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19.ラスの想い

 ラスはフロリアナの屋根裏部屋で、腰を下ろしたかと思うと、すぐに立ち上がった。

 そわそわと部屋を行ったり来たりし始めてから、そろそろ一時間が経つ。


 フロリアナがアルバイトから帰ってこない。こんなに遅くなるのは初めてのことだ。


 もう、日が暮れる。自分が不在の間に、フロリアナが帰ってきてもいいように書置きを残すと、ラスは寮を飛び出した。


 最初にラスが向かったのは、学院のメイド頭の元だった。

 彼女はフロリアナが無断欠勤したのだと立腹していたが、アルバイトに行くといって出て行ったきり、主が寮に戻っていないのだと伝えると顔色を変えた。


 この話はすぐさま担任のロイドに伝わり、学院は大騒ぎになった。それでも、放課後にフロリアナを見たという者は現れない。


 部屋でフロリアナを待つべきだというロイドの指示に従って、屋根裏部屋に戻ったラスは、壁に寄りかかると片手で顔を覆った。




『お兄ちゃん、だいじょうぶ? けがをしているの?』


 ラスの脳裏に、フロリアナと初めて会ったときのことがよみがえった。当時、ラスは十歳。フロリアナはわずか五歳にしかならなかった。


 ラスはスラムの生まれだ。フロリアナと出会う日までは、どうやって一日を生き延びるか、それだけを考えて生きてきた。


 その日のラスは、不運続きだった。


 朝まで酒を飲んでいたごろつきに絡まれて、したたかに殴られ、パンの万引きはすぐにばれた。

 スラムの用心棒を自称する大男に捻りあげられた腕はおかしな方向に曲がり、痛みによる吐き気をこらえつつ、ラスは辛うじて逃げ出した。


 しかし、大人の足は速い。


 大通りに出て必死に走っていると、通りの反対方向からやってきた馬車が突然停まった。

 スラムの小屋よりも大きな馬車だ。その扉の中から小さな手が差し出されて、ラスは迷わず馬車に転がり込んだ。


 馬車の中には、二人の人物がいた。


 幼い少女と、壮年の男性だ。


 少女の容姿は恐ろしく整っていた。深紅の髪に、宝石のような紫の瞳。隣には銀髪に、紫瞳の小柄な紳士が座っている。こちらも整った顔をしていたが、ころころとした体つきをしていた。


 そのとき、少女がラスの腕を見つめ、紫の瞳を潤ませて言ったのだ。


「お兄ちゃん、だいじょうぶ? けがをしているの?」


 ラスはこのとき、自分がなんと話したのか覚えていない。おそらく、ああ、とかうん、とか、そっけない返事をしたのだと思う。


 少女のたっての希望により、ラスが連れてこられたのは、まさしく城だった。

 柔らかなクリーム色の外壁にはガラスの嵌まった無数の窓が付いていて、部屋がいくつあるのか、見当もつかない。


 屋敷の中に一歩足を踏み入れると、一面に敷き詰められた青い絨毯に、足首までが埋まった。


 一室に通されたラスは、使用人に引き渡され、医師の診察を受けた。骨折した腕を整復するときには涙が出るほど痛かったが、傷の手当てを受け、食事を与えられるとむさぼるように食べた。


