魔力が集まるとされ、目を媒介にして魔法を発動させる事もある。
所謂魔眼。
もっとも、誰彼構わず魔法を人様に向けて使うのは良しとされていないし、それ以前に貴族たちのほとんどは魔法に対する抵抗力も持ち得ている。後先考えずにその力を使えば待ち受けているのは自分と、場合によっては一族連座の処分だ。
聖女は短命ではあるけれど、聖女が死んだとしてすぐ次の聖女が現れるわけではない。
聖女が死んでもしばらくの間は聖女の力は残る。
そうして、先代聖女の力が薄れてきたころに、次の聖女が選ばれるのだ。
聖女となった以上、国を出る事は許されない。
他国に行けば聖女の力はそちらの土地に作用する。
かつて、そうして各国の聖女たちを独占しようと戦を仕掛けた国もあったが、結果は惨憺たるものであった。挙句の果てには神の罰か、その後数十年は聖女がどの国からも出ないという結果になりその頃は貴族も民も、相当苦労したと言われている。
聖女の祝福がなくとも人は生きていけるが、それでも貴族たちの使う魔法と聖女の祝福は異なる。貴族たちが聖女のもたらす祝福と同じものを魔法でやろうとすれば、相当な人数の魔力を消費する挙句、そのくせ聖女程の効果を得られないのだ。これは昔から何度か実験的に試されていた。
もし聖女がいなくとも、聖女と同じような効果を得られるだけの魔法が使えるようになれば、いつか聖女はお役御免になるだろうけれど、それが実現するのはまだまだ先の話だろう。
「それはそれとして、なんというタイミングの悪さ」
リコリスは隣国へ留学するつもりだったのに。
その直前になって聖女としての力が芽生えてしまったのだ。
短期滞在なら特例として許可が出たかもしれないけれど、一泊二日とか二泊三日で留学が済むはずもない。
神託がなければ黙ってこっそり出ていく事もできたかもしれないけれど、しかし下ってしまった以上何かの間違いでは? なんてすっとぼけるわけにもいかない。
結局リコリスは留学を断念するしかなかったのだ。
仕方がないのでリコリスは自国の学園に通う事にした。
正直こちらで学ぶことと隣国で学ぶことに大きな差はない。
ない、のだけれど……
リコリスはそれでも隣国に行きたかった。
何故って隣国の学園で魔法教師をしているのがリコリスの婚約者だから。
隣国には高名な魔法使いがいて、リコリスの婚約者、クレインはその魔法使いの弟子なのだ。
リコリスが成人して――学園を卒業したあたりを目途にこちらの国に戻ってくる予定ではあるけれど、それならいっそ自分が学生としてあちらの学園に留学できれば、と思ったのに。
なのに、聖女になってしまった。
学生時代、教師に憧れる一生徒としてクレインの授業を受けてみたかったのに、その願いは脆くも消えた。
せめてあと三日遅ければ……そうしたら既にこの国を出ていたというのに……っ!!
思わずガラも悪く舌打ちが出そうになったリコリスであった。
そんなわけで、しぶしぶリコリスは自国の学園に通う事になったのである。
聖女と言われても別段特別な何かをしなくてもいいから、余計な肩書がついたくらいにしか思っていない。
なので学園生活は、程々に平穏だった。時々好奇の目を向けられる事もあったけれど、それだって一瞬だ。
聖女の命は短い。その事実は知られている。
だからこそ、それもあったのかもしれない。
まぁ、そんな周囲の一部憐れんだ視線などリコリスにはどこ吹く風であったが。
聖女が短命な理由は自分が聖女になって把握した。
把握したけれど、幸い自分にそれはあまり関係がないと思ったので。
だから学園生活は何食わぬ顔で普通に過ごしていた。
聖女様とお近づきになろう、と考えた者が出たとしても、でも彼女どうせすぐに死んじゃうんでしょ? とか考えて近づいてこない者もそれなりにいたように思う。
まぁ、近づいてこられたところで、個別に聖女の力をどうこうできるものでもないので。
どうせすぐ死ぬなら……みたいに思われて勝手に遠巻きにされてる方が楽だった。
聖女だから、という理由ではなく、リコリスをリコリスとして友人扱いしてくれる者たちとリコリスはそれなりに上手くやっていた。
だからだろうか。
厄介なのに目をつけられた。
マケット国第一王子、ガイウスである。
