3.フロリアナ、家なしになる
「……ちゃん、お嬢ちゃんったら、おい!」
「ひゃう!」
勢いよく体を起こすと、フロリアナは数人の男女に囲まれていた。目の前を流れる川は思ったよりも大きく、流れは緩やかだ。
「あら……? ここはどこかしら」
「ここはべレク橋のたもとだよ。そこを流れているのはシュルナ川。それでお嬢ちゃん、あんたはなんでこんなところに落ちているんだい」
そう話したのは、髪と髭が伸び切った男性だった。そのせいで年齢の見当がつかないが、おじいちゃんと呼ばれるような歳ではないだろう。
――お髭が、もじゃもじゃだわ。
フロリアナにとっては初めて見る人種だったが、彼の声は優しげな響きをしている。
「教えてくださってありがとうございます。ごきげんよう、皆さま」
「なに優雅に挨拶してるんだ。あんたは何者だ? どこから来た」
髭もじゃ男の追及に、フロリアナはにっこりと笑う。
「わたくしはフロリアナと申します。ええっと、丘の上からまいりました」
「丘の上……? どういうことだ?」
フロリアナを囲む男女が囁き合い、彼らを代表するように、髭もじゃ男が再び口を開く。
「お嬢ちゃん、もっとはっきり言ってくれないかい。俺たちから見れば、どこだって丘の上なんだよ。厄介ごとはごめんだ。説明できないなら、すぐにここから出て行ってもらうよ」
「お待ちくださいませ! ちゃんとお話ししますから、追い出さないで」
せっかく素敵な場所を見つけたのだ。もっとここにいたい。
「わたくし、貴族学院の学生ですの。でも、春休みの間は寮が閉鎖されるので、閉め出されてしまったのですわ」
「ふうん。それは大変だな。それで、なんで実家に帰らないんだい?」
髭もじゃ男が訪ねる。周囲の男女も、興味津々の様子だ。
フロリアナは俯いた。
「……なくなってしまいましたの」
「は?」
「ですから、家がなくなってしまったのですわ! わたくしには、帰るところがありませんの……」
周囲が静まり返った。ただひとり、髭もじゃ男がフロリアナの前にしゃがみ込み、深くため息をついた。
「貴族の、しかもこんなに若い娘が『家なし』かい。世も末だね。なんだっけ、フロリ? フロナ?」
「うふふ、フロルと呼んでくださいな。家族は皆わたくしのことをそう呼びますのよ」
家族、と口にして、フロリアナの胸にこみあげるものがあった。母親は既に亡くなっていて、きょうだいのいないフロリアナにとって、肉親はただひとり、父親である公爵しかいない。
それでも、ラスを始め、公爵家で働いてくれている者たちのことを、フロリアナはずっと家族のように思ってきた。
共に屋敷で暮らす使用人たち。父、ベルントの側近である家臣は皆優秀で、セレン公爵家は王国の中にありながら、小王国とまで呼ばれていたのだ。そんな家臣たちも、フロリアナにとっては優しいおじやおばのようなものだった。
――でも、もう、誰もいない。
セレン公爵家にはいくつかの分家がある。しかし、いちばん近しい家は今、当主が代わり大変忙しくしていると聞いていた。他の家は領地が遠すぎる。
なにより、王太子に婚約を解消されて、危うい立場にいる自分が、安易に親戚を頼っていいとは思えなかった。
フロリアナの視界が、みるみるうちに透明な膜に覆われる。
「っつ……」
令嬢たるもの、人前で感情をあらわにすることなどあってはならない。それでも、どうしても抑えられなかった涙が、ぽとりぽとりと鮮やかな赤のドレスを濡らした。
「おいおい、フロル、しっかりしろ」
フロルと呼んでもらえたことが嬉しくて、更に涙腺が刺激される。唇を引き結ぶが、喉の奥で、ひぐっ、と変な音がした。
「そんなに泣くな。こんなところを誰かに見られたら、俺たちは犯罪者扱いだ。頼むよ、ここにおいてやるから。な?」
「ありがとうございます……」
フロリアナは両手で顔を覆って、静かに泣いた。
「先ほどは、大変失礼いたしました」
しばらく経って落ち着きを取り戻したフロリアナは、赤面しながら頭を下げた。それを見て呵々と笑ったのは髭もじゃ男だ。彼はゲンと名乗った。
