23.本当に大切なもの
フロリアナが授業に復帰したのは、誘拐騒ぎから一週間後のことだった。熱が下がり、傷が治るのを待つ間に、ずいぶん時間が経ってしまった。
「皆さん、おはようございます!」
フロリアナが晴れやかに挨拶をすると、たちまちクラスメイトたちに囲まれた。
「フロルさま! お体は大丈夫ですか」
「大変な目にあいましたね」
フロリアナは彼らに向かって、笑いかける。
「お騒がせして、申し訳ありませんでした。もう平気ですわ」
すると、人垣の中からクローディアスが出てきて、嬉しそうに唇を綻ばせた。
「元気になってくれて、本当によかった。君は怪我をしていたし、体調を崩したって聞いたから、本当に心配したんだ。女子寮にはお見舞いに行けないから、歯痒かったよ」
「殿下。その節はありがとうございました。改めてお礼を申し上げます」
「いや、結局僕はあまり役に立てなかったから。君を見つけ出したのもラスだしね」
クローディアスは俯く。その表情は、どこか苦しそうに見えた。
「そんなことありませんわ! 殿下も一緒に、わたくしを捜してくださったのですもの。それに、殿下がモニカさんに留守番を頼んでくださったから、ラスは自由に動けたのです。殿下のおかげですわ」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。もう事件は解決したから、安心して」
クローディアスの言葉に、フロリアナは教室を見回した。そこにシーリアの姿はない。
「ルース男爵令嬢がいらっしゃいませんわね……。わたくし、彼女とお話をしたいのに」
「フロル嬢、ラスからなにも聞いていないの?」
フロリアナは頷いた。安静が最優先だからと、ラスはなにも教えてくれなかったのだ。元気になって、登校すれば分かるからと言って。
「ルース男爵令嬢は、君を誘拐するために犯罪者を手引きしたんだ。君にしたことも許されることではないが、安全であるべき学院に外部の者を入れてしまった。この罪は重い」
「では、彼女は……?」
「今まで拘束されて、取り調べを受けていたんだけれど、今日正式に退学処分となった。今頃、寮で荷物をまとめているはずだよ」
「そんな……!」
フロリアナは教室を飛び出した。
「待って、フロル嬢!」
後ろからクローディアスの声が追いかけてくるが、構っていられない。
寮に向かって走る。この一週間寝てばかりいたから、体が重い。
ひいひい言いながら寮の階段を上り、三階に辿り着いた。
「ルース男爵令嬢! どちらにいらっしゃいますの!」
この階のどこかにいるはずだが、シーリアの部屋が分からない。
「シーリアさん!」
「うっさいわね!」
突然目の前の扉が開いたので、フロリアナは慌てて飛びのいた。危うく、扉に顔をぶつけるところだった。
「廊下で騒いでんじゃないわよ!」
「シーリアさん! よかった、お会いしたかったんですのよ」
フロリアナは、へらり、と笑った。ところが、シーリアからは、怪訝そうな声が返ってくる。
「あんた、なんであたしの名前を呼んでるのよ」
「あら、いけませんでしたか?」
「別にいいけど。どうせ、あたしはここから出て行くんだから」
泣いていたのだろうか、シーリアの目は赤い。
「そんな……。学院を辞めて、そのあとはどうなるんですの?」
「ばかね。辞めるんじゃなくて、辞めさせられるのよ」
貴族にとって、この学院に通うのは義務であると同時に、特権でもある。
学生という立場を剝奪されるのは、貴族子女にとって致命的なのではないだろうか。そんなフロリアナの心配を感じ取ったのか、シーリアはぷいと横を向いた。
「もう、どうでもいいわ。マティアスさまには愛想尽かされちゃったし、男爵家はあたしを勘当するって言ってるし。まあ、義父母は良縁を期待してあたしを引き取ったんだもの。こんな事件を起こしたんだから、縁を切られるのも無理ないわね」
「行くあては……、あるんですの?」
シーリアは、しかめっ面のままかぶりを振る。
「あんたには、悪いことをしたと思ってるわ。でも、あんたのことが憎らしくてしょうがなかった。マティアスさまに見初められて、あたしは幸福の絶頂にいたけれど、それも長くは続かなかったわ。なんでもかんでもあんたと比較されるんだもの。なにもかも、フロリアナには及ばないって」
「わたくしなんかと比べたって、仕方がないですのに」
「そうね。でも周りは違った。だから、あんたにはこの学院から消えてもらうよりほかなかったのよ。それなのに、退学になったのは自分自身だったんだから、笑えるわ」
シーリアの唇の端は、ぴくぴくとけいれんしている。無理に笑みを浮かべようとしているように見えて、フロリアナの心は痛んだ。
「でも、王太子殿下はほかならぬシーリアさんを選んだのですわ。もっと自信を持ってもよろしいのに」
「……違うわ」
昏い声の響きに、フロリアナは首を傾げた。
「違う? なにがですの」
「マティアスさまは、優秀で明るいあんたと一緒にいると、劣等感を刺激されるのだと言っていたわ。だからあたしがいいんだって。でもそれって、結局あんたのことを意識しているってことじゃない。フロリアナとあたしを比べていたのは、マティアスさまも同じだったのよ」
シーリアは自嘲するような笑みを浮かべた。
「あたしには、もう帰るところもないわ。もう生きていたってしょうがないわね」
「そんな! シーリアさん、どうか早まらないで。わたくしを見てくださいな。家がなくなっても、幸せいっぱいですわ」
とはいえ、身を寄せる場所は必要だろう。
川べりを紹介してあげようか、と思ったフロリアナだが、考えてみれば、もっと身近に住み込みで仕事できるところがあるではないか。
