冥府の神泉
サラサラと水が流れる音に誘われて幹伝いに歩いてゆくと、巨大樹の根が地面を這う場所に行き当たった。根っこの幅が3、4メートルあるのも驚きだが、更にびっくりするのはその形状だ。オレは最初、棚田が連なっているのかと思った。水で満たされているのもあって、田植え前の水田にそっくりなんだよ。
湯気が上がっているので水面に手のひらを翳してみれば、仄かな温かさを感じる。指先を浸けると、温めのお風呂の温度くらいの温水が流れている。オレはトルコのパムッカレを思い出した。石灰でなく木の根で出来ているけれど、木肌がツルリとして白っぽいので似ているのだ。
「セイちゃん、ジェイド、お風呂が造れそうだよ」
「やった! ジェイド、いっしょに入ろうね!」
「おっと!」
フラリと倒れかけたジェイドをヘリオスさんが支えた。前にリヒトさん家でセイナに誘われた時は、気絶してたジェイドだけど。今回はまだ意識があるな、着々と耐性を獲得しているようだ。相変わらず鼻血は出ているから、地面に血溜まりが出来つつあるが。
「『いたいの、とんでけー!』……なんで、血が止まらないの?」
「あー、これは怪我とかじゃないからね。ジェイドの妄想、いや想像力を封じなきゃ、鼻血出っぱなしなんだよ」
「ふーん。ジェイド、だいじょーぶ?」
セイナの優しさは、ここでは逆効果だ。ジェイドの顔が更に血塗れになる。なのにセイナに心配されて喜色満面なものだから、ちょっぴりホラーだ。アステールさんが引いている。
「ジェイド、顔を洗いなさい」
「あ、待てジェイド、アズ、先にこの水の鑑定を頼む。温泉だろうが一応な」
アステールさん、木の根を流れる水を鑑定して絶句した。え、何かヤバイものなの?
「……これ……冥府の神泉、と……」
「えっ」
青褪めるアステールさんと、ヘリオスさん、ジェイドの現地人組。だけどオレとセイナは『冥府の神泉』とやらが何か知らないので、皆が何に衝撃を受けているのか分からない。地獄温泉的な響きだけど、有名な温泉地?
そこに、さっき祠にいた小動物が、フワリと滑空してきた。オレの頭に着地したようで、髪の毛がモソモソする。
「お兄ちゃん、しゃがんで! リスさん見えない!」
「飛べるから、リスさんじゃなくてモモンガさんだと思うよ。それかムササビ」
セイナが服の裾を引っ張るので、オレは地面に正座した。オレの頭頂部に視線が集まる。モモンガは頭から下りる気が無いんだろうか。オレの両肩にはスーちゃんとウルが陣取っているけど、チビ達はオレを乗り物だとでも思ってんのかな。
モモンガがゴソゴソと動いた気配がする。
「何なに? めいおう、のぞみ、かなえる? ウル、何か知ってるか?」
どうやらモモンガは、また木片で筆談しているようだ。オレからは見えないけど。
左肩のウルがワンッと元気よく鳴いて、オレの左頬に温かく湿った感触がする。ウルに舐められたかな。
「ユウ君、心当たりがあるんじゃないですか?」
「オレですか?」
「夢で冥府の王からウルを託された時に」
ヒツジさんの部屋で冥王様とお会いした時のことを、思い返してみる。のぞみ、かなえる……そういえば、冥王様がオレの望みを1つ、叶えてくれるとか……。
「ユウ、何か思い出したろ」
「あ、確か、ウルを預かる対価として、冥王様がオレの望みを叶えてくれるって、仰ってたんですけど」
「なら、それだろ」
「でも、その後で祝福をもらったから、そっちが対価だとぉぉー、いひゃいれす」
「ユウ君、冥府の王より祝福を授けられたのですか? 聞いていませんよ?」
詳しく話しなさいと、アステールさんが視線で命令してくるけど、ほっぺた引き伸ばされてると話せないんですがね。ヘリオスさんまで反対側のほっぺたを引っ張ってくれるけど、オレの頬はあまり伸びないんだよ、柔らかい子どものほっぺたと違って。だから、ほっぺたビヨーンの刑はやめて。
「……ふう。伸ばすならセイちゃんのほっぺたが、よく伸びてお勧めですよ」
「セイ、ほっぺたのびるよ! 見て!」
セイナが自分の両頬を引き伸ばす。めっちゃ伸びる。可愛いが過ぎるな、きっとオレは鼻の下が伸びてるよ。
「で、祝福については?」
アステールさんが誤魔化されてくれなかった。渋々オレは、祝福の内容を口にする。
「ええと、一度だけなら、冥府から地上に戻っても良いよ、的な」
アステールさんがフラリと倒れかけた。支えたヘリオスさんがオレをジト目で見てくるんだけど、オレは何も悪くないよね。
「つまり、ユウは死んでも一度は生き返れると」
「そうとは限らないでしょ。冥府に旅行して帰ってくるとかもあるでしょ。ウルの親御さんに会いに行くとか」
「いえ、死んでも生き返るが正解だと思います。なにせ、この流れっぱなしの水にさえ、回復効果があるようですから」
ヘリオスさんの腕の中、青い顔のままアステールさんが言う。冥府の神泉ってSUN値も回復してくれるかな。
「回復効果ってのは、どの程度だ?」
「そこまでは判りません。判らなくて良かった……」
「調べないんですか?」
「ジェイド、世の中には明かさないほうが良い真実もあるのです」
知らぬが仏ってやつだよね。知ってる。
現地人組が揃って乾いた笑いを浮かべているので、セイナが眉毛をショモンとさせる。
「お兄ちゃん、おふろ、入れないの?」
「いや、入るよ? せっかくの温泉なんだから、入るに決まってる」
アステールさんを筆頭に、ヘリオスさん、ジェイドまでが信じられないって顔で見てくるけど、日本人の風呂好きを侮るなかれ。自宅に温泉、活用しなくて如何すんのさ。
「セイちゃん、兄ちゃんと2人で入ろうな!」
「うん!」
で、結局『冥府の神泉』って何だろう。ラスボス前の全回復する泉か何かかな?