「泣き止んでくれてよかったよ。それでフロル、飯は食ったのかい」
そういえば、昨日からろくにものを食べていない。急に空腹を感じて、フロリアナは懐をごそごそと漁った。そこには、ラスの作ったクッキーを忍ばせている。
「そうですわ! 皆さんもいかがですか。わたくし、このクッキーが大好きですの」
「そんなに量がないじゃないか。フロルがひとりで食べな」
「いいんです。たくさんの人にラスの作ったお菓子を食べてもらいたいんですの。あっ、ラスっていうのは……」
ラスは今頃どこにいるのだろう。もう彼に会えないのだろうか。思わずしおれかけたフロリアナを見て、ゲンが慌てたように言った。
「もらう、もらうから! ほら、お前たちも食べろよ」
ハンカチの上に広げたクッキーを、皆でつまむ。
「なんだ、これ……」
「おいしい……」
「こんなにうまいものは初めてだ……!」
ラスのクッキーは大好評だった。ゲンも目を丸くしている。
「いや、これは驚いたな……。お貴族さまは、こんなにおいしいものを毎日食べているのかい」
「ラスのクッキーは、特別おいしいのですわ。でも、そうですね……。食べるものに困ったことなんてなくて、わたくし、今までずっと贅沢をしてきたんですのね……。」
温かな食事、ベッド、家。それらはフロリアナにとってあってあたりまえのものだった。失ってから初めて、自分が恵まれていたのだということに気付く。
隣を見ると、ゲンが髭の奥で笑った。
「これからは、飯は自分で確保しなくちゃならない。来な、フロル。この辺りを案内してやるよ」
改めて見ると、川沿いには木の板でできた小屋が並んでいた。その広さは、人ひとりがやっと横になれるかどうかといったところだ。
「ここは、なんですの?」
「これが俺たちの家さ。ここに来た奴は、自分で家を建てて、自分で飯を確保する。貧相な暮らしに衝撃を受けたかな?」
ゲンが自嘲するような笑みを浮かべるが、フロリアナはそんなことに構っていられなかった。
「素晴らしいですわ……!」
「は?」
「なんて素敵なんですの。わたくしも、自分のお家が欲しいですわ!」
身体を包み込むようなサイズの小屋で寝たら、きっと安心するだろう。素朴な木の壁に花を飾ったら、可愛くなるに違いない。
なにより家を建てたら、宿なしフロルから脱却できるのだ。
昨日、砂利の上で寝て、体があちこち痛いフロリアナである。
「これが素敵、か……。お嬢さまの考えることはよく分からないな。まあいい、まずは朝飯だ。クッキーだけじゃ足りないだろう。ここへ来た記念に、俺がごちそうしてやるよ」
ゲンが取り出したのは、よくしなる棒のようなものだった。先端に糸が付いている。
「それはなんですの?」
「まあ、見てなよ」
細い棒を振りかぶって糸を川に投げ入れる。しばらく棒を持ったまま立っていたゲンだったが、不意に棒を引くと、糸がぴんと張った。
「なにが引っかかりましたの?」
ゲンの隣をうろうろしていると、水しぶきの音とともに冷たくて、ぬるっとしたなにかがフロリアナの頬を張った。
「へぶっ」
「うおっ! フロル、すまん! お前が釣り竿の近くをうろちょろするもんだから……。ほら、魚だよ」
いつの間にかゲンの手から、フロリアナの顔より大きな魚がぶら下がっている。
「魚? それってお料理に出てくるお魚のことですの?」
「あたりまえだ。フロルは魚を見たことがないのかい」
「いいえ、食事にたくさん出てきましたもの。でも、わたくしが知っているのは、白くてふわふわしたお魚ですわ。こんな、ぬめっとして変なにおいなんてしませんでしたわよ。あっ、せっかくゲンさんが獲ってくださったのにごめんなさい」
フロリアナの言葉に、ゲンの表情が凍り付く。
「いや、それはいいが……。嘘だろ、フロルお前、切り身がそのまま川を泳いでいるとか言わないよな?」
「ばかになさらないで。魚はシェフが洗って、焼いたり蒸したりしてお料理になるのですわ。食べられる魚が白い色をしているのでしょう?」
