25.風車の町
「……さま、お起きになってください、お嬢さま」
「むう」
「もう朝でございます。紅茶をご用意しておりますよ」
フロリアナは寝返りをうった。
「もう起きているわ。今はちょっと、目を閉じて考えごとをしているだけ……」
ぐう。
「嘘を仰らないでください。朝食にはシロップのかかったパンをお出しします。お嬢さまの大好物ですよ」
「……パンはカリカリ?」
「もちろんです。それはもう、外はカリカリで中はふわっと焼いてご覧にいれましょう」
フロリアナはむっくりと起き上がった。すかさずラスが紅茶を差し出してくる。
「おはよう、ラス」
「おはようございます。今日は寝起きがよくていらっしゃいましたね。素晴らしいです、お嬢さま」
「うふふ、そうかしら」
自分で起きられないなど情けないと自覚しつつも、朝から褒められてご機嫌のフロリアナである。
目覚めの紅茶を堪能し、身支度を終えて食堂に行くと、そこには既にクローディアスが座っていた。
「フロル嬢、昨日はよく休めたかい?」
「ええ。目を閉じたと思ったら、すぐ眠ってしまいましたわ」
「僕もだよ。おかげで、今日は早くに目が覚めた。ラスはすごいな。そんな僕よりずっと早くから起き出していた」
フロリアナは、ぎょっとラスを見た。
「えっ、そうなのですか? ラス、ごめんなさい……」
「とんでもない。執事として当然のことです。殿下、お嬢さまが気になさいますから、余計なことを言うのはおやめください」
「ごめん。これからは気をつけるよ」
一人部屋がひとつしか空いていなかったために、ラスとクローディアスは同室だったのだ。御者は、別の宿に宿泊している。
当初、フロリアナは遠慮から、ラスと同じ部屋で寝ると申し出たのだが、クローディアスの猛烈な反対にあって部屋割りが決まったのである。
「今日はどんな風景を見られるのか、楽しみですわ」
シロップをかけたカリカリパンを堪能すると、フロリアナたちは馬車に乗り込んだ。
見渡す限りの草原は海のように波打って、馬が草をはんでいる。目に甘い緑を見つめて、フロリアナはうっとりと車窓を眺めた。
「景色に夢中だね、フロル嬢」
「ええ。いつまで見ていても飽きませんわ。なんだか懐かしさを感じさせる風景ですわね」
「セレン公爵領は名馬の産地でしたからね。私もそんな気分がいたします」
この日の馬車はひたすら草原を走り、フロリアナは夕日が草原の彼方に沈むまで、車窓に張り付いていた。
辺りが闇に包まれる頃、予定していた町に辿り着くと、クローディアスが得意げな顔で言った。
「この町には、有名なレストランがあるんだ。王都に二号店を出しているんだけれど、そこもおいしいと評判なんだよ」
「まあ、それは素敵ですわ。でも、お高いのでは? わたくしたちにはちょっと……」
「なにを言うんだ。僕がごちそうするよ。この旅に同行するための条件だっただろう? だから、遠慮しないで」
有名店にしてはこぢんまりとしたそのレストランは、木のテーブルにシンプルなランプが並ぶ素朴なつくりをしていた。
メニューを見たフロリアナは、そのうちのひとつを指した。
「殿下、これを頼んでもよろしいですか?」
「もちろん。じゃあ、僕も同じものにしよう」
「それでは私も」
運ばれてきたのは、白身魚のムニエルだった。パンとサラダ、スープが付いている。
ムニエルをひと口食べたフロリアナは、思わず顔を綻ばせた。
「とってもおいしいですわ! 殿下、ラス、ご存じ? 食べる前のお魚は、白くないんですのよ」
ふふん、とフロリアナは得意満面で告げる。
「えっ……? フロル嬢、なにを言っているの?」
「お嬢さま、どういうことですか?」
どうやら二人は世界の真理を知らないらしい。これは自分が教えてあげなくてはなるまい。
「いいですか、お魚は切り身のまま、川や海を泳いでいるんじゃありませんのよ。実は皮とウロコがあって、様々な皮膚の色をしているのですわ。シェフがお魚を捌いて、お魚の身だけを取り出しているんですの」
クローディアスが難しい顔をした。
「うん……。それが、どうかしたの……?」
