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8.バイトその二・宿屋の厨房

 さて、宝石店にはどうやら縁のなかったフロリアナだが、まだアルバイトの当てがある。


『フロルは色んな料理を食べてきただろう? だったら、食事を出す店なんか向いているかもしれないな』


 ゲンの言葉を思い出して、きょろきょろ辺りを見回しながら下町を歩いていると、大きな建物の裏口が開いているのが見えた。

 中では大勢の人が働いていて、その全員が白い制服を着ている。


「ここは厨房ですね。表は宿ですから、食堂で出す食事を作っているのでしょう」


 ラスの説明にひとつ頷いたフロリアナは、建物の外で野菜を洗っている人物に挨拶をした。


「ごきげんよう。ここでわたくしを働かせてくださらないかしら」


 年若いその人物は、フロリアナを見て目を丸くした。


「バイト志望か? 悪いけど、俺は下っ端なんだ。待ってな、シェフを呼んでやるよ」


 そうして現れたのは、白くて背の高い帽子をかぶった、ひとりの男だった。


「なんだ、あんたは」


「初めまして。ここで雇っていただけませんか。わたくし、なんでもいたしますわ!」


 その男――、シェフは、怪しげなものを見るような視線をフロリアナに向けたが、やがてため息をついた。


「まあ、いい。猫の手も借りたいところだったんだ。こっちに来い」


 厨房の中は迷路のように入り組んでいた。机の上に食材が大量に転がっているかと思えば、大きなかまどの前で何人もの男女が調理に取り組んでいる。

 フロリアナが連れて行かれたのは、大量の食器が積みあがった場所だった。


「ここで食器を洗ってくれ。ところで、あんたの格好はいったいどうしたことなんだ?」


 フロリアナにそう尋ねたシェフは、周りの反応を見る限りここの責任者であるようだった。

 フロリアナは得意になってふふん、と鼻を鳴らした。


「お食事を扱うところでは、白い服を着るのでしょう? だから、白いドレスを選んできたのですわ。あなただって白い制服をお召しになっているではありませんの」


「これはシェフコートっていうんだ。やたら場所をとるあんたのドレスと一緒にするな! まったく、遊びじゃないんだぞ」


 シェフは言い捨てると、ずかずかと厨房の中心へ戻っていった。

 常に火を使っているせいだろう、厨房の中は気温が高い。シェフの様子を見て、フロリアナはなるほど、と思った。


 ――きっと、暑くてイライラしているのね。


 厨房で働くのは大変だわ、フロリアナはとシェフの背中を見送る。次いで、ひらひらとしたレースの袖をまくり、いざ、皿を持った。


 水の溜まっている巨大な桶に皿を浸して、湿らせたスポンジに洗剤をつけて洗う。

 勢いよくこすっていると、皿がつるりとすべって桶の外に飛んでいった。


「あら? あらあら……?」


 がちゃーん、と音がして皿は無残な姿になる。それからも奮闘したフロリアナだったが、触った端から皿は割れていく。


「おかしいですわね……。食器がつるつるすべって……」


 内心首を傾げたフロリアナは、はたと気がついた。自分が、皿になど、触ったことがないということを。

 皿の上げ下げは全て、侍従がする。フロリアナが今までに持ったことがあるのは、ナイフやフォークといったカトラリーだけだった。


「なるほど、お皿って案外重いんですのね。そして、洗剤をつけると食器はすべりやすくなる、と。わたくし、またひとつ賢くなりましたわ!」


 それではどう工夫しようか、とフロリアナが次の皿に手を伸ばすと、シェフの声が厨房に響いた。


「おい、なにをやっているんだ!」


 フロリアナの前に現れたシェフは、顔を真っ赤にしている。額には、血管が浮き出ていた。貴族社会では感情を表に出さないのがマナーだから、フロリアナはこんな表情を見たことがない。


 ――これは、もしかして、すごくすごく怒っているのかしら?


