11.看板令嬢フロリアナ
「フロル、この野菜炒めを五番テーブルだよ!」
「分かりましたわ!」
「フロルちゃん、注文いいかい」
「もちろん、よろしくってよ!」
フロリアナが酒場で働きはじめてから、半月が経とうとしていた。料理を床にぶちまけ、配膳するテーブルを間違えていたフロリアナも、今ではすっかり仕事に慣れている。
「最初はどこぞの令嬢が、遊び半分で来たのかと思ったが、まさか本気とはねえ」
「あたりまえですわ! わたくしには切実な事情があるのですから」
フロリアナはタバサに、アルバイトをするに至った経緯を話していた。もしも誰かが捜しに来たときに、迷惑になってはいけないと思ったのだ。
タバサはフロリアナの出自を誰にも漏らすことがなかったので、客の間でフロリアナは、謎の看板令嬢と呼ばれている。
「フロル、配膳が終わったら少し休みな。そこのりんごは客からの差し入れだ。むいてくれるかい? 一緒につまもう」
「お任せになって!」
フロリアナはくるくるとりんごの皮をむきはじめた。仕込みを手伝ったおかげで、今ではすっかり包丁を扱えるようになっている。
「たくさん練習したおかげで、包丁さばきが上手くなったね。でも、複雑じゃないのかい。こんなこと、今までは召使いの仕事だったんだろう?」
「あら、どうしてですの? こうやって生活を支える手が、わたくしを今まで育ててくれたのです。今度はわたくしが誰かの役に立つ番ですわ」
フロリアナは自分の手に目を落とした。つるつるだった肌は水仕事で荒れ、幾度となく包丁で切った傷の跡がちょっぴり残っている。でも、がさがさの手さえ今ではフロリアナの勲章である。
「本当に、タバサさんには感謝してもしきれませんわ。おかげでラスにお給料を払ってあげられそうですもの」
思わず笑みが零れた。宝物の紅茶の缶を振ると、じゃらじゃらと重い音がする。これは、アルバイト代が貯まった証だった。
はは、とタバサは乾いた笑みを浮かべる。
「名門公爵家の、執事さまの給料がいくらなのか、あたしには想像もつかないけどねえ」
「あら、これだけ頑張っているのですもの、きっと大丈夫ですわ!」
立ったまま、小さく切ったりんごをぱくりと頬張れば、シャリシャリとした触感と共に、爽やかな甘みが口の中に広がった。
「フロルちゃん、そろそろテーブルに来てくれよ!」
「はあい、よろしくってよ」
急いで客席に戻ると、フロリアナを呼んだのはマッテオという常連客だった。彼はほとんど毎日のようにフロリアナの勤務時間中に来店する。
フロリアナは彼の職業を知らなかったが、マッテオに限らず、早い時間から来店する客は珍しくなかった。夜勤明けの衛兵や、早朝から働く市場関係者など、様々な仕事に就く客が、酒場を利用しているのだ。
「フロルちゃんも、この店に慣れたよなあ。最初は女将が、フロルちゃんに変わったプレイをさせているのかと思ったが、あんたは本物のお嬢さまだよ。物腰を見れば分かる」
「それは……」
「大丈夫。なにも言う必要はないよ。俺たちの間じゃあ、あんたは立派な看板娘さ。いや、看板令嬢だったな」
マッテオが、白い歯を見せて笑う。
嬉しいやら照れくさいやら、顔が赤くなるのを感じていると、すぐに別の場所から声がかかった。
「おおい、注文したエールがまだ届かないよ!」
「それは失礼をいたしましたわ!」
エールを大ジョッキで三人分。力仕事は大変だけれど、客の笑顔を見れば自分まで嬉しくなってしまうから不思議である。
とはいえ、ときには愉快でないことも起こる。くるくる働いていると、フロリアナのドレスに手が伸ばされた。
「ぐへへ、フロルしゃんもう一杯……」
酔いつぶれた客が、フロリアナに痴漢まがいのことをしようとするのも、珍しい光景ではない。