「お嬢さま、不遜ながら逆にお尋ねしますが、今まで魚をどんなものだと思ってこられたのですか……?」
――あら? おかしいわね……。
感心されるはずが、なんだか呆れられているようだ。ある人物に、魚の生態について教わった話をすると、クローディアスが声を上げて笑った。ラスも肩を震わせている。
「じゃあ、フロル嬢は白身が魚の本体だと思っていたの? 君は学院の成績では、他の追随を許さないのに、どこか抜けているね。ああ、面白いなあ」
「お嬢さま、あのときそんなことが……。いいお勉強をなさいましたね」
そして、ラスはいつまでも笑っているクローディアスをにらみつけた。
「殿下、笑いすぎです。そもそもお嬢さまは、我がセレン家一門の、一粒の宝石として大切に大切に守られてきたのです。少し世間知らずでいらしたとて、なにも問題はございません」
「そうだね。セレン卿が、一人娘を溺愛していることは有名だ。一国の王女よりもよほど裕福に育てられたと皮肉交じりに言う輩もいたけれど、フロル嬢とよく話すようになってから実感したよ。確かにフロル嬢は、愛さずにはいられない人だ」
でも、とクローディアスは一転して暗い表情を浮かべた。
「だからこそ、不思議なんだ。没落したとはいえ、セレン卿はなぜフロル嬢を放っておいたんだろう。苦労なんてさせたくないに決まっているのに」
確かに、とフロリアナは思った。
父ベルントも学院の卒業生である。長期休みには、寮にいられないことくらい、知っているはずだ。
そもそも、フロリアナに一目会うこともなく出稼ぎに行ってしまったこと自体、不自然だった。
「殿下の仰るとおりですわ。でも、それもこの旅で明らかになりますわ。父がなにを考えていたのか」
「きっと深い事情があるのでしょう。大丈夫ですよ、お嬢さま。なにがあろうとも、私がお傍におりますから。いざとなったら、国外に逃げましょう。旦那さまほどとは申しませんが、お嬢さまがなに不自由なくお過ごしになれるように、私が力を尽くしますので」
「もう、ラスったらまたその話ですの?」
「国外に逃げる? また……?」
真剣な面持ちで話すラスの隣で、クローディアスが据わった目をラスに向けた。
翌日はあいにくの天気で、小雨が降っていた。
とはいえ、初夏の強い日差しがない分過ごしやすい。のどかな昼下がり、移動の疲れもあって、フロリアナはうとうとと舟をこいでいた。
「……当に可愛らし……ね」
「殿……、あまりじろじろと見ないで……ださい。お嬢さまが汚れます」
ひそひそと囁き合う声に、フロリアナの意識が覚醒する。
――まだ寝ていたいのに……。
もう一眠りしようと目を閉じたままでいると、二人のやり取りは徐々に白熱していった。
「ラス、君には王族への敬意ってものがないの?」
「残念ながら、持ち合わせがありません」
「大体、お嬢さまお嬢さまって、フロル嬢は自立しようとしているのに、執事が主に依存してどうするのさ」
「殿下こそ、お嬢さまをつけ回すのはおやめください。あまり度が過ぎると、犯罪と判断して訴えますよ」
フロリアナは観念して目を開けた。こんなに騒がしくてはおちおち寝ていられない。
「あっ、お嬢さま……。申し訳ありません、うるさかったですね。ほら殿下、お嬢さまが起きてしまわれたではありませんか」
「君だって騒いでいたじゃないか……。ごめんね、フロル嬢」
二人に覗きこまれて、フロリアナは苦笑した。
「大丈夫ですわ。それより、二人はとっても仲がよろしいのね」
「とんでもない!」
「冗談じゃない!」
そうやって声が揃うところが、仲がいい証拠だと思うのだけれど。
「それよりもお嬢さま、もうすぐ、今日宿泊する町に着きますよ。大分お疲れのご様子ですから、ゆっくりお過ごしになってくださいね」
ラスが気を取り直すように言った。
「もう? まだ日が高いですわ。先は長いのですから、距離を稼がなくていいのかしら」
「この先、町の数がぐっと少なくなるのです。ここで休んでおかないと、野宿になってしまいますから」
「フロル嬢、せっかくだから町を見て回るのはどうかな。これまで町に到着するのはいつも夜だったからね」
