やさしい『だけ』の人
その娘は染料になる桃色の花を摘んでいた。広大な畑にはその桃色の花が波打ち、とても幻想的である。
父母は少し離れた場所で同じく花摘をしていたが、娘が仕事の手を止めて道の先を見ているので呆れて声をかけた。
「デイジー。そんなに道ばかり眺めていては日が暮れても仕事なんか終わらんよ」
「あ……! ごめんなさい、父さん」
慌てて仕事を始めるデイジーに、父はため息をついて言葉を追加する。
「悪いことは言わん。あんな男を思うのはやめなさい」
「……どうして? フィンさんはとてもいい人だわ」
「ああ、ワシらもそう思うがなぁ。その『いい人』ってのが問題だよ。この今の世の中では、あんなヤツぁ、騙されていいように使われるのがオチだよ」
「たとえそうだとしても、人間らしくてとても素敵だわ」
デイジーの答えに両親は、深くため息をついた。
その時、遠くから馬の鳴き声が聞こえた。デイジーは急いで振り向く。お城の方から栗毛の馬に跨がる青年がやってくるのが見えた。彼女はそれに大きく手を振ったので、両親たちはまたまたため息をついた。
青年は馬を歩ませ、花畑の近くにある木に馬を繋いで、デイジーへとにこやかに駆け寄ってきた。
「やあデイジーさん。今日もお仕事ですか?」
「ええフィンさん。チェンパスの花を摘んでいたの」
「チェンパス! 赤い染料になる花ですね」
「うふ。そうよ」
「私もやりたいな。手伝ってもいいですか?」
「もちろんです。こうして花だけを茎から取り外すんです」
「わぁ、すごい。こうですか?」
「そうです。とってもお上手。さあこのカゴに入れてください」
「カゴに……。デイジーさんの腰のですか?」
「ええ。さあどうぞ」
「で、では遠慮なく!」
二人は楽しげに花を摘まむ。最初はフィンを変人のように見ていたデイジーの両親も、なぜか微笑ましく思って眉尻を下げて仕事を再開する。
デイジーとフィンの距離は、まだまだ恋人のそれとは遠かった。
フィンは教えて貰った作業を熱心にやっているので、デイジーの父はフィンに訪ねた。
「フィンさんよ。農業は好きかね」
「あ、クロウバさん。はい、好きです」
「姓で呼ぶとは堅苦しいな。こうして毎日のように通ってくれているというのに。ベンでいい」
「は、はい。ベンさん」
「君の家は? 農業はやっていないのかね?」
「はい、やってません。しかし、こうしてお日様に当たって仕事をするとはなんとも崇高なことじゃありませんか!」
デイジーの父、ベンは吹き出しそうになった。なにもそんな大袈裟な話でもないと感じたのだ。
この青年は無邪気な様子で花を摘む。青年が来た城下は最近はとても不穏だ。そんな都市部の人がこんなにお人好しでやっていけるのかとデイジーの両親は思っていた。
「フィンさん、手伝って貰って恐縮だが、見ての通り貧しい暮らしをしている。日当なんて出せないからな」
「そ、そ、そんな! そんな気持ちは毛頭ありません。私は好きでやっているのですから」
「ふっ。美しいチェンパスが気に入ったかね?」
「は、はい! チェンパスも美しいですが、その、あの……。ははっ」
青年フィンはその後の言葉をうまくごまかしたつもりだったが、デイジーの両親は、その真意が分かった。彼は娘に気があるのだろうと。
だが、いつの頃からかこうして郊外の農家に通う男など、まともな仕事などしていないだろうと言うこと危惧していた。
娘が欲しいなら、ちゃんと食わせていって貰わなければ困るからだ。
「のうフィンさん。普段はどんな仕事を?」
ベンが訪ねると、フィンは言葉に詰まってしまったが、しばらくして答えた。
「あの……、父の仕事の手伝いを──」
