14.素晴らしい部屋
フロリアナは、シーリアたちが立ち去ったあと、裏口からぐるりと校舎の外縁を回って、校門へと戻った。
フロリアナが校舎から出てくるのを待っていたのだろう、姿勢よく立っているラスに、背後から声をかける。
「ラス、ただいま戻りましたわ」
「お、お嬢さま? いったいなぜ、そんなところから……」
「ちょっと、お散歩しておりましたの。さあ、寮に帰りますわよ」
かしこまりました、と一礼したラスは、フロリアナに気づかわしげな視線を向けた。
「お嬢さま、何事もございませんでしたか」
「もちろん大丈夫ですわ。今日はいいことがたくさんありましたの」
「それならいいのですが……」
ラスと並んで歩いていると、生徒たちが囁き交わす言葉が聞こえてきた。声を抑えているつもりだろうが、丸聞こえだ。
「見て、平民が執事を連れているわ」
「これじゃあ、どちらが偉いんだか分からないな」
「あのセレン公爵家が、没落するなんてねえ……」
周囲の声を聞くたびに、ラスの表情がこわばっていく。これならラスを部屋に待たせておくべきだった。
「お嬢さま、なんとおいたわしい……。屋根裏部屋の一件も含めて、学院に厳重抗議いたします」
「あら、このままで構いませんわ。きっと皆珍しがっているだけよ。そのうち慣れますわ」
フロリアナはさらりと言ってのけた。そんなことより、部屋の中を早く確認したくてたまらないのだ。
早速寮に戻ると、新たな部屋には、姿見と衝立が持ち込まれていた。
備え付けの家具では収納が足りなかったのだろう、ドレスがいくつも壁にぶら下がっている。それでも元の量には遠く及ばないから、入りきらない分はラスが処分したのかもしれない。
他には、小さなテーブルに、椅子が二脚。それで部屋はいっぱいだった。
「ラス、お片づけありがとう。大変だったでしょう?」
ラスは、いかにも無念そうな表情を浮かべた。
「いいえ、持ち込めるものに限りがありましたから……。ふがいない執事で、申し訳ありません」
「そんなことありませんわ! ドレスも少し整理されて、すっきりしたわ。ちょっと多すぎましたもの」
「ドレスのことなら、心配なさらないでください。その、お嬢さまには大変ご不快かもしれませんが、入りきらない分は私の部屋で保管しておきますから」
ラスは憂い顔だ。フロリアナは気にしないが、男性の部屋にドレスを持ち込むことを申し訳なく思っているのだろう。
「そんなことをしたら、ラスの部屋が狭くなってしまうわ」
「いいのです。私の部屋はちょうど、物置に使われていたので。収納ならたくさんありますから」
なんと、フロリアナが屋根裏部屋なら、ラスは物置部屋らしい。
今まで、ラスにはフロリアナの部屋の隣に、使用人専用の部屋が宛がわれていた。フロリアナも見せてもらったことがあるが、ベッドや机が備わった清潔な部屋だった。
「ラス、それは……。ベッドはちゃんとありますの?」
部屋が変わったことにはしゃいでいた自分が、急に恥ずかしくなる。まさか、ラスに不便を強いることになるなんて。
ところが、彼は気にした様子もなくにっこりと笑った。
「もちろんです。ちゃんと寝起きはできるので、心配なさらないでください。元々お嬢さまのお世話で、あまり自室にいる時間はありませんから、なんの問題もございません」
そのあと、フロリアナはラスに部屋を見せてほしいと懇願したのだが、彼は決して頷かなかった。