「なによ、にこにこして気持ち悪いわね」
「わたくし、いいことを思いつきましたわ!」
その日の夕方、フロリアナにはアルバイトの後輩ができた。
「ちょっとあんた、なんであたしが学院でアルバイトをしなきゃならないのよ!」
「まあまあ、いいではありませんか。学院長さまも、アルバイトのためなら学院にいてもいいって言ってくださったのですから」
「それはあんたが嘆願したからでしょう? いいわ、見てなさいよ。たんまりお金を稼いで、もう一回玉の輿を狙ってやるんだから」
うんうん、とフロリアナは頷く。いつもの彼女の勢いが戻ってきたようだ。
「その意気ですわ、シーリアさん!」
「あたしに指図するんじゃないわよ!」
「そこ、うるさい! 口を動かすのではなく、手を動かしなさい」
メイド頭クレアに怒鳴られて、フロリアナは慌てて仕事に戻った。それでも、ちらりとクレアの様子を窺えば、彼女は珍しく毒気のない笑顔を浮かべている。
「まったく、心配して損したわ。……無事でよかった、フロリアナちゃん」
「フロリアナはいるだろうか」
王太子が二学年の姫桃クラスを訪れたのは、フロリアナが授業に復帰してから、数日後のことだった。
「王太子殿下だわ!」
「こんなに近くでお姿を拝見できるなんて……」
大物の登場に、クラスは騒然となった。
「兄上。今更、彼女になんの用があるというのですか」
険しい表情を浮かべて、クローディアスがフロリアナを守るように立ちはだかる。
「お前には関係のないことだ。フロリアナ、少し話せないか」
久しぶりに紅の瞳に見つめられて、フロリアナは頷いた。
「ええ……。分かりましたわ」
王太子のあとについて歩くと、中庭に辿り着いた。ここは以前、王太子に婚約解消を告げられた場所である。
あのとき咲き誇っていたフリージアは姿を消し、代わりに紫のライラックの花が咲いていた。
王太子はしばらく沈黙していたが、やがてフロリアナに向き直ると、深く頭を下げた。
「フロリアナ……。すまなかった」
「殿下、いきなりどうなさったのですか?」
「私が愚かだった。子どもの頃から婚約していた君を裏切るなど」
フロリアナは苦笑した。変なところで義理堅いのは、昔から変わらない。
「もう、気にしていませんわ。それに、ダンテの助命を聞き入れてくださったのは殿下でしょう?」
誘拐の実行犯であるダンテが国外追放になったことを知ったのは、つい先日のことだ。
ダンテは処刑されてもおかしくなかった。フロリアナはずっと彼の減刑を訴えていたのだが、それを叶えられる立場にいたのは、生徒を代表して裁判に参加していた、王太子に他ならない。
「これ以上、君を傷つけるわけにはいかなかったから」
王太子はため息を吐くように、そっと言葉を唇に乗せた。
「シーリアさんのことはもうよろしいのですか」
「ああ。彼女にも悪いことをしたが、犯罪に手を染めたのは許されることではない」
フロリアナは、ずっと気になっていることを、王太子に聞くことにした。
「殿下、シーリアさんはどうして、東棟の離れのことを知っていたのでしょうか。あそこの隠し部屋のことは誰も知らないと、ダンテが言っていましたわ」
「ルース男爵は、昔この学院の教師だったんだ。父親から聞かされたんだろう」
「では、ダンテを雇うお金はどこから出たのでしょう。失礼ながら、あまりお金に余裕があるようには見えませんでしたけれど……」
「……私が与えたドレスや宝石を売り払って、資金を調達したようだ」
フロリアナはなにも言えなくなった。さすがシーリア、と感心する気持ちと、王太子に対する哀れみが胸の中でせめぎ合っている。
「ええっと、なにはともあれ、事件が解決してよかったですわ。それでは殿下、ごきげんよう」
「待ってくれ!」
王太子の声は縋るようだった。
「本当は、いつも堂々としている君に劣等感を抱いていたんだ。だから、他の令嬢に目移りしてしまった。でも、離れてみて、君がどれだけ私を支えてくれていたかよく分かった。やはり、私には君が必要なんだ」
フロリアナは嫌な予感がして、じりじりと後退った。
「フロリアナ。婚約解消は、なかったことにしてもらえないだろうか。これからは君だけを愛すると約束する」
「殿下、なにを仰います。セレン公爵家は没落したんですのよ。王族が身分の『ない』者と結婚できるはずがないではありませんか」
「いや、それは問題ない。君には、王族の血が流れているのだから。どこかの貴族に養子入りすればなにも障害はなくなる。学院での待遇も改善すると約束するよ」
――王太子殿下は、なにも分かっていないのね……。
この快適で、恵まれた生活を手放せというのか。
「残念ですけれど、お断りしますわ」
「私と結婚すれば、君は、将来の王妃だ。至高の身分を手に入れられるんだぞ」
王太子の言葉に、フロリアナはゆっくりとかぶりを振る。
「殿下、わたくしは今の生活に満足しておりますの。多方面に迷惑をかけたでしょうから、こんなことを言ってはいけないのですけれど、実は没落してよかったとさえ思っているんですのよ」
地位や財産がなくても、力強く生きていけることを知った。人の温かさを知った。手ずから働いて、誰かに喜んでもらえることの嬉しさを知った。
突然降りかかった災難はしかし、フロリアナの本当に大切なものを奪うことはできなかった。
「ごきげんよう、殿下。わたくし、まだ恋は存じませんけれど、殿下に素敵な出会いが訪れることを祈っておりますわ」
フロリアナはスカートをつまんで深々とカーテシーをすると、ライラックの香る庭園に王太子を残して歩き去った。