「ちょっと、おやめに――」
「あんた、なにしてくれてるんだい!」
タバサの怒鳴り声が酒場に響く。
「おいおい、またかよ。フロルちゃん、悪かったな。こいつは外に放り出しておくからさ」
トラブルに気付いたマッテオたち常連が、泥酔した客を外に連れ出す。タバサと常連客たちに守られているおかげで、フロリアナは髪一本触れられたことがない。
「おっ、ここか? 王都で有名な看板令嬢がいるって店は」
「なんでもすごく綺麗な女の子が、ドレスを着て配膳してくれるとか」
新たな客を迎えるために、フロリアナは入り口に飛び出した。
「よくおいでくださいましたわ!」
「「本当に令嬢だ!」」
客の声が重なり合った。この日も酒場は大盛況である。
春休みが終わるまで、あと二週間。フロリアナは宿の厨房を訪れていた。今日のドレスは白、準備は万端である。
「ごめんください!」
宿の裏口から、厨房の中に向かって声を張り上げると、出てきたのはいつぞやのシェフだった。
「おいうるさいぞ……っと、お前は以前俺がクビにした……」
「はい、フロリアナですわ! シェフ、わたくし野菜の皮むきができるようになりましたの。仕事ができるようになったら雇ってやると、仰っていましたわね?」
「確かに言ったが、まさか……」
「そのまさかですわ。わたくしをここで働かせてくださいませ。わたくしのことは、どうぞフロルと呼んでくださいな」
シェフによって厨房に通されたフロリアナは、滑らかにじゃがいもの皮をむいてみせた。フロリアナは、じゃがいもの芽には毒があることを知っている。包丁のあごで芽を抜いた。
「ほう」
シェフの感嘆のため息が聞こえて、フロリアナは得意になる。
「わたくし、玉ねぎのせいで目が痛くなっても、もう騒いだりしませんわ。いかがですか? わたくしのことを雇っていただけますかしら」
シェフは苦笑しながら頷いた。
「まあ、いいだろう。お前はこれから下働きフロルだ」
「やりましたわ!」
「お前、下働きが嬉しいのか。変わってるな……」
こうして、午前中は厨房、午後からは酒場で、フロリアナは充実したアルバイト生活を送ることになった。これで、もっとたくさんラスの給料を稼げるだろう。
「お嬢さま……」
厨房でのアルバイトを始めた日の翌朝、上機嫌で川べりのたんぽぽを眺めるフロリアナの傍に、ラスがゆらりと立った。彼の表情は物憂げだ。
「どうしたの、ラス。お仕事の疲れが抜けないんですの?」
どうやら、ラスは剣の腕を買われて街の騎士団で働いているらしい。騎士といっても王国に仕える正規のものではなく、土地に根差した自警団のような存在だという。
その他にも仕事を掛け持ちしているようなのだが、ラスは詳しいことを言おうとしなかった。
「そうではなく……。前から何度も申し上げておりますが、小屋であれば借りられるだけのお金ができました。一緒に引っ越しましょう」
「うーん……。わたくしはここのほうがいいですわ。ゲンさんたちもいるし、なによりお金がかかりませんもの。わたくしに遠慮せず、ラスはお引越ししていいんですのよ」
「それでは意味がないのです……! 私はお嬢さまに少しでも、不自由のない暮らしを送っていただきたいのです」
「ありがとう。でもわたくしのことは心配しないで。……あっ、ゲンさん! パンの耳をもらって来ましたのよ。皆で食べませんこと?」
ゲンの元に走り寄ったフロリアナは、振り返ってラスに手を差し伸べた。
「ほら、ラスも一緒に食べましょう。ちょっと焼いて食べるとおいしいんですのよ!」
「仕方ないですね……。どこにいようと、主人を守るのが執事の務め。私もラスハウスで過ごすことといたしましょう」
ゆっくりと歩いてきたラスに、フロリアナは満面の笑みを向けた。