 フロリアナがわくわくしながらシェフの言葉を待っていると、案の定、彼は怒鳴り声を上げた。


「お前、何枚皿を割れば気が済むんだ。いい加減にしろ!」


「うふふ、申し訳ないことをしましたわ」


「なんで怒られているのに目をきらきらさせているんだ?」


「だって、怒鳴られるのなんて、生まれて初めてなんですもの。新鮮ですわ!」


 シェフは、なにかを諦めたかのようにため息をついた。


「はあ……。もういい」


「お待ちになって。今、傾向と対策を考えておりますから」


「厨房はあんたの実験室じゃないんだ。食器洗いはもういいから、野菜の皮むきをしてくれ」


「もちろん、よろしくてよ!」


 フロリアナは満面の笑みで仕事を請け負った。


 厨房の外れに移動したフロリアナの前には、野菜がごろごろと転がっている。野菜の存在はもちろん知っているが、調理前の姿を目にしたのはこれが初めてである。

 シェフは、親切にも野菜をむいて見せてくれた。


「いいか、こうやって野菜を回しながら皮をむくんだ。知っていると思うが、これはじゃがいも。こっちはにんじん。そしてこれは玉ねぎだ。せいぜい、頑張るんだな」


 じゃがいもも、にんじんも玉ねぎも見たことがなかったが、シェフは実に簡単そうに皮をむいている。 

 これなら自分にもできそうだ、と思ったフロリアナは、早速包丁を手に取った。


 まずはじゃがいもから。


「こっ、これは……。全然、切れませんわ……!」


 じゃがいもの表面はごつごつしていて、刃が全く先に進まない。どうしたらいいのだろうか。腕を組んで考え込んだフロリアナは、じゃがいもを眺めているうちに天啓を得た。

 まな板にじゃがいもを置くと、、さくさくと切る。


「できましたわ……!」


 じゃがいもは美しい正方形になってまな板に並んだ。


「ばか野郎! なにをやってやがる」


 後ろで見守っていたらしいシェフの怒鳴り声が、厨房にこだました。


「こんなことをしたらもったいないだろうが! いいか、皮は薄くむくんだ。食材への冒涜だぞ」


「それは申し訳ないことをいたしました。次は気をつけますわ」


 皮むきとはなんと奥が深いのだろう。絶対に、このシェフを満足させてみせる。去っていくシェフを見送って、フロリアナはにんじんに手を伸ばした。


「いざ、まいりますわ!」


 シェフはにんじんの皮を、まるでリボンのようにむいていた。薄く、薄く。フロリアナの手はぶるぶると震えた。


「いい感じですわ……」


 シェフのようにはいかないが、少しずつ皮をむいていく。これなら、冒涜とは言われないだろう。


「シェフ! これ、シェフ!」


 にんじんの皮を一本むき終わると、フロリアナはシェフを声高に呼びつけた。


「なんだ。できたのか」


 律儀に現れたシェフは、フロリアナの自信作を見ると顔色を蒼白にした。顔色がころころ変わるシェフを見て、忙しい人は大変だなあとフロリアナは心から同情した。


「なあ、なんでこのにんじんはこんなに赤いんだ?」


「赤い? にんじんは可愛いオレンジ色じゃありませんこと?」


「おい、ちょっと手を見せてみろ」


 シェフに差し出した手は、血だらけだった。


「ほら、傷を洗って、はちみつを塗っておけ」


「まあ、かたじけないですわ」


 にんじんをも取り上げられたフロリアナは、最後の砦、玉ねぎの皮をむきはじめた。シェフが言うには、なんと玉ねぎの皮は手でむけるらしい。


 ――これこそ、わたくしのための野菜!


 こんなものは楽勝だと口角を上げたフロリアナだったが、ぺりぺりと皮をむいているうちに異変に襲われた。


「なんでしょう……。目がなんだかおかしいですわ」


 ぺりぺり。


「ううっ、涙が……」


 おかしい。貴族令嬢の鑑として生きてきた自分が、ゲンの前に続いて、ここでも泣いてしまうなんて。貴族でなくなってから、涙もろくなってしまったのだろうか。


 ぺりぺり。


 ――こんなことで、泣いていられないわ。


 指で目をこすった。次の瞬間、フロリアナはあまりの刺激に絶叫した。


「きゃあああああ!」


 フロリアナは、学院の授業のおかげで知っている。ある特定の物質を混ぜ合わせると、毒ガスが発生することを。この強い刺激こそ、毒ガスに違いなかった。


「毒ガス! ここには毒ガスが発生していますわ! 皆さん、お逃げになって!」


 厨房は瞬く間に混乱のるつぼと化した。


「おい、どうなってる?」

「毒ガスだとよ」

「このままじゃ死ぬぞ!」


 皆で先を争うように外に出ると、通行人が驚いたようにフロリアナたちを見た。


「毒ガスだって? どういうことだ」


 フロリアナの元に走ってやってきたのは、シェフだった。


「玉ねぎの皮をむいていたら、すさまじい刺激を感じたのです。皆さんが無事だといいのですけれど……」


「玉ねぎの皮、か。それは目がしょぼしょぼしたり痛くなったりすることか?」


 シェフは腕を組んで、フロリアナを見下ろす。


「そうですわ、なぜ分かりますの?」


「あのなあ……、玉ねぎの皮をむいたり切ったりすると、粘膜を刺激する成分が出るんだ。毒ガスじゃねえよ、人聞きの悪いことを言いやがって」


 シェフは盛大にため息をつくと、仕事仲間に向かって声を張り上げる。


「お嬢ちゃんの勘違いだ、持ち場に戻れ!」


 そうして彼は、いかにも哀れなものを見る目つきでフロリアナを眺めると、静かな声で言った。


「お嬢ちゃん、あんたにやる気があるのはようく分かった。だが、向き不向きってものがある。その、なんだ。もう少し常識ってものを身につけたらまた来い。そのときは雇ってやるから」


 握手をするようにフロリアナになにかを手渡すと、彼は厨房へと戻っていった。

 手の指を開くと、中から出てきたのは、またもや可愛らしい硬貨だった。


「お嬢さま、ご無事ですかっ。なんでも、毒ガス騒ぎがあったとか?」


 駆けつけてきたラスに、微笑みかける。


「ええ、大丈夫よ。それよりラス、わたくしまた小銅貨をもらいましたわ!」


「それはまさか、またク……。いえいえ、お嬢さま、よく頑張られましたね」


「そうでしょう? くふふ、雇っていただけなくても、こうやってお店を回っているだけでお金を稼げてしまうのではないかしら?」


 フロリアナはほの暗い笑みを浮かべた。こんなに簡単に、お金を稼げてしまうなんて。

 ラスが、感心したように首を縦に振る。


「さすがお嬢さま。やはり庶民とは目の付け所が違いますね。ですが、そうしてお金を稼げるのは一度きりです。アルバイトとは、長く続けられるのがいちばんなのではありませんか?」


 ふむ、とフロリアナは考え込んだ。言われてみればその通りである。春休みの期間、ラスの給料を稼ぐために働くと決めたのだから。




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