彼には婚約者がいるのだが、学園で出会った男爵令嬢によりにもよって一目惚れし、熱烈なアプローチをかけて相手の男爵令嬢も相手が王子という事で無視できるはずもなく、それでもどうにか身を引こうとしていたのに情熱的に口説かれてコロッと落ちた。その後は頭の中で花でも咲き乱れているのかというくらい浮かれて、学園内では醜聞カップルとしてこっそりと嘲笑されていた。
婚約者である公爵令嬢は最初だけ軽く注意はしたものの、反対されればされるだけ恋心が燃え上がったのか、なんか勝手にヒートアップして手が付けられないバカップルが誕生してしまったのである。
公爵令嬢は早い段階で匙を投げ、親である公爵に現状を訴え、この婚約、無かったことにならないかしら……と早急に解消しようと奮闘していた。
正直公爵の方も王家が王命で婚約を結んでこなければ、娘には他の婚約者を……と思っていたので動くのは早かった……らしい。
そこら辺ふわっとしているのは、リコリスが直接聞いたわけじゃないからだ。噂で聞いた程度なので、詳細は確かではない。
公爵家が元々乗り気じゃなかったからこそ、王は王命を下した。
公爵家からすれば、この婚約は仕方なしに結ばれたもので別に公爵家が望んだものではない。
だというのに、王子は運命の出会いとやらをして、真実の愛だとのたまい男爵令嬢とまるで自分たちこそが被害者みたいな感じで盛り上がっているので。
公爵家からすればこれ幸いと王をせっついて解消! 早く解消を! とやっているらしいのだ。
解消しないのなら破棄でも可。勿論王子の有責で、と国王は公爵から圧をかけられているらしいが、実際やらかしているのは国王の息子である王子なので。
そもそも最初のころに注意をしたとはいえ、それ以降はさっさと匙を投げてしまった公爵令嬢は、王子と懇意になっている男爵令嬢に関わりもしなかったし、友人や寄子にあたる家の令嬢や令息たちにも必要な事態以外での干渉はしないように通達してある。
それなのに勝手に盛り上がった二人は、そのうち公爵令嬢を物語の悪役のように扱うのではないだろうか。
そんな風に見られているので。
婚約解消が先か、それとも冤罪ふっかけてさもそれが公爵令嬢の瑕疵であるかのように王子が婚約破棄を告げるか。
どちらが先かを一部で賭けにまでされているのである。
そんな、まだ決着はついていない状態でリコリスは王子に声をかけられた。
新しい恋のお相手に、というわけではない。
国を出てはならぬ、と言われている聖女であってもこんな国にいられるか! となった場合、国を捨てて他国へ逃げ出す事もある。故に、望まぬ婚姻やそれに近しい関係を強要してはならない、と言われているのだ。
大体長生きできない娘に更に望まぬ男との婚姻だとか、恋人関係をだとか、死ぬ間際に呪いが降りかかってもおかしくない所業。
なので、そういった関係になりたいとかいう話ではない事はリコリスにもわかっていたが、それはそれとして面倒な事になりそうね……と思ったのである。
ガイウスにもリコリスにも婚約者はいる。
しかしリコリスはともかくガイウスはその婚約者をほっぽって他の女に現を抜かしているので。
重要な話と言われても、流石に二人きりになどなるつもりはなかった。
従者がついていようとも、正直何も信用できない。
まぁその従者は一応王子を諫めてはいるようなので、絶対信用しないとまではいかないけれど。
ともあれ、重要な話と言われたもののすぐに応じるわけにはいかなかったし、リコリスは何かあった時のためにと話し合いには親同伴を希望した。
とんでもない話をもちかけられたとしても、それならリコリスが決断を下す必要がなくなるからだ。
余程頭の悪い事を言い出したとして、その時は陛下や王妃様がどうにかしてくれる。いくらアレだなと思う相手でも、仮にも王子なので。
下手に本心をぽろりとさせて不敬だぞ! なんて言われたらとても面倒なのである。
故に、リコリスはガイウスに失礼にならない範囲で話し合いの席を設けてほしいと希望を出した。
――そして話し合いの席は、リコリスが思った以上に早く設けられた。具体的には翌日である。
普段肝心な時は行動が遅いくせにこういう時ばかりフットワークが軽いのはどういう事なのか。
リコリスは思わずそんな目でガイウスを見てしまったし、話を持ち掛けられた国王や王妃も同様だった。
両親からそんな目を向けられるって、この人大丈夫かしら……?