翌日フロリアナの机には、ぶす、勘違い女、学院から出て行けという内容の落書きが踊っていた。その表現は古典で習った詩を引用して迂遠に表現されており、学院の教育の質が高いことに、フロリアナは舌を巻いた。
「うふふ、でもここのつづりが間違っていますわ。こっちは誤用。なんだか微笑ましいですわね」
うっかりミスに和やかな気持ちになったフロリアナは、この落書きを消さないでおこう、と机を撫でた。
昼休み、ラス特製の弁当を持って中庭に向かうと、背後から軽快な足音が追いかけてくる。
「フロル嬢!」
振り返ると、クローディアスが立っていた。
「あら殿下。どうかなさいまして?」
「どうかって……。君は大丈夫なの? こんな風に嫌がらせされて」
クローディアスは心配そうに、水色の瞳をフロリアナに向けてくる。しかしフロリアナには、なぜ彼が深刻そうな面持ちをしているのか、理解できなかった。
「嫌がらせ? なぜですか。わたくしは素敵な出来事にとても助けられておりますのよ。これを考えついた方は天才ですわね」
「助けられて……? 天才? そんなはずがない。今まで見ているだけだった僕を許してほしい。これからはこのようなことがないよう、僕が力を尽くすよ」
――なんて迷惑なのかしら……。
フロリアナは思ったが、まさか声に出すわけにはいかない。クローディアスは、苦しそうな、なにかを思いつめたような表情をしている。
「フロル嬢。王太子の婚約者として、君がずっと努力してきたことを僕は知っている。それなのに、兄は君にひどい仕打ちを……。僕が謝って済む問題ではないけれど、本当に申し訳なかった……」
「おやめください、殿下。わたくし毎日が楽しいんですの。周囲には感謝してもしきれませんわ」
「フロル嬢、君は変わったね。今の君は真実、この状況を楽しんでいるかのようだ。以前の君は完璧すぎて、僕は気後れを感じたものだけれど……、っと、すまない」
フロリアナは唇を綻ばせた。確かに、王太子の婚約者だった頃は前に出過ぎないよう心がけ、気を引き締めていたが、自分の性格はなにも変わっていない。
「殿下ったら、わたくしのような者に謝ってばかり。でも、殿下ほどのお方がどうして気後れなどするのですか?」
「君には自覚がないんだね。僕は王家に生まれながら、深紅の色を宿せなかった。持っているのは中途半端な色のこの髪だけ。対して君の髪は美しい深紅だ。僕なんかより、ずっと王家にふさわしい」
クローディアスは長めにセットされた髪を、きゅっと引っ張った。
持って生まれた色などどうにもならないことなのに、王族ともなると、そんなことにすら重大な意味があるのだから大変である。
「殿下は今まで、辛い思いをされてきたのですね。でも、とても綺麗ですわ。殿下の御髪の色は」
「綺麗……? 僕の、この桃色の髪が? 陰でずっとみっともないと言われ続けてきたのに」
「ええ、綺麗です。わたくしは殿下の御髪の色が好きですわ。それに、リコリダ王国の国花は桃ですのよ。考えようによっては、深紅などよりよっぽど貴い色だとは思われませんか?」
クローディアスが目を見開く。ただでさえ大きな瞳が零れ落ちそうだ。いつも俯きがちだった彼の視線が、フロリアナと合った。
「フロル嬢。君はなんて……」
クローディアスは言いかけて、黙ってしまった。言葉の先を探してじっと見つめると、クローディアスの頬が赤く染まっているのが分かる。シェフが顔を真っ赤にして怒ったように、彼も激怒しているのだろうか?
