10.フロリアナ、落ち込む
野菜がころころと転がったり、指を切ったりと悲惨な仕込みを終えて、店が開くなり、フロリアナは元気いっぱいに客を迎えた。
「アルバイトさん、イカゲソとソーセージお願い」
「こっちに軟骨揚げともつ煮込み追加で!」
「かしこまりました!」
この日のアルバイトは順調だった。
メニューのつづりは完璧である。料理そのものは現物を見ない限り分からないものの、ゲンたちから得た知識で情報を補っている。
「フロル、たった一日で上達したじゃないか。その調子で頼むよ」
「お任せになって!」
タバサに認められて、上機嫌で仕事に没頭することしばし、フロリアナは客から声をかけられた。
「お嬢ちゃん、勘定してくれ」
「すまないね、フロル。今手が離せないんだ。会計を頼むよ」
厨房から、タバサの声が飛んでくる。フロリアナは首をかたむけた。会計とは、なにをすればいいのだろう。
フロリアナの疑問に気づいたのか、タバサは続ける。
「入り口のカウンターに計算機があるだろ? メニューの金額表が貼ってあるから、客が注文した料理を合計すりゃいいだけだよ」
「や、やってみますわ……」
フロリアナはおろおろと計算機の前に立った。一抱えほどもある計算機の下には引き出しがあって、そこに硬貨が収納されている。
「ええと……、エールが四杯で小銅貨八枚。軟骨揚げが小銅貨四枚。もつ煮込みは小銅貨三枚。合計で銅貨一枚と小銅貨五枚分のお会計ですわ」
そう言いつつも、フロリアナは銅貨を見たことがない。おそらく、小銅貨を大きくしたものなのだろうと当たりをつける。
「おうよ。銅貨一枚と、小銅貨が三、四……。ありゃ。一枚足りねえな」
男はちらりとフロリアナを見た。
「じゃあお嬢ちゃん、あとは鉄貨十枚で」
「てっ、鉄貨……」
いちおう、フロリアナとて国内に流通している硬貨のことは知っている。
価値が高いものから金貨、銀貨、小銀貨、銅貨、小銅貨、鉄貨、小鉄貨の順だ。
このうち、フロリアナが見たことがあるのは金貨、銀貨と昨日、アルバイトをクビになったときにもらった小銅貨だけである。
「あのう、確認なのですけれど、こっちが銅貨で、この黒いのが鉄貨ですの……?」
「はあ? そうに決まっているじゃないか。なんだお嬢ちゃん。あんた、カネを見たことがないくらい貧乏なのかい?」
「おほほ、そうかもしれませんわね。では、ちょうどいただきますわ。ありがとうございました」
男が去ってからしばらくして、タバサがカウンターへやってきた。洗い物をしていたのか、エプロンで手を拭いている。
「なんだ、えらい手間取っていたね」
彼女は、会計皿に置かれた硬貨を見て目を丸くした。
「フロル、さっき鉄貨十枚って言っていなかったかい?」
「ええ、鉄貨十枚で、小銅貨一枚分の価値があるのですよね……?」
「そうだけど、これは小鉄貨さ。硬貨の最小単位だよ。あの客、フロルが世間知らずなのをいいことにだましやがったね」
それではフロリアナは、店に損失を出してしまったのだ。
「ごめんなさい……! わたくし、取り返しのつかないことをしてしまいましたわ……」
「なに、気にすることはないよ。このくらい、屁でもないさ」
夕方、ラスが迎えに来ると、フロリアナはとぼとぼと川べりに戻った。出迎えてくれたゲンが、髭の奥の口をぽかんと開ける。
「どうした、また元気がないな」
「お仕事って、大変なのですね……。今日もタバサさんに迷惑をかけてしまいましたわ」
フロリアナが肩を落とすと、ラスが慌てたように懐を漁った。
「お嬢さま、少額硬貨なら今、手持ちがあります。一緒に勉強しましょう」
ラスが砂利の上に銅貨と小銅貨、鉄貨、小鉄貨を並べた。
「一般的な相場としては、下町の住人ならば金貨一枚で数年は暮らせるでしょう。外食をしなければ、銀貨一枚で一年分の食費がまかなえます。小銀貨が一枚あれば、お嬢さまがお勤めの店で全てのメニューを頼んでも、おつりが来ますよ。銅貨と小銅貨はお嬢さまもご存じでしょうから省くとして……」
ラスは鈍く光る黒い硬貨を指す。
「鉄貨と小鉄貨はあまり使いませんね。買い物の端数を合わせるときくらいでしょうか。子どもの駄菓子などは鉄貨一枚で買えるものもあるようですが。銅貨と小銅貨、鉄貨と小鉄貨は大きさにあまり違いがないので、分かりにくいかもしれませんね」
それでも、こうして実物を比べれば違いは一目瞭然だった。
「お金は経済の要ですもの。それを知らないなんて……、恥ずかしいことですわ」
フロリアナは呟く。自分が情けなかった。
周囲はもう暗い。雲に覆われ、星のない夜空を映して、川はまるでよどんでいるかのように見える。
「おい、フロル。なにをぶつくさ言っているんだ。落ち込むなんてお前らしくないぞ」
「ゲンさん……」
「さてはお前、挫折なんてしたことがないんだろう。迷惑なんて、いくらでもかけりゃいいさ。そのうちフロルも仕事に慣れる。迷惑をかけて、かけられて、お互い赦しあえばいいんじゃないのかい」
「そういう、ものですか……?」
フロリアナが問いかけると、それに答えたのは家なし仲間の女だった。
「もちろんさ。経験のない仕事に挑戦してるんだ、あんたは偉いよ」
「そうです、お嬢さまは仕事熱心で素晴らしいです」
ラスが話す。
仲間たちの言葉に、フロリアナは顔を上げた。
「わたくしが偉い……? 仕事熱心……?」
「その通りだよ、フロル。お前を拾った俺が言うんだ。間違いない」
ゲンの最後の一押しに、思わず顔が綻んだ。
空を見上げてみれば、星を雲が覆った夜というのも風情があるではないか。人々の営みのともしびが、闇によく映える。
「ありがとうございます……! わたくしもうお金のことを覚えましたもの、きっと明日からはちゃんとやれますわ。うふふ、これも皆さんのおかげです」