リコリスは口に出せば不敬確定な事を思いながらも、とりあえずは話を聞く事にしたのだ。
「王家にある書物で見たのだが。
聖女の力は譲渡することが可能だとか」
ガイウスはそう切り出した。
聖女の力は神から授けられる。
相手がそれを望もうと望むまいと。
けれども、場合によっては聖女の力を他者に譲りその座を降りる事が可能なのだとか。
本当はもっと小難しい感じにガイウスが一生懸命説明していたけれど、ざっくり要約するとつまりはそういう内容だった。
(まぁ、確かに可能ではあるでしょうけれど)
リコリスは声に出さずに思案する。
聖女としての力を与えられた時、リコリス本人に神託こそなかったけれど、それでも自分の中に芽生えた力については自ずと理解できたのだ。あぁ、これが聖女の力ってやつなのね……と。
ある程度使い方を把握してはいるし――といってもそもそも特に何かをする必要がない――譲渡というのもやろうと思えばできる。
できるのだけれど……
「譲渡できたとして。一体どなたに譲渡なさるおつもりなのですか?」
リコリスはあえてわかりきった答えの質問をした。
「それは勿論……我が最愛のマイラだ」
マイラというのは王子が学園で出会い惚れた男爵令嬢である。
公爵令嬢という婚約者がいる以上、つまりは、浮気相手。
公爵令嬢はとっくに王子に愛想を尽かしているので、このままいけば婚約は解消か王子有責の破棄となる。
どちらにしても学園でガイウスとマイラ、二人の様子を見たことがある者たちからすれば、婚約が解消になったと言われたところで事情を察するのは言うまでもない。
あぁ、解消なんだ。破棄じゃなくて。
そんな風に思って、王子に対して内心で蔑むだろう事は想像に容易い。
破棄であるなら、蔑むよりは嘲る事になるだろうか。
どちらにしてもガイウス本人に対する心証は悪くなっても良くはならないだろう。
公爵令嬢との婚約がなくなったとして、そうなれば将来王妃になる相手がいなくなる。
これがマイラの存在無しに婚約がなかった事になるのなら、他の令嬢も王子の次の相手にと名乗りを上げたかもしれない。だが、最初から余計なオマケがついてくるのがわかっているなら、わざわざそんな相手を選ぼうと思うはずもない。
真実の愛を公言している相手と結婚して正妻の座におさまったところで、大切にされないのが目に見えているし、正妃と側妃の仲がよくなければお互い相手を邪魔と思って裏で排除しようと様々な方法を用いるだろう。
元から王宮など魔窟みたいなものだけど、わざわざそれを更にパワーアップさせるような真似をする意味がわからないし、そもそもそうとわかっている所に自分から突入するなど愚の骨頂。
王家と縁づきたい、なんて思惑のある家とて正妃となるべく娘を送り込んだとしても、その娘が蔑ろにされるのがわかりきっているような状況だ。
結果として生家すら軽んじられる事になりかねないとなれば、王家と縁を繋げるにしてもそれは今ではないと判断する。
そうなると王子に次の婚約者が現れる可能性は、かなり低くなるわけで。
王位継承権を持つ者は何もガイウスだけではないけれど、今ガイウスから継承権を剥奪するとなると、次の王になろうという野望を持つ者が他の継承権を持つ邪魔者を排除しようとして最悪内乱が起きかねない。
とりあえず次の王はガイウス、という風に装って数年のらりくらりとやって他のもうちょっとマシな相手に譲るにしてもだ。
今はまだ早い。年齢的な意味で。
「あぁ、聖女になれば、身分的には男爵令嬢であっても多少のハクはつきますものね」
リコリスは少し考えてそう口に出した。
まぁ、聖女の力を譲渡しても特別何かをするわけではない。
それっぽいムーブをするにしても、ちょっとそれっぽい衣装を着てそれっぽい儀式をするだけだ。やろうと思えば誰でもできる。
聖女になればマイラを蔑ろにはできなくなるだろうし、ガイウスとしてもその方が都合が良いのだろう。
(譲渡できる、というのが王家にある文献に記されていたとして……きっと都合の良い部分だけしか書かれていないか、はたまた見落としたのでしょうね。馬鹿な人)
表面上は穏やかに微笑んでいるが、内心ではガイウスの事を虫けらのように蔑む。
もし都合の良い事しか書かれてなかったとしても。
それでももう少し考えるべきだっただろうに。
別段何もしなくていいのなら、何故譲渡する必要があるのかを。
そうでなくとも聖女になれば寿命が縮むも同然なのに、愛する相手に早く死ねと言っているようなものだと思わないのだろうか。
(……思わないのでしょうね。王子妃、ゆくゆくは王妃となるのなら身分が男爵など論外。けれども他の家に養子として迎えさせて身分だけを整えるにしても、既に噂は広まって外聞が悪い。
己で蒔いた種なのに、それさえ何とかしてしまえばどうにでもなると思っているのかしら……目先の事しか見えていないっていうのも困ったものだわ……)
ちら、とリコリスは視線を移動させた。
明らかに王子から視線をそらしたと思われない程度に。
(まぁ、陛下も王妃様もどちらもなんと苦々しい表情。聖女に与えられた能力についてどこまで知っているかはわからないけれど、それでも……数年は時間を稼げるかしら)
歴代聖女が授けられた副産物のような能力について、どこにも情報を漏らさないという事も考えにくい。
王家なら、もしかしたら知っているのではないだろうか。聖女が早死にするのがその能力のせいだという事に。
王子妃としての教育をする時間を与えるとしたとして、その聖女の力に潰されてマイラが死ねば、その案を出したガイウスは愛する女を死に追いやった事で王妃あたりにチクリと言われるだろう。
そしてそれが事実である以上、ガイウスが否定できるはずもない。
そうなれば……どうなるのだろう?