クローディアスの提案に、フロリアナの心は躍った。ずっと座ってばかりいたので、体を動かしたい気分だったのだ。
しばらくして到着したのは、辺り一面が白い町だった。地面にも建物にも、白い塗料が塗られているのだ。屋根は鮮やかな青で統一されていた。ちょうど雨も止んで、空気は澄んでいる。
「素敵ですわ……! 童話の中に出てきそうな可愛らしい町ですわね」
トランクを運びながらも、フロリアナの足取りは軽い。
ラスとクローディアスも、大量の荷物を抱えながら、フロリアナを見て嬉しそうに目を細めた。
「この町を選んだのはただの偶然だったのですが、お嬢さまのお気に召したようで、なによりです」
「きっと、フロル嬢の日頃の行いがいいからだね。さあ、早く荷物を宿に預けて散歩に行こう」
宿は町の規模に比して、ずいぶんと大きく豪華だった。おそらく、季節になれば観光客でにぎわうのだろう。今は社交シーズン真っただ中だから、貴族たちは王都に詰めて日がないちにちパーティーを開いているはずだ。
宿を決めると、荷物の中からラスが帽子を取り出した。つばの広いそれは、フロリアナのお気に入りだ。そっとラスに帽子を被せられて、フロリアナはラスを見上げた。
「お嬢さま、外を歩かれるのならそれをお召しください。よくお似合いですよ」
頭の上からラスの声が降ってきて、フロリアナはありがとう、と言葉を紡ぐ。
町をそぞろ歩いていると、至るところに階段があった。その色はもちろん白だ。階段の壁面にはツタ性の植物が花をつけていて、オレンジ色のカーテンを作っている。
「この町は小さな丘にしがみつくように作られているから、階段が多いんだね。住むとなると大変そうだ」
クローディアスの分析は正しく、階段は丘の上に続いているようだ。
「階段を上りきるとなにがあるのかしら。行ってみたいですわ!」
「お嬢さまの仰せのままに」
急な階段を上りきると、フロリアナは歓声を上げた。青空の下、幾つもの風車が羽を回している。
「風車……。実物を見たのは初めてですわ。きっと小麦を挽いていますのね」
「そういえば、授業に出てきたな。さすが、フロル嬢はよく覚えているね」
丘一面に生い茂る草のにおいがする。風車を見上げると、一陣の風が吹き、フロリアナの帽子を巻き上げていった。咄嗟に手を伸ばすが、それは頭上はるかに遠い。
「フロル嬢、僕が取ってくるよ。待っていて」
なにかを言う間もなく、クローディアスが駆けだしていった。長身を活かして跳び上がる彼がおかしくて、フロリアナは思わず笑みを零した。
ドレスをたくしあげてフロリアナも走り出す。ラスも加わり三人で帽子を追いかけて、ようやくつかまえたときには半刻が経過していた。
「そろそろ宿に戻りましょう。やはりここは風が強い。お体が冷えてはいけませんから」
ラスに促されて宿に戻ったフロリアナは、ここでも歓喜した。部屋に大きな風呂が付いていたのだ。
今までは、湯を絞ったタオルで体を拭き、足浴するのがせいぜいだった。
足を伸ばして余りあるほどの浴槽に、フロリアナの胸は高鳴った。これまでは丁寧に拭うだけだった髪を、今日は洗うことができる。廊下に出たフロリアナは、ラスに告げた。
「ラス、今日は髪を洗うわ」
「かしこまりました。お手伝いします」
恭しく頭を下げたラスとフロリアナの間に、さっと割り込んだのはクローディアスである。
「ちょっと待った! ラス貴様、なにを手伝うつもりなんだ」
ラスが困惑したような表情を浮かべる。
「なにって、お嬢さまの御髪を乾かすお手伝いですが……。他になにがあると?」
「いや……、なんでもないよ」
はあ、とラスがため息をついた。
「殿下、よこしまな妄想はお捨てください。御髪を乾かして、精油でお手入れするだけですよ。丁寧にくしけずって」
「くしけずる……? そんな、フロル嬢の髪にべたべた触るな」
ラスは得意げに言った。
「お嬢さまの御髪は絡まりやすいですからね。繊細に整える必要があるのです。ちなみに精油はローズマリーを基調とした公爵家特製の――」
「二人とも、やめてください」
フロリアナの低い声に、男二人は深々と頭を下げた。
「大変申し訳ありませんでした」




