2.セレン公爵家没落
翌日、フロリアナは赤いドレスを身にまとっていた。髪はラスの手でハーフアップにセットされている。
彼の給仕のもと、朝食を摂っていると、部屋の扉が三回ノックされた。規則正しいノックの音は、おそらく学院付きの侍従のものだろう。毎朝、学生宛ての郵便物を、侍従が届けてくれるのだ。
扉を開けて対応したラスは、フロリアナの予想通り、一通の封筒を持って戻ってきた。
「お嬢さま、お手紙です。旦那さまからですよ」
「お父さまったら、今日の夜には会えるのに、どうなさったのかしら」
真珠を溶かしこんだような光沢のある封筒に、セレン公爵家の家紋である白鳥をかたどった封蝋。間違いなくフロリアナの父、公爵ベルントからの手紙だった。
差し出されたペーパーナイフでぺりぺりと開封すると、中に入っているのは便箋がたったの一枚。
『フロルちゃんへ
我がセレン公爵家は没落しました。
領地は他の貴族に割譲します。
使用人の皆さんには新しい職場を紹介したので、心配しないでください。
学費は入学したときに全額払っているから、フロルちゃんは卒業まで学院でお勉強をしながら過ごしてね。
パパは出稼ぎに行きます。ごめんね! フロルちゃんを愛するパパより』
これにはのんきなフロリアナも仰天した。貴族とは、簡単に没落するものなのだろうか。商家が破産するのとはわけが違う。貴族には領民を守る義務があり、王国運営の一端を担う役割がある。
おまけに、セレン公爵家は王家の親戚でもあるのだ。こういう場合(どんな場合?)には、王家が手を差し伸べてくれるのではないだろうか。
いや、とフロリアナはかぶりを振った。今更ながらに、王太子との婚約を解消したことを思い出す。
――王家は助けてくれなかったのね……。
手紙をわしづかみにしてぷるぷる震えていると、ラスと目が合った。彼は心配そうに眉を下げている。
「お嬢さま、お顔の色が悪いですが、大丈夫ですか? 手紙にはなんと?」
「ラス……。セレン公爵家がなくなってしまいましたわ……」
フロリアナが手紙を差し出すと、ラスは一礼して手紙を読み始めた。その表情が、どんどんこわばっていく。
「これは……、なんと……」
しばらく沈黙していた彼は、真剣な面持ちでフロリアナに告げた。
「お嬢さま、落ち着いてください。これはきっとなにかの間違いです。今から私は馬を飛ばして、公爵家へ行ってまいります。もしも私と行き違いになって迎えの馬車が来たら、待たせておいてください。いいですか、なにも心配はいりませんからね」
ラスは、フロリアナに目線を合わせて話すと、落ち着いた様子で部屋を出て行った。
ところが、わずかののちに窓へ視線をやれば、ラスは厩の方向に疾走していく。フロリアナはくすりと微笑んだ。
自分の前では冷静沈着なラスも、どうやら慌てているようだ。
昼をとうに過ぎても、公爵家からの迎えの馬車は現れなかった。長期休みの間、寮は閉鎖されるので、春休み初日、つまり今日の昼までに寮を退去しなければならない。
待ちくたびれてうとうとしていると、こん、と雑なノックの音が転がって、フロリアナはその場にぴょんと跳びあがった。来客の対応はいつもラスがしていたので、自分で部屋の扉を開けたことがない。
「ど、どなたですの……」
おっかなびっくり誰何すると、返ってきたのはフロリアナにも聞き覚えのある声だった。
「寮長です。フロリアナ嬢、開けていただけますか」
かちゃり、と細く扉を開けると、扉の下から足が差しこまれた。
「わわっ」
あっという間に扉が全開になって、目の前に寮長が立ちはだかる。険のある表情を浮かべた寮長は、厳格なことで有名だった。
「フロリアナ嬢。もう退去の時間はとっくに過ぎておりますよ」
「申し訳ありません。実家の馬車が遅れておりますの。もう少しだけ、待たせていただけませんか」
深々と頭を下げたフロリアナの頭に、寮長の冷めた声が浴びせかけられた。
「あなたはもう王太子殿下の婚約者ではないのですから、特別扱いはいたしません。それどころか、もはや貴族でもなんでもないのでしょう?」
フロリアナはぱっと顔を上げた。今年五十になるという寮長は、切れ長の目をつり上げている。フロリアナは彼女をまじまじと見つめた。
「寮長さまったらすごいですわ。情報通ですのね!」
「なぜ感心しているのです。……馬車は来ませんよ」
「あら、なにかご存じなのですか? わたくしにも教えてくださいませ」
フロリアナの質問に、寮長は吐き捨てるように言った。
「あたりまえのことでしょう。没落した実家から迎えなど来るわけがありません」
その通りだと思って、フロリアナはうんうんと首を縦に振った。
「仰ることはごもっともですが、今、確認のために執事が馬を飛ばしておりますの。せめて、彼が帰って来るまでこちらに置いていただきたいのですけれど」