リコリスが想像できるのは、ガイウスの我侭を聞いて身分の低い男爵令嬢に聖女の力を譲渡させて王子の伴侶にしたのだから、彼女が死んでしまった以上次の相手はちゃんと相応しい相手を、となるのか、それとももうそんな相手などいないとなって、一代限りの爵位でももらってどこかの領地でひっそり仕事をさせて使い潰すのか。
流石に廃嫡だとか、毒杯だとかまではいかないだろうと思っているけれど、彼が次の王になる事はまず難しいだろう。
聖女の力を譲渡されたマイラが果たしてどれだけもつかにもかかっているが……
(まぁ、関係ないのだわ。自分から押し付けるのは以ての外ですけれど、相手が望んで、私はそれを叶えただけ。
そして私もまた、そうすることで聖女ではなくなるのだから、隣国へ行ける。
……えぇ、どちらにとってもメリットがある)
「念のため言っておきますけれど、聖女の力を譲渡された相手は他に更に譲渡することはできません。
なのでまた私に力を返すだとか、他の方に……という事はできませんけれど、本当によろしいの?」
「誰かに譲渡する必要などない。マイラだってそれを望んでいる」
まぁ聖女じゃなくなればただの男爵令嬢で、身分という点で引っ掛かりますものね。
とは流石に言わなかった。
ガイウスの思い付きというわけでもなく、マイラ自身も聖女となって彼と結ばれる事を望んでいるらしく。
話はとんとん拍子に進み、リコリスは聖女の力をマイラに譲渡しさっさと隣国へ旅立ったのである。
中途半端な時期になってしまったが、それでも今から留学すればギリギリ婚約者が教師として働いている姿を見る事ができる。行かないわけがなかった。
ガイウスが再びリコリスの前に現れたのは、リコリスが学生を卒業し、婚約者だったクレインが夫になってからだった。
生徒という立場から卒業し、貴族の夫人として夫を支えて、自分も支えられて愛し愛され、幸せな毎日を過ごしていた日の事だった。
リコリスは聖女ではなくなってしまったので、クレインを婿として家に迎えるのではなく自らが嫁として家を出た。聖女のままであったなら、リコリスが国を出る事はできなかったので彼がフィール家に入る予定であったのだけれど。
聖女ではなくなったことで、彼女は自由を得たのだ。
リコリスの家には弟がいるので跡取りに関しては問題がない。
クレインは家から余っていた爵位を渡されているので、もしリコリスが聖女としてその命を終えていたとしても、その後の生活も特に問題が発生するような事もなかった。
嫁入り、婿入り、どちらであっても問題がないよう、二つの家は事を進めていたので。
本来ならばガイウスがこうして単身――従者がいるにはいるけれど――やって来る事はできなかったはずだ。
彼が当初の予定通り王太子となっていたのであれば。
しかしそうはならなかった。
聖女となったマイラ。聖女となったからとて彼女が男爵家に生まれた者である事にかわりはない。
故に、相応の教育を受けてから……とガイウスが立太子するまでの時間を先延ばしにされた。
その間に他の王位継承権を持つ者に、相応しい教育を施していたのだろう。
「マイラが死んだ」
憔悴した様子で言うガイウスに、リコリスは「それで?」としか思わなかった。
最初から分かり切った未来を今更言われたところで、何を思えというのか。
「こんなに早く死ぬとは思わなかったんだ……
確かに聖女は短命だと言われている。だが、君は……ランガトー夫人はそんな気配も何もなかったから……」
リコリスはクレインの元へ嫁入りしたので既にリコリス・フィールではなくリコリス・ランガトーとなっている。そんな気配も何も……と思いつつも、さて、彼はどこまで知ったのだろうかと考える。
数秒考えて、どうでもいいという結論にたどり着いてしまった。
どちらにしてもマイラが死んだ事で、聖女という伴侶がいなくなってしまった事で、ガイウスに新たな婚約者を……となったところで、既にかつての婚約者だった公爵家の令嬢はとっくに他の縁を結んでいたし、そもそも婚約者がいたのに聖女と――当時は聖女ですらなかった身分の低い娘と――恋仲になった事が知られているガイウスに新たな良縁が舞い込んでくる事など無い。
大体にして短命であると言われる聖女との婚姻を決めた時点で――いや、それ以前に公爵令嬢との婚約を無かったことにした時点で。
彼には後ろ盾と呼べるものもなくなってしまった。
公爵家だけではない。
その縁を結んだ親の気持ちすら。
気づいていなかったのは彼だけだ。
聖女を妃にして自分が次の国王になるのだと信じていたのは。
恋に浮かれ、マイラは聖女の力を与えられて。
