1.婚約解消
「もう、赤い色にはうんざりしているんだ」
フロリアナは、その言葉を聞いて紫色の目を見開いた。紅の瞳を持つ王太子が、自虐の気持ちでそんなことを言いだしたのだと思ったからだ。
「まあ、殿下。悲しいことを仰らないで。わたくし、殿下の目の色はとっても綺麗だと思いますわ」
婚約者である王太子が、悲観のあまり目玉をくりぬいてしまわないか、本気で心配したフロリアナだったが、嘆いた本人は呆れたようにため息をついた。
「フロリアナ、どうして君は自分のことを棚に上げるんだ。私が言いたいのは、君の髪の色だ。目がちかちかする」
「あら、わたくしのことでしたの? まったく気がつきませんでしたわ」
「私の周りにいるのは、赤い色を持つ者ばかりだ。もう飽きた」
「それはだって……、赤は王族の色ですもの。仕方がないではありませんか」
リコリダ王国の王族は、髪や瞳に赤い色を宿して生まれる。フロリアナは公爵家の令嬢だが、母親が降嫁した王女だったために、赤い髪を引き継いだ。
二人の立つ貴族学院の中庭には、フリージアが咲き誇っていた。赤に黄色、白に紫。色とりどりの花が、まだ肌寒い風に揺られて、ほのかに甘い香りを漂わせている。
時刻は昼過ぎ、学院では先程、修了式が行われたばかりだった。フロリアナは十六歳、春休みが明ければ、学院の二年生になる。王太子は、フロリアナの一学年上だ。
フロリアナは、寮に帰ろうとしたところを王太子に呼び止められて、中庭へと連れてこられたのである。
「私は……」
王太子が、切なそうに胸を押さえながら、口を開いた。
「私は、金髪碧眼が好みなんだ」
「……はい?」
「先日のパーティーで、可憐ではかなげな少女に出会った。見事な金髪で、透き通った青い瞳をしていた」
「はあ……」
どうにも話が見えてこない。しかし、言われてみれば、王太子が自分のエスコートを離れて、ふらりとどこかに行っていた時間があったな、とフロリアナは当時を思い返した。
「フロリアナ。君は美しいが、赤だの紫だの、どうにも色味が華やかすぎて、一緒にいると疲れる。私は彼女と結婚しようと思うんだ」
「その女性とは、もうお話しされましたの?」
フロリアナが尋ねると、王太子は重々しく頷く。
「ああ。彼女も私のことを好きだと言ってくれた」
「ずいぶん展開が早いですわね……」
あっけにとられたフロリアナだったが、目をきらきらさせている王太子を見て、妙に納得した。こんなに嬉しそうな彼を見るのは初めてだったからだ。
「それで、大変申し訳ないのだが……、君との婚約を解消させてもらえないだろうか」
「ええ、構いませんわ。ひとめぼれなら仕方がありませんもの」
フロリアナが答えると、王太子はぱっと顔を輝かせた。
「ありがとう。この件は私から国王と、君の父上に伝えておく。君にも、いい恋が訪れるよう祈っているよ」
王太子が一度も振り返ることなく歩き去り、フロリアナはひとり、中庭に残された。
「わたくしが、恋……。ふふっ、うふふ」
フロリアナは鼻歌でもうたいそうなくらい上機嫌で、中庭をあとにした。
「フロリアナさま! 首席だなんて、さすがです」
「新年度も、仲良くしてくださいね」
寮へ戻る途中、大勢の生徒に取り囲まれて、フロリアナはその一人ひとりに笑いかけた。彼らのほとんどは、貴族階級の出身だ。フロリアナもまた、王家に最も近いとされる筆頭公爵家の生まれである。
リコリダ王国の貴族は、十五歳から十八歳までの三年間を、貴族学院で過ごすことが義務付けられているのだ。
生徒たちと別れたフロリアナは、歴史ある佇まいの女子寮に入ると、二階へ上った。貴族学院は全寮制で、フロリアナに与えられているのは、寮で最も格式の高い部屋である。
「ラス、ただいま戻りましたわ!」
自室の重厚な扉の前には、燕尾服を身にまとったひとりの人物が立っていた。フロリアナの専属執事であるラスだ。
今年二十一歳になる彼は、端正な顔立ちに、肩まである黒髪を後ろでひとつに束ねた、背の高い男性である。
「お帰りなさいませ。おや、お嬢さま、なんだかご機嫌ですね」
ラスが恭しく扉を開ける。部屋に入るなり、フロリアナは満面の笑みを彼に向けた。
「そうなんですの! わたくし、これからいい恋をするのですわ。ねえ、恋ってどんなものかしら?」
ラスは、黒曜石のような瞳を瞬かせた。
「恋……? 王太子殿下と、ですか?」
「違いますわ。殿下が祈ってくださったの。わたくしにいい恋が訪れるように、と」
「殿下がお嬢さまに? ご冗談を。お二人は婚約者同士ではありませんか」
フロリアナはうっとりと自分の頬に手を当てた。
「殿下ったら、パーティーで出会った金髪碧眼の女性にひとめぼれしたんですって。その方と結婚したいから、わたくしとの婚約はなかったことにするのですわ。それで仰ったの。いい恋ができるように祈っていますって」
「まさかそんな、『今後の活躍をお祈り申し上げます』みたいなことを言われるなんて……。あの男、殺してやる……」
ラスの呟きは小さく、よく聞き取れなかった。フロリアナは彼の顔を覗き込む。
「ラス、怖い顔をしてどうしたんですの?」
「失礼しました。今、お茶をお淹れしますね。本日のお菓子はクッキーです。厨房を借りて作ったので、できたてですよ」
「まあ、嬉しいわ! ラスのお菓子はどれも絶品だもの」
うきうきしながらソファーに座るフロリアナだったが、ポットを持つラスの手が小刻みに震えているのを見て、眉根を寄せた。
「ラス、大丈夫ですの? 具合が悪いのなら、休んでちょうだい」
「いいえ、旦那さまにどうお伝えしたものかと思いまして……」
歯切れの悪いラスに、フロリアナは笑いかける。
「それなら心配いりませんわ。陛下とお父さまには殿下から報告するんですって」
「それはまた恐ろしい……。この国は滅びるかもしれませんね……」
「ラスったら、おかしなことを言わないで」
「いえ、割と本気です。それに、お嬢さまは大丈夫なのですか。たとえ恋心がなかったとしても、お嬢さまは十歳のときから殿下と婚約しておられたのです。さぞお辛いでしょう」
フロリアナは考え込んだ。確かに、王太子とは多くの時間を共にしてきた。情がないわけではない。
「そうねえ、確かに少し……、寂しいかもしれませんわ。でも、恋の予感に胸がどきどきしますの。わたくしも、ひとめぼれというものをしてみたいですわ!」
「お嬢さま、なんとおいたわしい……。春休みはどうぞ、領地でごゆっくりなさってください。私の前では、無理をなさらなくていいのですよ」
真実わくわくしていたフロリアナには、今にも泣き出しそうなラスの心情がよく分からなかった。