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12.さよならと約束

 その日の天気は、快晴だった。まだ肌寒かった風はすっかり春めいて、緑のにおいを運んでくる。

 フロリアナが川べりに来てから、一か月が経とうとしていた。


 明日からは新学期、寮に戻らねばならない。


「フロル、お前はよくやったよ。お前になら安心して仕事を任せられる。アルバイト代が必要になったらまた来るといい」


 厨房のシェフはそう言って、フロリアナに小さなナイフを差し出した。


「シェフ、これは……?」


「果物ナイフだ。学院に戻ってからも、時々は包丁を握るんだぞ。腕が落ちちまうからな」


「シェフ……! ありがとうございます。わたくし、シェフのことを忘れませんわ」


 シェフに見送られて厨房をあとにしたフロリアナは、その足で酒場へと向かった。


 なんでも、「送別会」なるものを開くから、来るようにと言われていたのである。

 初めてこの酒場に足を踏み入れたときのように両手で勢いよく扉を開けると、そこにはタバサと常連客たちの姿が並んでいた。


「フロルちゃん、よく頑張ったな。バイト代は貯まったか?」


 そう尋ねたのは、フロリアナを酔客から何度も守ったマッテオである。


「はい! もう紅茶の缶が重くって、大変ですわ」


「このひと月で、酒場は大繁盛よ。女将もフロルちゃんがいなくなったら困るんじゃない?」


 そう話したのは、酒にめっぽう強い女性客だ。話を向けられたタバサが苦笑いする。


「まあね。でも、あんたたちが通ってくれればなんとかなるさ。こっちへおいで、フロル」


 タバサに手招きされるままに進んだフロリアナは、ふわり、と彼女の腕に抱きしめられた。


「タバサさん……」


「フロル、寂しくなるね。でも、忘れちゃいけないよ。バイトを辞めても、会えなくなっても、仕事で身につけた知識と技術という形であたしたちはフロルとずっと一緒だよ。皆で応援しているからね」


「皆さま……。わたくし、皆さまと過ごせたことを忘れませんわ。本当にお世話になりました……」


 じんわりと視界がにじみそうになって、慌てて笑顔をつくる。タバサの料理を存分に堪能したフロリアナは、下町の挨拶だという握手を交わして、皆と別れたのだった。





 川べりに戻ると、フロルハウスを丁寧に拭く。そんなフロリアナの周りを、ゲンたちが遠巻きに囲んでいた。

 荷物はここに来たときに持っていたトランクひとつだけ。フロルハウスは小さいから、念入りに掃除をしてもすぐに終わってしまう。


 フロリアナはゆっくりと立ち上がると、目を伏せた。


「あの……」


 口を開いたものの、なにを言ってよいのか分からない。別れの言葉、感謝の気持ち。伝えたいことはいっぱいあるはずなのに、言葉が出てこなかった。


「フロル」


 囁くようにフロリアナの名前を唇に乗せたのは、ゲンだ。


「こんなところに、ひと月も……。よく耐えたなあ」


「耐えるだなんて、そんな……! わたくし、ここが大好きですわ」


「そうだな。フロルがそう思ってくれているのは知っているよ。なにせ、働きはじめてもここに居座ったくらいだからな。定職にありついた人間は、まずは家を探すものだが」


 周囲に忍び笑いが漏れる。フロリアナも笑おうとしたけれど、口角がほんの少し引きつっただけだった。


「わたくし……。寂しいですわ。皆さんとお別れして、寮なんかに戻らなければならないなんて……。そうですわ、時々遊びに来てもいいですか?」


「だめだ」


 きっぱりとしたゲンの言葉に、フロリアナは顔を上げた。


「ゲンさん……?」


「フロル、お前にはまだ戻る場所がある。学院という居場所があるんだろう? そういう人間が、ここに来ちゃあだめだ」


「でも、長期休暇になったら、また行くところがなくなってしまいますし、そもそも学院を卒業したら、わたくしには帰るところもないんです」


 フロリアナは食い下がった。ゲンに拒絶されるなど、思ってもいなかったのだ。


「フロル。次の長期休暇には、ここに来ることは許さない。ラスを馬車馬のように働かせていいから、絶対に部屋を借りるんだ」


「どうしてですの……? わたくし、ゲンさんたちのことを仲間だと思っていましたのに……」


 フロリアナの声が震えた。絶対に笑顔で別れようと、決めたのに。


「仲間だからだよ。フロル、お前は夏のうだるような暑さも、冬の刺すような寒さも知らなくていい。少しでもいい暮らしをしてほしいんだ。帰る場所は、これから作ればいいさ」