短命だと言われていたとしても、それでもまだ十年以上は生きるだろう――そんな風に甘く考え、自分たちの未来は盤石だと信じて疑わなかったのは、彼が王族でさえなければその甘さも許されたのかもしれないが。
リコリスは既に知っている。
目の前の男は王族に籍があっても王位継承権は随分と下の方へ追いやられ、彼が王になる道は絶たれている事を。彼が王になるためにはそれこそ――ありえないが、お伽噺のように魔王とかが現れて、それを彼が打ち滅ぼして世界を救った英雄にでもならない限り、ガイウスが返り咲く事など不可能であるという事を。
「王家に聖女に関して、どのように伝えられていたかはわかりませんが。
聖女となった彼女は何か、言っていましたか?」
その問いにガイウスは答えなかった。
ただぐっと唇を引き結んで、気まずそうに目をかすかに逸らす。
「何も……ただ、声が、聞こえると……」
「あぁ、それはお伝えになられたのですね。
えぇそうです。聖女になると周囲の人間の心の声が嫌でも聞こえてくるようになるのです」
こちらがそれを聞きたくないと思ったところで、心の声は勝手に流れ込んでくる。
知りたい事も、知りたくない事も。
知ってほしい事も、知られたくない事も。
リコリスの言葉にガイウスは「では、気のせいではなかった……と?」目を瞠りどこか呆然とした声で呟くと、両手で顔を覆った。
それでなくとも。
心の声など本来なら聞く事のないものだ。
本心とは異なることを建前として述べる事だって普通にある。
そうでなくとも貴族社会などそんなものは当たり前の話だ。
貴族じゃなくとも、平民であっても貴族程ではないにしろ、あり得る事だ。
「相手の心の内を勝手に知る事ができる、と思えば貴族社会では恐ろしい話でしょう。
勝手に弱みを握られるのですから。心を閉ざしたとしても、それでもふとした瞬間に思考が零れ落ちる事はある。気を付けていたとしても、ではどこまで心を閉ざせば聖女に聞かれなくなるのか、なんてわかりませんもの。
聖女が本当に聞こえていないといっても、もしかしたら偽りではないか……? そんな風に疑ってしまえば、嘘も本当もどう答えたところで同じ事。
歴代の聖女はそうやって知りたくもなかった周囲の人間の本心を勝手に聞かされ続けて、心を病むのです。
そうして人と関わる事を恐れ、人目につかないようにと内にこもり衰弱していく。
それが、聖女が短命である所以ですわ」
「しかし君は」
「聖女に選ばれる条件、というのかしら。これはまず、魔法が使える事。最低限の自衛ができる者という意味で選ばれるのだそうです。聖女になった時にふわっと把握しただけなので、詳細まではわかりませんが。
次に、心優しき娘であること。
まぁ、これについては自分で言うのもなんですが、歴代の聖女たちもそうだった、と思っておいていただければ。
こんな恐ろしい副産物の力が与えられるのは……もしかしたら、聖女が都合よく利用されて騙されないように、とかそういう神からの祝福なのかもしれません。
これを利用できる程強かな相手であれば色々と思いのままだったでしょうけれど、そういった方が聖女に選ばれる事はありません。己の欲望のためにその力を使う事を、きっと神は良しとしなかったのかも。
直接聞いたわけじゃないのでわかりません。でも、神様の中で聖女に関して、一定の基準というのはあるのだと思います。
譲渡ができるのが一度だけ、というのは少し語弊があります。
もし彼女が、神々の思うような聖女の条件に当てはまっていたのなら。
彼女もまた譲渡できたはずです」
「だったら何故」
「彼女が聖女の条件に当てはまらなかったからですわ。
大体そんな恐ろしい副産物の力を与えられた心優しき娘は、他の人にこんな恐ろしいものを押し付けようなんて考えませんもの。譲渡した時点で戻せないというのはつまり、その時点で私も聖女の条件を外れたからですわ。
もし、もしもですが。
彼女が私の聖女としてのその副産物の力にそれとなく気づいて私の苦しみを感じ取り、私を思って自分を犠牲にして私を救おうとして力を譲渡するように言っていたのなら。
彼女もまた聖女として一度だけ、譲渡する権利があった事でしょう。
ですが実際そうではありません。彼女は当時の殿下と結ばれるためだけに、聖女という立場を欲した。人のためではなく、自分のために。我欲。それは聖女には相応しくない、と神も判断なされたのでしょう。
だからこそ、聖女となって後悔したところで彼女には譲渡しその立場を放棄する権利すら与えられなかった」
いっそ開き直って相手の心の声を利用できるほど強かになっていれば……どうだっただろうか?