「お兄ちゃん、もういたくないですか」


 無理やり湯あみさせられ、着替えを済ませたラスの元に、先ほどの少女が現れた。恥ずかしいのか、メイドの背中に隠れて、ちょこんと顔だけがこちらに覗いている。


「ああ。もう大丈夫だ」


 頷くと、よかったねえと少女はメイドと顔を見合わせて、微笑んだ。


「わたくしは、セレン公爵のむすめのフロリアナです。お兄ちゃんの名前はなんですか?」


「……ない。名前はない。周りは俺のことを、あれ、とかそれ、と呼ぶ」


 これにはフロリアナもメイドも驚いたようで、目を見開いて黙りこくってしまった。


「お兄ちゃん。けがが治るまで、ここにいてくれますか?」


 緊張した面持ちで告げるフロリアナを、ラスは冷めた気持ちで見つめた。この少女のおままごとに付き合えば、当面の食事にありつけるのか。




 ラスはそれからひと月を、公爵家で過ごした。フロリアナはお姉さんぶりたいのか、絵本を持ってきては字を教えようとする。


 ごっご遊びに付き合う気分で、彼女の持ってきた本を眺めているうちに、いつの間にかラスは文字の読み書きを覚えていた。


 腕の固定がとれ、骨折が完治すると、ラスの身柄は急に不確かなものとなった。


 ここにいられるのは、怪我が治るまで。もっと言えば、フロリアナに気に入られている間だけ。


 不安は苛立ちへと変わった。思い返すと、自分をぎたぎたに痛めつけてやりたい気分に駆られるが、ラスはこのとき、フロリアナのことが恨めしくてならなかった。

 こんな小娘にいいように扱われるのか、と。


 ある日の晩、ラスはフロリアナの遊戯室のひとつに忍びこんだ。


 持ち出したシーツに、手当たり次第にものを詰め込む。宝石の嵌まったぬいぐるみ。金細工のオルゴール。時計のついたクリスタル。そうして屋敷を抜け出そうとしたときだった。


「だあれ?」 


 いつもなら寝室から出てこないはずのフロリアナが、なにかを感じたのか、部屋に入ってきたのである。体の弱い彼女は、夜間安静にしているはずだったのに、思わぬ誤算だった。


 ラスとフロリアナの目が合ったとき、廊下の向こうから侍女の声が聞こえてきた。


「お嬢さま! そんなところでなにをしておいでなのですか? 早くお休みにならないと、また熱を出してしまいますよ」


「こっち」


 フロリアナはラスを部屋の隅に引っ張っていった。ラスの体にぐるぐるとカーテンを巻き付ける。彼女は密やかな声でラスに尋ねた。


「お兄ちゃん、帰っちゃうの?」


 首を縦に振る。フロリアナはきゅうう、と泣きそうな声を出して離れていった。


 それから、部屋はすぐに明るくなった。目ざとい侍女が、フロリアナの異変を感じ取ったのだ。


「お嬢さま、なぜ泣きそうな顔をしておいでなんです?」


「なんでもないもん!」


「まあ、淑女の言葉遣いではありませんね。って、あら……? 変ね、オルゴールがないわ……」


「捨てたの!」


「捨てた……? あれは大変高価なものなのですよ」


「ええと、割っちゃったの。割れたものはエンギが悪いって、先生が言ってた。だから捨てたの」


 おそらく、フロリアナは目一杯の知識を総動員して、自分をかばってくれているのだろう。

 そのとき、ラスの中には、たとえようのない温かい気持ちが芽生えたのを、よく覚えている。


「怪しいわね……。あれ? クリスタルの時計もない……。まさか……! 騎士! 騎士を呼んでください!」


 ラスはすぐに見つかった。フロリアナと公爵の前に引きずり出され、ただ殴られるのを待って身を固くした。


「殴りはしないよ」


 公爵は、静かな声で告げた。


「君は、なにをしたのかな?」


 その声は、どんな暴漢の怒鳴り声よりも恐ろしかった。


「お父さま、わたくしがお兄ちゃんにプレゼントしたんです。お兄ちゃん、そうだよね?」


 ラスが無言でいると、フロリアナは部屋にあるチェストから、なにかを取り出して戻ってきた。


「お兄ちゃんがお屋敷から出ていっちゃうから、フロル、じゃなくて、わたくしがさしあげたんです。……お兄ちゃん、これもあげたのに、忘れちゃったの?」


 フロリアナがラスに差し出したのは、小さな宝石箱。それを見たメイドが悲鳴を上げた。


「それは、奥さまの形見の……! お嬢さま、いけません!」


「いいんだよ」


 再び、公爵の声が降ってきた。


「この子の言うことが本当なら、全部持って出て行きなさい。餞別だ」


 宝石をばらし、あるいは小さく砕いて少しずつ売っていけば、怪しまれずに金が手に入る。それを元手に身なりを整えて、盗んだものを全て売り払えば、一生金に困ることはないだろう。


