9.バイトその三・酒場
「それじゃあ、次のアルバイトを探すとしましょう。実は、女の子が引っ張りだこの職場があると聞いておりますの。それはずばり、酒場ですわ!」
「なりません! お嬢さま、それだけはおやめください。酔った男どもの前に、お嬢さまが身をさらすなど……、考えただけでも生きた心地がいたしません」
「あら、酔った殿方など社交の場で何人も見てきましたわ。お相手するのは確かに愉快ではありませんが……、わたくしにもできるはずよ」
「お嬢さま……。酒場にいるのは、下町の飲んだくれです。夜会の紳士と、どちらがましなのかは分かりかねますが、お嬢さまの見たことがない人種であることは確かです。どうかお考え直しください」
ラスが泣きそうな顔でとうとうと諭してくるが、フロリアナは構わずに歩きだした。ジョッキの描かれた看板が、酒場の目印らしい。でも――。
――ジョッキって、なにかしら……?
首を傾げつつ、しばらく歩くと、見覚えのある建物が見えてきた。ゲンとともに、酒瓶を回収して回ったときに訪れた店である。この店の裏口には整然と空の瓶が並んでいて、ずいぶんと助けられたものだった。
店の軒には、グラスとは違う、コップのようなものが描かれた看板がかかっている。
「きっと、ここですわ。ごめんくださいませ!」
「あっ、ちょっと、お嬢さま!」
食い下がってくるラスには構わず、フロリアナはためらいもなく、両開きの扉を勢いよく開けた。そこに広がっていたのは、机と椅子が雑多に置かれた、食堂のような空間だった。
「なんだい、まだ開店前だよ!」
店の奥から現れたのは、ふくよかな女だった。年齢は三十前後だろうか。焦げ茶の髪に、快活そうな琥珀色の瞳が印象的である。
「それは失礼いたしました。でもわたくし、客ではございませんの」
フロリアナは深々とカーテシーをした。その礼は、王太子へ向けるものより深く丁寧だったかもしれない。
「わたくしはフロリアナと申します。わたくしを、ここで働かせてくださいませんか?」
女はぽかんと口を開けた。
「あんたが、働くの? この店で?」
フロリアナはめいっぱいの笑顔を浮かべた。ここで断られたら、さすがにあとがない。
「はい! わたくし、なんでもいたしますわ。どうかよろしくお願い申し上げます」
しばらく考え込むように顎に手を当てていた女は、やがて頷いた。
「まあ……、この間若い子に辞められたばかりだし……。こういうプレイも、いいかもしれないね」
「プレイ、ですの?」
「いやいや、いいんだ。ここは昼から開店だよ。あんたは何時まで働けるんだい?」
「何時でも――」
フロリアナが言い切る前に、背後から声がした。
「夕方まででお願いいたします」
振り返ると、ラスが扉からひょっこりと顔を出している。
「ちょっと、ラス。いったいどういうつもりですの?」
「お嬢さま。夕方までなら、そこまでべろんべろんに酔っ払った輩は、出没しないかもしれません。これが私の譲歩できる限度でございます。ご了承いただけないなら、私はお嬢さまをさらって国外へ逃げます。どうかご一考ください」
フロリアナは疑問に思った。国外へ逃げてどうするというのだ。ラスの給金を稼ぎたいだけだというのに、そんなことをしたらもっと金銭が必要になるのではないだろうか。
「……分かりましたわ。あの、お昼から夕方までこちらで働かせていただけないでしょうか。わたくし、頑張りますわ」
「はいよ。ちょうどいい、もうすぐ開店だ。お嬢ちゃん、そのドレスのままで働くのかい?」
女は珍しそうに、フロリアナのドレスに付いているレースをつまんだ。
「ええ、これは仕事着ですの。お食事を扱うには、白い服の方がよいのでしょう?」
「ああ、それで白いドレスなのかい……。色々聞きたいことはあるが、まあいいだろう」
こうして、三度目の正直、フロリアナのアルバイトが始まった。
「いいかい、フロル。それぞれの机には、番号が振られている。あんたはまず、客の注文を取って、それをあたしに伝える」
タバサと名乗った女は、この店の主人なのだという。早速愛称で呼ばれたフロリアナは、タバサの説明に真剣に耳を傾ける。彼女の言う通り、机の側面には、数字が刻印されていた。
はい、とフロリアナは折り目正しく返事をする。
「料理ができたら机番号を伝えるから、あんたはその通りに配膳をすればいい。簡単だろう?」
「簡単かどうかは分かりませんが、やってみます!」
やる気満々のフロリアナは、店の入り口で難しい顔をして立っているラスに声をかけた。
「ラス、ここはもうよくってよ。あなたはラスハウスに戻って、休んでちょうだい」
「ラスハウス? そういえば、あんたたち住むところはあるのかい」
フロリアナはふんわりと笑った。新しい家のことを考えると、心が温かくなる。
「ええ。橋の向こうに」
「橋の向こう? そりゃあ、よかった」