そう考えるも、しかしその場合は余程上手くやらなければ聖女は敵視されるだろうなと思い至る。
自分の考えが読まれている――なんて思われた時、言葉を出さずに通じ合えていると思えるのならまだしも、よからぬ企みをしている者からすれば邪魔でしかない。
いくら心の声が聞こえるといっても、複数の声が同時に聞こえてくるような事になれば情報を処理しきれなくなるし、ましてや実際に会話をしている時であれば心の声ばかりに意識を割くわけにもいかない。
下手な受け答えをすれば、聖女が心の声を聞く事ができる事を知らない者からすれば聖女がおかしいとしか思われない。
そうなれば、その心の声が聖女に届く。
下手を踏めば負のスパイラルが発生し、まともなやりとりもままならなくなるのではなかろうか。
そうでなくとも、言葉に僅かに滲ませただけの悪意でも心に刺さる事だってあるのに、心の中に秘められた悪意が遠慮もなにもない状態で届けられるとなれば。
普通の精神の持ち主なら人間不信になるし、人と接する事に恐怖してもおかしくはない。
自分を心配してくれている相手であっても、心の中で「この程度の事で傷つくなんて」だとか「大袈裟に受け止めすぎなんだよ」だとか、ちょっとでもそんな風に思ったものですら聞こえてくるのだ。
普段であれば気にしないような言葉でも、心が弱っている時はやけに気にしてしまってそのせいで余計に傷つく、なんていう事だってある。
自分の心が立ち直るまで、ゆっくりと誰とも関わらずに癒す事ができればいいが、王子妃としての教育を受けなければならないとなっていたのなら。
(彼女の教育を任された者たちの心の声はさぞ鋭かったでしょうね)
覚えが悪い。使えない。こんなのが王子妃にだなんて……そんな風に思われて、同時に王子の婚約者だった公爵令嬢と比較されるのだ。
口に出さなくても、心の中で。
そして聖女はその心の中の声を嫌でも聞いてしまう。
周囲に、というかガイウスに訴えたところで教育係は誰も実際口に出していないのであれば、マイラの被害妄想として片付けられてしまう。
もし何度もマイラがガイウスに周囲の冷たい思いを訴えていたとしたら。
彼もまた、うんざりした事があったかもしれない。
そうして、そんな気持ちをマイラは知るのだ。
傷ついた心を、他の誰かが癒してくれる事もあるけれど。
だがそうなる前に傷つく事の方が多すぎては。
聖女の心はどんどん傷つく一方だ。
その力が神の祝福なのか試練なのかはわからないが。
どちらにしてもきっと大勢の人がいる場所になんて出られるはずもない。
塞ぎ込んで部屋に閉じこもったところでその場凌ぎで、扉の向こうにいる者たちの心の声は容赦なく聞こえてくる。離れた場所であれば聞こえなくても、扉一枚くらいなら聞こえてしまうのだから。
一人二人であればまだしも、大勢の声が同時に聞こえてきて、しかもそれらが自分にとって友好的なものでないのであれば。
部屋から一歩、たった一歩出るだけでも相当な勇気が必要になるのは言うまでもない。
食事を届けてくれる者も遠ざけて、そうしてやつれていった結果マイラは衰弱死したのだという。
リコリスからすれば、でしょうねぇ……としか言いようがなかった。
「マイラはあんなにもあっさりと死んでしまった。だが、ランガトー夫人、貴方が聖女であった間、貴方が心を病んだ様子は見受けられなかった。何か、どうにかできる手段があったのではないのですか!?」
「その質問の答えを簡潔に述べるのであれば、あった、と言えます」
「なら!」
どうしてマイラにそれを伝えなかったのだ! ガイウスの目は確かにそう訴えていた。
けれど――
「彼女には無理ですわ。だって。
それは私の血筋と、目に宿る魔法のおかげですもの」
フィール一族の魔法はほとんどが目に宿る。
それ故魔眼と呼ばれる事にもなっていた。
リコリスの魔眼は一言で言えば弱体化の魔法である。
普通に使い道はあまりなさそうではあるけれど、しかしリコリスにとってはこれが大いに役立った。
毎日朝起きて鏡で自分の顔を見る時に自分自身に魔法をかけるだけ。
そうすれば聖女としての力が弱まっていった。
完全封印してしまえば、実りの祝福まで消えてしまうのではないかと思われたが、リコリスにそこまでの力はなかった。一部だけ。あくまでもほんの少し、一部分を弱める程度しかできなかった。
だがその一部分で充分だった。
人様の心の声が聞こえなくなってしまえば、実りの力だけが残されてそれ以外は他の人間と何も変わらない。
リコリスにとっての赤の他人、友人や家族、愛する者たちの心の声などを聞く事もなく過ごせば心に負荷はかからない。
相手の心の内のなにもかもを知るというのは、使い方次第でとんでもない事になるけれど。
だが、同時に常に周囲の人間に対して疑いの心を持ち続けなければならなくなってしまう。
勿論貴族社会など疑心暗鬼に満ちた部分もあるけれど、そうとわかって受け入れている部分なのだ。そこは。
そうでない部分でまでずっと疑い続けなければならないなんて、リコリスだって魔眼の力がなければ耐えられなかった。
自分を、他人を弱める魔法。
一体それが何の役に立つのかと思っていたが、しかしそれはリコリスを救う形となった。
使い道なんて精々襲い掛かってきたならず者を弱くするくらいしかないだろうと思っていただけの魔法が、である。
聖女が短命なのは心を病み、自分自身を追い詰めて人と関わる事ができなくなるからだ。
他人だけならいざ知らず、家族や友人、自分が好きだった相手まで疑って信じられなくなる。
誰かと関わるのが恐ろしくなって、閉じこもって弱っていく。
神が聖女として選ぶのは心優しき娘であるようなので、最初から人を嫌い排他的な精神の持ち主は聖女として選ばれないのだろう。少なくとも歴代の聖女にそういった人物はいなかったと思われる。
心優しき娘が、人の本当の心を知ってなお絶望せずに聖女として在り続ける――きっと神が望んでいるのはそういうものなのだろう。
マイラも乗り越える事ができたなら、本当の意味での聖女として神に認められる可能性はあったかもしれない。
けれどそうなる前に周囲の人間が信じられなくなり、また自分が望んだ事だというのに聖女の力を疎み、それを誰かに譲渡――押し付ける事もできないとなれば、後悔し、軽率に聖女の座を望んだ自分を恨み、聖女の力を譲ったリコリスを怨んだのではないだろうか。
もっとちゃんと伝えてくれれば……!