フロリアナは胸を張って答えた。ところが、ゲンはなぜか、がくりと肩を落とす。
「やっぱりそうだったか……。フロル、とりあえず女たちが湯を沸かしているだろうから、顔を洗ってきな。生臭くて気持ち悪いだろう」
「ゲンさんは?」
「シェフの代わりに、俺が魚を食べられるようにしてやるよ」
川べりは、どうやら住処を男女で分けているようだ。昨日、フロリアナが野宿した大きなたき火があるのが、男性側。橋の下を隔てて反対側に、少数ではあるものの女性が住んでいるらしい。
「ごめんくださいませ」
「おや、いらっしゃい。さっきはクッキーをありがとうね」
朝、フロリアナを取り囲んでいた者の中にいた女がにっこりと笑った。
「あの、ゲンさんに聞いたのですけれど、お湯を貸していただけますか?」
「はいよ。いくらでも使いな。そこにある小屋では、体を拭けるよ。なんせ、目の前に水が大量にあるから、湯は使いたい放題なんだ」
フロリアナは驚きに目を見開いた。
「すごいですわ。ここにはなんでもありますのね」
「なんでもってことはないが……、少しでも快適に過ごせるように努力はしているよ。特に清潔は大事だからね。女たちで交代して外を見張りながら、あたしたちは毎日湯を浴びているんだよ。男は別の小屋を使うから、ここは女専用だ。安心だろう?」
ウインクする女に礼を言って、冷ました湯で顔を洗う。頬に落ちた髪をひと房つまんで、フロリアナは小さくため息をついた。
――髪が邪魔だわ。
どうやら、赤が王族の色だとは知られていないらしいが、そうでなくとも派手なこの髪は目立つし、動くとふわふわと顔にかかる。フロリアナの髪は柔らかくて細い分、絡まりやすくて、これではすぐに鳥の巣になってしまいそうだ。
ラスが綺麗にセットしてくれたハーフアップを解いたフロリアナは、苦労して髪をひとつにまとめた。
なんなら切ってしまってもよかったが、ひと月後には学院が始まるのだからと、さすがに思いとどまる。
先ほどの場所に戻ると、ゲンがたき火に向かっていた。どうやら、串に刺したなにかを焼いているようだ。
「ゲンさん、お待たせしました。これはなんですの?」
「おう、フロル。ちょうどよかった。今、魚が焼けたところだよ」
ゲンが差し出したのは、串刺しになった黒っぽい魚だった。無残な魚の姿になにも言えなくなったフロリアナの手に、ゲンが串を握らせる。魚は、なんと目から尻に串を通されている。おまけに腹に穴が開いていた。
「これに塩をまぶして、そのままかぶりつくのさ。こんなふうに」
塩が入っているという瓶をぱぱっと振って、ゲンは魚の腹に食いついてみせた。
――どうしよう……。
一瞬ためらったフロリアナだったが、まともに食事を摂ったのは昨日の朝食が最後だ。あまりの空腹に耐えかねて、ゲンをまねてぱくりと魚をかじる。
「んんっ……!」
フロリアナは言葉もなく、ぱくぱくと食事を続けた。やっと人心地ついて、ゲンに興奮そのままに問いかける。
「とってもおいしかったですわ! ゲンさん、これはなんていうお料理ですの?」
「料理というほどのことでもないよ。川魚を塩焼きにしただけさ。内臓は取っておいたから、食いやすかっただろ?」
「黒い魚もおいしいんですのね」
うんうんと頷くフロリアナに、ゲンは深くため息をついた。
「だからな、フロル。魚は元々白くないんだ。今お前が食べた魚の中身はどうだった?」
「白くて、ふわふわでしたわ。……まさか」
「そうだ。やっと気づいたか!」
「お魚は、食べ頃になると色が変わるんですのね?」
「違う! フロルが見たことのある魚は、料理人が捌いて調理したあとの姿なんだよ。俺が魚を釣り上げたのを見たろう? 魚は本来、ああやって水の中で泳いでいるんだ。ちなみに、赤身の魚もいる」
「ゲンさん……。ありがとうございます。わたくし、またひとつ賢くなりましたわ!」
もはや、呆れた様子でフロリアナを見つめるゲンである。