コマンド「逃げる」
ヘリオスさんの選んだコマンド「逃げる」。思ってもみなかった指示にオレは驚き、「へ?」と間抜けな声が出た。アステールさんがクスリと笑う。その手で三角錐の置物が、ブーンと音を立てている。知らぬ間に盗聴覗き見防止の魔道具が作動していた。
「何ですかユウ君、ポカンとして」
「え、いやだって、逃げるって」
「おう、とっとと逃げるぞ。もうここに用はないだろ」
「そうですけど。せめてパラスさんには挨拶しないと」
困惑しながらもそう言うと、ヘリオスさんが真顔で首を横に振る。
「のんびりしてると逃げられなくなるぞ。あの連中、今夜は夜通し呑み明かすんだろうからな。巻き込まれて呑まされて、気付けばここの専属になってたなんてのは御免だ。もうアームレスリングは当分やりたくない」
そうなんだ。ヘリオスさん、快く応じてたように見えたけど、実はうんざりしてたのか。
「それに、ユウも勧誘されたの、はっきり断ってないだろ。あれはまだ諦めてないぞ。執拗く食い下がってくるだろうし、泣き落としでもされたら面倒だ」
「ユウ君は何をやらかして目を付けられたのです」
「いや何も──」
「紙細工を幾つか見せてた」
「簡単なのだけです、ちゃんと自重しました!」
「そうだな、ユウにしては控え目にやらかしてた」
「控え目でも、やらかしていたのですね。では、あの手この手で引き留めにかかってくるのは確定です。急いで逃げないと何日も足留めされて、王妃様から捜索隊が出されますよ」
いやまさかそんな、ハハハと笑い飛ばそうとしたが、ヘリオスさんにジェイドまでが大きく頷いている。
「師匠、ボク、ハルトムート王子にいつ帰って来るのかって、何度も聞かれました。遅くなるとお城の女の人達が暴動を起こすから、必ず予定通りに帰って来いとも言われました」
紙花アクセサリーをお待たせしているからね。オレ達が城から離れるのも渋られたから、アクセサリーの材料を仕入れるためだって言って説得したのだ。うん、ここで足留め食らってる場合じゃないな。お城の女性陣を敵には回せない。
「わかりました、逃げましょう!」
そうと決まれば急がなければ。マッチョ達が拳闘樹の涙を採取するために、集落の奥に集まっている今がチャンスだ。オレ達は風呂に入っていると思われてるから、しばらく姿が見えなくても探されないし。
アステールさんの提案で、オレの『かくれんぼ』で姿を隠して移動し、ロキ達と合流、そのまま逃げるという手筈になった。ヘリオスさんが「急用が出来たので帰る、挨拶も出来ずすまん!」との内容の置き手紙を書いている横、アステールさんが風魔法で逃走経路を確認。オレはジェイドに『かくれんぼ』の説明をする。
オレの『かくれんぼ』、ウルを見つける鬼役が必要なんだけど、その鬼役をジェイドに任せることになった。姿を隠せない鬼役はオレが引き受けるつもりだったが、オレとヘリオスさんは目を付けられている当人だからと却下され、子どもだからと注視されていない、かつ機転が利いて足が速いジェイドに白羽の矢が立ったのだ。
「ジェイド、『かくれんぼ』を解除するには、ウルを見つければ良いから。ウルはセイちゃんのポシェットに隠すからね」
「はい、セイちゃんなら匂いで居場所が判るので、大丈夫です!」
そうだと思ったからウルの隠し場所をセイナにしたんだけど、それは言わないでおく。自分で言うのは良くても、人に指摘されると恥ずかしいかもしれないので。
「セイちゃんはヘリオスさんとトールに乗るから、ジェイドは今回だけ、フレイヤに一人乗りな」
「ボク、セイちゃんと一緒が良いです」
「知ってる。でも、『かくれんぼ』の効果範囲がまだはっきりしないから、1番目立つヘリオスさんが確実に隠れるように、ウルの近くにしたいんだ。ここから離れるまでの、ほんの少しの時間だからさ」
「……わかりました」
無理やり自分を納得させたらしいジェイド、ギリギリまでセイナの匂いを嗅ぐことにしたようで、セイナの首筋に鼻を押し付けてクンクンクンクンしている。その間に置き手紙を書き上げたヘリオスさんが、畳んだハーフパンツの上に封筒を置く。
「よし、こっちは準備出来た」
「周辺も無人です。ユウ君、今のうちに」
「はい、ジェイド、ヘリオスさんにセイちゃんを渡して。セイちゃん、今からかくれんぼするから、鬼に見つからないように静かにしててね」
「うん!」
「ウル、セイちゃんのポシェットに隠れような?」
ウルがオレの手のひらから、セイナのネコさんポシェットに飛び移った。ポシェットのネコ耳の間から顔を出したウルに、ジェイドが顔を近付ける。
「ええと、ウル、今日はボクが鬼です。ボク以外の、セイちゃんとユウ師匠と、ヘリオス先生と、アステールさんと一緒に隠れてくださいね」
ワンッ!
ジェイドが10まで数えるうちに、ウルがモゾモゾとネコさんポシェットに潜り込む。ポシェットの底にポコンと膨らみが出来たので、そこに居るのだろう。
「──きゅーう、じゅう! ええと……」
「ジェイド、もう良いかい、だよ」
「そうでした、みんな、もういーかーい?」
「「「「もういーよー」」」」
キュウウン、クゥーン!
ウルの鳴き声と共に、モワモワッとした黒い霧のような物がオレ達に纏わりついた。全身を覆う黒い霧状のものは、セイナの頭上で尖った耳を形作り、アステールさんの腰から太い尻尾を生やしている。これは犬耳と犬の尻尾か? 可愛いな!
「お兄ちゃん、ワンちゃんのお耳!」
セイナがオレの頭上を指差すので、オレにも犬耳がくっついている模様。身を捩ると、背後にモワモワ黒い尻尾も揺れている。
「おおー。これ、ジェイドにはどう見えてる?」
「皆の姿は見えません。空中に薄っすら黒い靄のようなものがあって、そこだけ景色がブレて見えるというか」
「完全に透明化はしないのですね。ですが、もう日が暮れて薄暗くなっていますから、目隠しとして有効でしょう。ユウ君、ジェイドが解除するまで、ずっとこのままですか?」
「わかりません!」
『かくれんぼ』はまだ殆ど検証出来てないからね。ヒーローごっこの時みたいに、視界にカウントダウンも表示されないし。
「なら、今すぐ作戦開始ですね。ジェイド、いけますね?」
「はい!」