「ラスのことですね。彼はもう戻りません」
フロリアナはびっくりして、寮長の目を見つめた。
「まさか! ラスだけは絶対帰ってきますわ」
「いいえ。彼は解雇されたのです。そもそも、雇い主はあなたではないでしょう?」
そういえば、父ベルントからの手紙には、使用人を他の職場に紹介したと書いてあった。公爵家に着いたら、ラスも別の仕事を斡旋されるのだろうか。
「寮長さまの仰ることはもっともですが、ラスはわたくしを大切にしてくれていますの。一度は必ずわたくしのところに戻るはずです」
「それで?」
寮長の言葉に、フロリアナは首をかたむける。
「もしもラスが戻ってきたら、また執事としてこき使うのですか。給金も払えないのに?」
「それは……」
「確かにあの男の忠誠心は素晴らしいのでしょう。だからこそ、彼から申し出ることはできないでしょうね。執事を辞めたいなどとは」
確かにラスなら無給で働きそうだな、とフロリアナは思った。寮長は底冷えのする声で続ける。
「そういうのを、やりがい搾取というのですよ。不幸だとは思いませんか? 身分を失った女に、人生を縛り付けられるなんて」
「なにが不幸なのかはラスが決めることですわ。寮長さまは、ラスを心配しているようでいて、彼をあなどっているのではありませんの?」
「では、彼の人生は彼に選ばせてあげればいいでしょう。あなたには今すぐにここを出て行ってもらいます。ラスが執事を続けたいと思うのなら、あなたのことを捜すはずですから。フロリアナ嬢、勘違いしてもらっては困りますが、私はあなたを学院から追放するつもりはありません。学院の取り決めとして、春休みの間だけ退去してくれればいいのです。たったひと月のことですよ」
ふう、とフロリアナは息をついた。そもそも、退去時間を過ぎているのは事実なのだ。学院側が今すぐに出て行けというのなら、従わなければならないだろう。
「分かりましたわ。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
ラスが用意していたトランクのうち、近くにあるものを一個持った。
「それからもうひとつ。行く当てがないからといって、学院の前をうろうろすることは許しません。貴族学院の威儀に関わりますからね」
それでは、ラスと再会することは本当に難しいだろう。フロリアナは真っ直ぐに寮長を見つめた。
「では、万が一、ラスがこちらに戻ってきたら伝えてくださいますか? わたくしは大丈夫だから、心配しないでって」
寮長は初めてにっこりと笑った。
「ええ、必ず伝えましょう」
寮棟を出て、校門に向かう。皆家路についたのだろう、学生たちの姿はどこにもない。
もう、日が傾き始めている。がちゃんと校門の鍵が閉まる音を背後で聞いて、フロリアナはふらりと歩きだした。
貴族学院は王宮に隣接していて、小高い丘の上にある。丘を下っていくと、見えてくるのは大陸でいちばん栄えているともいわれる王都の街並みだ。
まず目に入ったのは、王家御用達の店舗や、裕福な市民の邸宅だった。更に道を下ると、騎士団の本部や役所といった王都の施設が林立し、その先には一般的な市民が親しむ繁華街と住宅街が建ち並ぶ。
視察で街のつくりを知っているとはいえ、馬車の窓から見るのと実際に歩くのでは印象がまるで違う。観光気分できょろきょろしているうちに、辺りは真っ暗になってしまった。
春はまだ浅く、肌寒い。どこか店に入ろうとして、フロリアナはあることに気がついた。
「そういえば……、お金を持っていないわ」
フロリアナに限らず、貴族は現金を持ち歩かない。従者が支払いを代行するか、もしくは実家から後日金銭が渡るため、貴族たちは扇子の傾きひとつで買い物をするのだ。
「わたくし、今日はどこで寝たらいいのかしら……」
にぎやかな繁華街を抜け、住宅街に入ると、辺りは一気に静かになる。小さな家々から漏れ出るともしびを頼って、道を進んだ。
へとへとになってしゃがみ込みそうになったとき、フロリアナの視界に眩しい光が映る。
あれは、火だ。まるで吸い寄せられるように歩いていくと、月を照らす水面が見える。
フロリアナは得心した。ここは、王都を流れる川の前なのだ。
緩やかに作られた堤防の下、川べりで火がたかれている。石造りの、橋のたもとにある階段を降りて、たき火に近づいたフロリアナは、火に手をかざすと座り込んだ。
「ふう……。あたたかいですわ……」
歩き疲れた体に、じんわりとした炎の温かさがしみる。そのままころんと横になって、フロリアナは眠りについた。
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次話は、本日の二十三時過ぎに投稿します。