「どうしてですの?」
「川の対岸は市街地だろう。あそこに住めるのは、いっぱしの市民だけさ。あたしたちみたいな貧乏人は、こちら側の下町に住むしかない。あんたがまともな暮らしを送れているのなら、よかったよ」
――それはちょっと、事実とは違うかも……。
さすがのフロリアナも、自分の実態がタバサの言う「いっぱしの市民」とはかけ離れていることに気がついた。
でもまあ、あえて心配させる必要はないだろう。ありがとうございます、とだけフロリアナは答えた。
「お嬢さま、それでは夕方にお迎えにあがります。決して独り歩きをなさいませんように」
ラスが一礼して去っていくのを見送って、フロリアナはぱちぱち、と自分の頬を叩いた。
「雇っていただいたからには、ちゃんとお役に立ちますわ!」
そのとき、鐘楼の鐘が鳴り響いた。正午の合図である。
「おや、もうそんな時間かね」
タバサが立ち上がるのと同時に、数人の客が店に入ってきた。
「ようこそ、おいでくださいました」
カーテシーをすれば、客は目を丸くした。タバサが、フロリアナを示す。
「お客さんたちは運がいい。この子は今日からここで働く、アルバイトのフロルだよ。可愛がってやってくれ」
客のひとりが席につくと、笑ってフロリアナを見上げた。
「ふうん、アルバイトなんだ。綺麗な子ね。早速注文いいかしら」
「もちろん、よろしくってよ!」
「じゃあ、イカゲソトモツニコミニナンコツアゲ。アトエールイッパイ」
「はい……?」
フロリアナは記憶力に自信があるほうだ。今は手元にメモも用意している。ところが、客の言葉の意味が分からなかった。いくら耳がよくても、知らない外国語をまくしたてられたら理解できないのと同じである。
「だから、イカゲソ、とモツニコミ、に――」
客が親切にもゆっくりと繰り返してくれたので、つづりすら分からない料理名をなんとかメモしたフロリアナはタバサの元に逃げ帰った。
「タバサさん、ここのメニューは何語ですの? わたくし、一通りの言語はおさめたつもりでしたが、さっぱり分かりませんでしたわ」
「なに言ってるんだい。王国語に決まってるだろう。ほら、注文はとれたのかい?」
ぴっとフロリアナの手からメモを取り上げたタバサは、ぱちぱちと目を瞬かせたあと、声を上げて笑った。
「なんだい、これは。肝心のメモが読めないんじゃあ、料理の作りようがないよ」
「これは発音記号ですわ。読み上げますわね。イカァゲソォ」
「ええと、イカゲソのことかな?」
「それ! それですわ。それから……」
夕方、ラスが迎えに来たときには、フロリアナはへとへとに疲れていた。まさか、酒場のアルバイトがこんなにも難解なものだとは思わなかった。
「タバサさん、今日はごめんなさい……」
役に立つと豪語しておきながら、実際には足を引っ張ってばかりだったことに、フロリアナは若干、落ち込んでいた。
「なに、初めての仕事なんてそんなもんさ。ゆっくり覚えていけばいい」
「あの、メニューを一晩貸していただけませんか。勉強してまいりますわ」
そんなことしなくてもいいのに、と笑うタバサを拝み倒して、メニュー一覧を借り受けたフロリアナは、それを大事に抱えて家路についた。
「フロル、お帰り。ちゃんと仕事にありつけたかい?」
出迎えてくれたゲンに、フロリアナは深刻な面持ちで告げた。
「あの、イカゲソってご存じではありませんか……?」
「おう、酒場のメニューじゃないか。懐かしいな。イカゲソっていうのはな、イカの足のことだよ。この辺りの酒場では、炙って提供するのが一般的だな。桃色がかった焦げ茶の、細長い料理はなかったかい?」
「……ありましたわ!」
「それだよ、それ」
ゲンは、本当に頼もしい。フロリアは矢継ぎ早に尋ねる。
「では、モツニコミは? ナンコツアゲは?」
「おいおい、フロル落ち着けよ」
メニューを広げると、家なし仲間たちが集まってきて、楽しそうに解説を始めた。
聞いたこともない、料理の数々。リコリダ王国は温暖で、海に面しているから、様々な食材があることは理解しているつもりだった。けれど、貴族と民の食べ物が、これほど違うとは思いもしなかった。
――わたくし、民のことを、なにも知らないのね……。
自分の無知を痛感したフロリアナは、夜遅くまで、たき火の傍でメニューを眺め続けたのだった。
翌朝、食事を済ませると、フロリアナは昼の鐘が鳴るずいぶん前に酒場へと向かった。
「お嬢さま、まだ時間が早いようですが」
後ろをついてくるラスに、振り返って説明する。
「タバサさんにお願いして、仕込みを手伝わせてもらうことになりましたの。お給金は出ないけれど、包丁の使い方を教えてくださるんですって。わたくし、野菜の皮を綺麗にむけるようになったところを、あのシェフに見せてあげたいのですわ」
「お嬢さま、厨房で働くことも諦めていないのですね……」
「もちろんですわ!」