 ところが、ラスはどうしてもその場から動くことができなかった。


 この少女は、自分を告発するどころか、かばうために自分の宝物でさえも差し出すのか。


 気づけば、ラスは泣きながら床にはいつくばっていた。


「お願いします。なんでもしますから、ここにおいてください。俺をお嬢さまの召使いにしてください」


 その日から、ラスはセレン公爵家の使用人となったのだ。フロリアナは大喜びで、ラスという名を与えてくれた。ラスというのは、古語で喜びを意味するらしい。


 この出来事は、当時フロリアナ付きだった侍女や騎士たち数人しか知らない。他でもない、フロリアナ自身が口止めしたからだ。


 ラスは執事長預かりとなり、徹底的に言葉遣いやマナーを矯正された。


 執事長は当然ながら全てのことを知っていたので、ラスへの当たりが強く、教育に手が出ることも珍しくなかった。


 しかし、ラスがフロリアナ専属の執事に任命されたときに、涙を流して喜んでくれたのも、また執事長である。


 その後、フロリアナは王家の要請により、王太子の婚約者となった。


 嫁ぎ先に、男性使用人を連れて行くことはできない。それが王家であるなら、なおさらだ。

 ラスは忠誠を誓った、人生でただひとりの主との別れを目前に控え、心を凍らせていた。


 あの日までは――。




 あの忌まわしい日、フロリアナは王太子から一方的に婚約を解消された。寮に戻った彼女は多くを語らなかったが、王太子には既に好いた女がいるという。


 ラスは自分を深く恥じた。なぜ自分はその場にいなかったのか。刺し違えてでも王太子を殺してやりたかった。


 だが、フロリアナの不幸はまだ続いた。翌日には、公爵から一通の手紙が届いた。手紙には簡潔に、公爵家が没落した、とだけ書かれていた。


 公爵については、実はあまり心配していない。あの執事長に、あの家臣団がついているのだ。


 けれども、フロリアナはどうだろうか。王太子の婚約者としての立場を失い、最大の庇護者である公爵は失踪した。


 卒業まで学院で過ごせ、という公爵からの命に背くことにはなるが、彼女をさらい、どこか遠くの地で暮らすことを真剣に考えた。


 幸い、執事長のしごきにより料理から暗殺術まで、一通りのことは仕込まれている。

 フロリアナを養うことは可能だろう。いや、養うだけでなく、何不自由なく幸せにしてみせる。ラスはそう考えていた。


 ところが――。


「これからは、わたくしがお金を稼ぎますわ!」


 フロリアナはいきなりそう宣言すると、「アルバイト」をするのだと言って、下町を闊歩し始めた。


 自分が働くからどうかおやめくださいと泣きそうになりながら――本気で涙をこらえる必要があった――、訴えたが、当の彼女に拒否されてしまった。なんでも、自分に給料を払うためなのだそうだ。


 ラスは、フロリアナに全てを捧げている。給料など必要ないのだ。ところが、それが彼女には理解できないらしい。


 そして、悲壮感溢れる自分とは違い、フロリアナはなにやら楽しそうなのだ。


 見たこともないであろう少額の硬貨を稼いだといっては笑い、それを紅茶の缶に詰めて差し出してくる。


 屋根裏部屋に押し込まれたときだってそうだ。初めて見る部屋だと、笑って楽しそうに受け止めていた。

 そんな彼女を見ていると、自らを厳しく律してはいるものの、愛おしく、甘い気持ちが胸に兆す……。


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