「そっ、それでは殿下、ごきげんよう!」
幸運続きのフロリアナだが、王族と関わると、どうにも不穏なものを感じる。フロリアナはそそくさとその場から退散した。
「学院内でアルバイトをしたい?」
その日の放課後、フロリアナが向かったのは、ロイドのところだった。彼はちびちびとホットミルクを飲んでいる。
「はい。セレン公爵家は没落し、わたくしはただのフロリアナとなってしまいました。お金を稼がなければなりません」
「フロリアナ嬢、君の学費は既に全額支払われているよ。少なくともこの学院にいる間は、お金など必要がないだろう?」
「いいえ、執事に払うお給料が必要ですの。どうか学院を説得していただけないでしょうか」
フロリアナは祈るように手を組んで、ロイドを見つめた。
「……執事には、暇を出すというのはどうかな?」
「それだけはだめですわ!」
フロリアナの魂の叫びに、ロイドが胃の辺りをさする。
「それじゃあ、学院長に相談しておくよ。フロリアナ嬢、色々大変だと思うけれど、なにか困ったことがあったら言いなさい。私にできることなどたかが知れているが、力になるよ」
「ありがとうございます、先生。でも、今のわたくしは幸せいっぱいですの。ご心配には及びませんわ!」
「そうなんだ……」
ロイドの呟きは、今にも消え入りそうなものだった。
寮に戻り、ラスの淹れてくれた紅茶を飲んで、一息ついていると、寮長が訪ねてきた。彼女は無遠慮に屋根裏部屋をぐるりと見回すと、薄く口角を上げた。
「どうやら、屋根裏部屋の暮らしに馴染んでいるようですね。最初からこの部屋でもよかったのではないかしら」
「失礼ですが、どういったご用件でしょうか」
ラスの底冷えするような声に、寮長はため息をひとつついた。
「フロリアナ嬢。あなた、教師にアルバイトをしたいなどと言ったそうですね」
「寮長さま。仰るとおりですわ」
「学院付きのメイド頭が、あなたに話があるそうです。場所は東棟の二階よ。急ぎなさい」
東棟。普段、生徒が近寄らない場所である。
なるほど、侍従やメイドたちは華やかな場所からは遠いところで、日夜仕事に励んでいるのか。人に仕える者たちの生きざまを感じた気がして、フロリアナは密かに感動した。
ラスに頼んで髪をアップにしてもらうと、学院の、紺の制服から赤いドレスに着替える。フロリアナは早速、東棟へと向かった。
学院の東側にはいくつかの施設があって、東棟の他にも、使用人や教師たちの宿舎などが並んでいる。とはいえ、一介の生徒に過ぎないフロリアナは詳しいことを知らなかった。
東棟は、近づいてみると、三階建ての古ぼけた建物だった。中に入ると、そこらじゅうに机やら椅子やら、物が転がっている。備品置き場といったところだろうか。
ぎしぎしと不安な音を立てる階段を上ると、廊下にひとりの女が立っていた。栗色のふわふわした髪に、丸い眼鏡をかけたその人物は、フロリアナを見るとにっこりと笑った。
「あなたがフロリアナちゃんね。私はメイド頭のクレア。クレアって呼んでちょうだい。あなた、本当に学院で仕事をしたいのかしら?」
「ええ、その通りでしてよ。どうぞよろしくお願いいたします」
にこにこしているクレアを見て、優しそうな人でよかった、とフロリアナはほっとした。
「今人手が足りていないのは、清掃の仕事よ。ご令嬢なんかにできるかしら」
「お掃除ですわね! わたくしにお任せになって」
フロリアナは胸を張る。
「じゃあ、フロリアナちゃんには校舎の清掃をお願いするわね。そうだわ、あなたには、学生といちばん顔を合わせることになる、廊下を担当してもらうことにしましょう。きっとじろじろ見られるわよ。うふふ、楽しみね」
「はい! クレアさま、ご親切にありがとうございます」
ふわふわとした喋り方でありながら、なぜか彼女に妙な迫力を感じる。
ああそれから、とクレアは付け足した。
「フロリアナちゃんはただの下働きよ。メイドとは認めないわ。だから、メイド服は貸与できないのよねえ。ごめんなさいね」
「クレアさま、心配なさらないで。わたくし、準備は万端ですの」
フロリアナは内心で歓喜した。自分はなんという幸運の持ち主なのだろうか。
元々、メイド服を着るつもりなどなかったのだ。だからこそ、このドレスを身にまとってきたのだから。