そんな風に。
たとえリコリスが一切の偽りなしに伝えたところでガイウスと結ばれるためには聖女になるしかないと思い込んでいたマイラが聖女にならないという選択をしなかったとは思えないが。
「貴方がたのお望みは聖女の力の譲渡だけでしたから。
私は自分の魔眼の力で一部の不都合な力を弱めておりました。まさか私の目を抉りだして魔眼も寄こせ、と言われていたら流石に断っていましたわ。
まぁ、言われたところで魔眼の力はあくまでもフィール家の血筋あってのものなので、フィール家とは一切無縁だったマイラさんが私の目を自分の目と交換したところで意味はなかったと思いますけれども」
それに魔眼と言っても、全部が全部リコリスと同じ魔法を使えるというわけでもない。
フィール家の人間がこの先聖女に選ばれたとしても、リコリスのように平然としていられるとは限らないのだ。
だがそれは、他家の魔法の力であっても上手く嚙み合えばどうにかなるという事でもある。
マイラだって魔法が使えたはずだけれど、男爵家であればそこまで強い魔法は使えなかったのだろう。貴族であっても男爵家の者たちのほとんどは平民に近しい事もあって、社交界で話題になるような強大な魔法というものを扱える存在が現れた事は過去、あっても一人か二人程度だったはずなので。
魔法が使えるといっても、マイラの魔法では聖女の心が勝手に読めてしまう状況をどうにかできるものではなかった。ただそれだけの話である。
「どちらにしても、聖女が短命である事は最初から知っていた。
そしてその上で貴方はマイラさんを聖女にしようと決めた。マイラさんもそれを選んだ。
力を譲渡した時点で私もまた聖女の資格を失ったも同然なので、これ以上は何を言われてもどうにもできませんわ。
私に言えるのは次の聖女が選ばれた時、その聖女の心が強く在れる方であるように……と願うくらいでしょうか。私が聖女のままでしたら、きっとマケット国の聖女の中で最も長生きできたでしょうけれど」
慰めるつもりも、当てつけるつもりもリコリスにはなかった。
ただ事実を口に出しただけである。
マイラが死んだ後にこうしてやってこられたところで、リコリスに果たして何を望んでいるというのか。
聖女が死んでもしばらくは国に聖女の力は残っている。次の聖女が選ばれるまでにはあと数年かかるだろう。
妻になる予定だった女に先立たれた、と聞けば哀れではあるけれど、しかしマイラを早死にさせる道を選んだのはガイウスだ。
彼が。
リコリスに聖女の力の譲渡など言い出さなければ少なくともマイラが心を病んで衰弱死する事はなかった。
他の令嬢たちに邪魔だと思われて命を狙われる可能性がないとは言わない。
そもそもの話、リコリスは聖女だったけれどガイウスとはそこまで接点もなかった。
リコリスがガイウスの婚約者であったのなら、マイラが死んで今更自分の立場が随分危うい事に気づいて寄りを戻そう、なんて厚顔無恥にも言った可能性もあったかもしれないが、彼の元婚約者は公爵家のご令嬢である。リコリスではない。
彼の望むままに聖女の力を差し出したのだから、その時点でガイウスにとってリコリスという存在は言ってしまえば用無しである。
マイラのあまりにも早い死について、聖女であったリコリスなら何か知っているに違いない、と思ったとしても。
(来るのが遅すぎるのですわ)
普通そういうのは譲渡を持ち掛けた時点で聞いておくべきではなかろうか。
まぁ、聞かれたところでリコリスはきっと言葉を濁しに濁しただろうけれど。
だって、やっぱ止めます、なんてマイラが言おうものなら。
折角留学できるチャンスがやってきたのに、それが直前でなかった事になるなんてのは一度で充分なのだ。
リコリスから力を押し付けたのであれば恨み言を聞かされても仕方のない部分もあるが、話を持ち掛けてきたのはあちらから。
(まさか、真実の愛の前に聖女の短命という原因が綺麗さっぱり解消されて二人は末永く暮らしました……なんて物語のような展開を信じていたのかしら……?
私がすんなり聖女の力を譲渡したのも、まさか二人の愛に胸打たれて……なんて勘違いされていた……?