「じゃあ、ゲンさんたちは……? 暑いのも寒いのも、ゲンさんたちが辛いのはわたくしだって嫌ですわ」


「俺たちはいいんだ。慣れているし、自分からこの暮らしを選んだ。でも、フロルは違うだろう? 幸せになるんだ。なによりも自分のことを大切にしてくれ」


 はい、とフロリアナは声にならない返事をした。


 温かいものが頬をつたう。事情を探ることも、見返りを求めることもせずにフロリアナを受け入れてくれた、髭もじゃの彼。


「でも……、ひとつだけ、訂正ですわ。わたくし、ここにおいていただいて、もうとっくに幸せでしたわ」


 ひぐっ、と嗚咽が漏れる。そういえば、ここで目覚めた最初の朝も、こうして泣いたのだった。ゲンがフロリアナを見て、目を細める。


「俺たちもだよ。お前と一緒に過ごしたこのひと月は、本当に楽しかった。それにしても、フロルの泣き顔は不細工だなあ」


 フロリアナとゲンの会話を聞いていた女が、目じりを拭って同意した。


「本当にねえ。すごく美人なんだから、そんな顔してちゃあもったいないよ。涙を拭いて」


 ゲンが髭の奥で微笑んだ。


「さあ、行くんだ。振り返らずに」


「ゲンさん、皆さん、お世話になりました。どうか、お元気で……!」


 ラスが挨拶を済ませるのを待って、トランクを持ち上げると、フロリアナは泣きながら橋のたもとの階段を登った。


「お嬢さま……。トランクをお持ちします」


 ラスに優しく声をかけられたが、フロリアナは首を横に振った。

 自分のことはちゃんと自分でできる。見送ってくれているであろうゲンたちに、ほんの少しだけれど、成長した姿を見せたかった。


 曲がりくねった道をずっと進んで、ようやく振り向く。そこには、美しい住宅街が整然と並んでいて、もはや橋さえ見えなかった。





「お嬢さま、このひと月、本当に大変な思いをされましたね。私がふがいないばかりにご苦労をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」


 寮に着くなり、ラスが深々と頭を下げた。


「ラスったら、なにを言うの。わたくしのほうこそ、ラスを振り回してしまいましたわ。ずっと一緒にいてくれてありがとう」


 女子寮の中でいちばん上等なはずのフロリアナの部屋は、ぽっかりと空いた洞窟のように広かった。

 フロリアナのためだけに、公爵家が用意した豪奢な家具も、どこかよそよそしい。


 タバサやゲンとの別れをまだ引きずっていたフロリアナだったが、頭を振って、寂しさを追い払った。いつまでもめそめそはしていられない。


 それに、今日はフロリアナが待ちわびていた日でもあるのだ。


「ラス。ようやくあなたに、これを渡せる日が来ましたわ」


 フロリアナはトランクの中から、ずっしりと重い紅茶の缶を取り出した。ずい、と缶をラスの前に差し出す。


「少ないけれど、ラスのひと月分のお給料ですわ!」


 ふふん、と鼻息も荒く、胸を張るフロリアナだったが、ラスは静かにかぶりを振った。つられて、彼の長い髪が小さく揺れる。


「お嬢さま、それはあなたが一か月もの間、頑張られた証です。頂くわけにはまいりません」


「でも――」


 言いつのるフロリアナに、ラスは淡く笑んだ。


「それに、この部屋には、旦那さまからお預かりしていた生活費が置いてあるのです。もう、お金の心配をなさることはありませんよ」


「それとこれとは話が別ですわ。わたくしが差し上げたいのは、ラスのためだけのお金よ。どうか受け取って」


 がしゃりと重い音がする紅茶の缶を、ラスの胸に押し付けた。しかし、彼は困りきった顔をして、受け取ろうとしない。


「やっぱり、だめですの……?」


 不安を悟られるなど、令嬢失格だと思いながらも、フロリアナはうなだれた。


「お給料を払えれば、貴族ではなくなっても、ラスはわたくしの執事でいてくれるのではないかと思っていましたわ。でも、やっぱりだめなの……?」


 川べりでの生活を楽しんでいたフロリアナだが、ひとつだけ心配があった。寮長が言ったように、フロリアナはもう執事を雇えるような身分ではないのだ。


「お嬢さま……!」


 ラスの大声に、フロリアナは弾かれたように顔をあげた。彼は大層慌てているようで、目を白黒させている。


「申し訳ないことをいたしました。お嬢さまがそんなふうにお悩みとは……。お嬢さま、私はあなたの元を離れません。私がお仕えするのは、これまでも、これからもフロリアナお嬢さまただおひとりなのですから」


「もう『お嬢さま』じゃないのに……?」


「私にとってはお嬢さまですよ。それとも、これからは旦那さまを通さない分、ご主人さまとお呼びしたほうがよろしいですか?」


「もちろん、お嬢さまでよろしくてよ。はい、じゃあこれをちゃんと受け取ってね!」


 紅茶の缶を捧げ持つフロリアナの手は、震えていた。銅貨のぎっしり詰まった缶は重くて、実は先ほどからずっと、早く受け取ってくれないかなあ、と思っていたのだ。


 ところが、それはつるりとすべって、けたたましい音とともに、ぴかぴかに磨かれたラスの革靴の上に落ちた。

 一瞬固まったあと、なにかを堪えるかのようにぴくりと笑ったラスが、缶を拾い上げる。


「お嬢さま、ご慈悲に感謝申し上げます……。それではこれは、私がお預かりしますね」


 こうしてフロリアナは、ラスとこれからも一緒にいることを誓い合った。紅茶の缶は、その証である。




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