いえ、いいえ。流石にそこまで責任はとれませんわ。
お互いがお互いに利害が一致したからそうなっただけの事)
もしかしたら自分にも悪いところがあったのかもしれないな……と一瞬思ったが、すぐにやっぱそんな事はありませんわねと思い直した。
ガイウスが話を持ち掛けてさえこなければ、リコリスは留学できなかったがそれでも、聖女として国に残り続けていた。リコリスが誰かにわざとらしいくらい聖女の力を譲渡できる事や、聖女をやめたいなんて言い出した事はない。
留学を諦めて、自分の魔眼で心が読める部分を弱めに弱めていれば自分が聖女でいる方が他の人よりマシでしょうと受け入れていたのだから。
どのみちマイラは死んだ。
これは変えられない事実である。
リコリスとしてもこれ以上ガイウスと話をすることはないので、項垂れるガイウスをただ見つめるだけだった。
話が終わったのなら帰ってくれないかしら、という思いを込めて。
直接そう言うのは面倒ね……なんて割と失礼な事を思いながらも沈黙が続いて、結局「お客様がお帰りになる」と言って執事や使用人たちを使ってガイウスを追い出したのはクレインだった。
「人の心の声が聞こえる……か」
「えぇ、聖女になったその日の事は忘れられそうにありませんわ。突然色んな声が聞こえてきて、とにかく戸惑ったものです」
思えばその時点で、誰も何も言っていないのに「誰か何か言った?」なんて言い出した挙句、相手の心の声をそうと知らずに会話をしていたら、リコリスの頭がおかしくなったと思われていたことだろう。
「では、君は僕の心の声も聞いたのだろうか?」
「聖女になった、という知らせを受けて駆け付けてきてくださった時であれば、はい、と答えますわ」
「そうか」
「その後からは魔眼の力で心の声を聞かないようにできましたので、それ以降は聞いておりませんが」
「そうか」
「……どういう感情の表情なんですの? それ」
「聞いたくせに君があまりにも平然としているから」
「あぁ、そういう」
リコリスが聖女になった事で国に留まらねばならなくなったという事を知らせた時、クレインはどうにか時間を作ってリコリスの元へ駆けつけてくれたのだ。
その時に彼は自分がこちらに婿に来れば済むだけの話だと言って表面上はとても冷静に振舞っていたけれど。
心の声は酷く荒れていた。
クレインが弟子入りしている魔法使いがこちらの国にいるからこそ、彼はこの国であれこれやる事になってしまっていたけれど、流石に結婚した後までは無茶振りはされないと師である魔法使いからも言われていた。
リコリスが嫁に来るのなら、今のうちにガンガン働いて稼いでリコリスのために居心地の良い屋敷作りでもしておけと言われて、仕事の忙しさの合間合間で新婚生活を夢見てリコリスの好みをふんだんに取り入れた内装や家具の手配をしていたのに、リコリスが聖女になってしまった事でその屋敷は無駄になるところだったのである。
そりゃあもう内心荒れた。
彼女のために用意したあれこれを、彼女がこちらに来た時に見せて驚かせたかったのもあったし、喜んでほしかった。けれど聖女になってしまったから、その屋敷を見てもらう事もできない。
いっそこの国をどうにかして滅ぼして、彼女を連れ去ってしまおうか……なんてとんでもない事まで考えてしまったくらいだ。
「物騒な部分もあったけれど。
愛されているなぁ、と思いました」
「そうか」
「照れていらっしゃいますか?」
「わかって聞いているだろう」
「えぇ。貴重だなと思って」
そう言ってふわりと笑えば、クレインは観念したように目を細めて無理矢理に笑みを作った。
「あの時はまるで、迷子になった幼子のような心境でしたものね」
「みっともないと思ったのだろう」
「いいえ。
むしろ普段からなんでもそつなくこなす方でも、そういう気持ちになる事があると知ってちょっとときめきました。
それと同時に、留学できなくなってしまった事がとても悲しかったのです」
強引に連れ去ってしまおうかとも思っていただけに、てっきりそこで幻滅でもされてしまったのではないかと思ったのに、返ってきた言葉はクレインにとっては正反対で。
「流石、元聖女様は心が広い」
そう言ったのは完全に照れ隠しだ。
既に照れている事は知られてしまったけれど、それでもまだ取り繕えるのではないかと精一杯の虚勢でもあった。
「いいえ」
けれどもリコリスは穏やかに笑んだまま、ゆるりと首を振った。
「聖女だったから心が広いのではなくて、貴方だから、です」
そう言われて。
ときめきが許容量を超えたクレインは胸を押さえて倒れこんだ。
完敗である。
次回短編予告
婚約者がいる王子様は、しかし他の女性を好きになってしまいました。
王子様の想い人は言います。
婚約者の彼女に嫌がらせをされて……
涙ながらに語る女性を救おうとした王子様ですが、しかし気付かなければならない事に気付けなかったので。
次回 墓穴を掘るのは構いませんが
投稿は近々。