「その仕事とは?」
「いや、まあ、その、ははっ……」
答えが出ない。ベンは大きくため息をついた。
「城には聡明なスタンリー王子がおられる。だが、義理の母の王妃さまや宰相さまが国王陛下がご病気なのをいいことに、好き勝手な政治をなさるのだとか。なんとかスタンリー王子を助けてあげるような気概は無いものかね?」
「はは、はははは……」
フィンは力なく笑うので、ベンはまたもやため息をつく。
この国はベンが言う通り、国王陛下が健在の時はちゃんとした政治が行われていた。
しかしある時、宰相が紹介した国王の側室ザラが王宮に入ってから変わってしまった。
側室ザラが男子を産んだとたんに、国王は病気になり、スタンリー王子の母である王妃も原因不明の病気となって亡くなってしまったのだ。
そのタイミングでこの側室は、王妃となり、産まれた男子は王位継承権二位となったのだが、宰相や王妃がバックについている以上、実質継承権一位というのは、誰の目にも明らかだった。
「スタンリー王子は、民衆にも優しく、身分の差もなく愛してくださると聞く。そんなかたに次の王様になって欲しいものだ。君もそう思わんかね?」
フィンはそれに、ただ困ったように笑うだけなので、ベンは鼻をならしてそっぽを向いてしまった。
「気にしないで。父さんはスタンリー王子さまに期待し過ぎていて、いつも若い男の人を見るとああなの。私たちは少し離れて花を摘みましょう」
「え、ええ」
デイジーは、フィンの手を握って花畑の奥へと駆けた。二人は両親が見えないところで花を摘み始め、そのうちにどちらかというともなく、草に紛れてキスをした。それは二人にとって初めてのキスであったが、必然的なものであった。
二人は額を合わせたまま、睦言を繰り返す。デイジーはそこでフィンに訪ねた。
「ねぇフィンさん。あなたは不思議な人。優しいのにいつの間にか私の心を強引に奪ってしまうなんて」
「それは君も同じだよ。君もたおやかな花のようなのに、私の心を強く握って放さない」
二人は顔を見合わせて笑い合った。
「フィンさん。最近のお城は物騒だわ。この辺にまで兵が来てしまうのではないかしら? 二人でもっと遠くに逃げない?」
「ええデイジーさん。もう少しだけ私に時間を下さい。すべての準備が整ったら迎えに来ます。そしたら私の妻になってくださいませんか?」
「ええ? フィンさん。それが本当ならどんなに嬉しいことでしょう」
「本当です。約束は違えません。きっと、きっとお待ちください」
二人は手を繋ぎあって、夕暮れになるまで木陰で腰を下ろしていた。チェンパスの桃色の花が夕焼けに赤々と燃え染まる。二人はそれを目に焼き付けている。
夕日と心地よい風を浴びている時、デイジーを探しに来たベンに声をかけられ相当に慌てた。
ベンはあきれて深く溜め息をつく。仕事もせずに娘と手を繋いでいるだけの益体なし。そう思って、多少怒気を含んで言う。
「二人とも。もう暗くなる。仕事はお仕舞いだ」
そう言って強く娘の手を引く。デイジーは取り残されているフィンのほうに顔を向け、別れの挨拶も出来ずに急いで手を振る。ベンの怒りに任せて引き摺ってゆく力はそれほど強かった。
フィンは少し寂しそうにデイジーとベンの背中に手を振り、自身の馬を探すと城へと馬首を向けて去っていった。
ベンはフィンから離れると、デイジーの手を放してデイジーへと言う。
「あんな男はやめておきなさい」
デイジーは、強く捕まれていた手首を振って答える。
「あらどうしてよ? フィンさんのどこが悪いと言うの!」
「バカな娘だ。あんな仕事もしない穀潰し。お前が苦労するだけだよ」
「そんなことない。フィンさんの服の下には厚い筋肉が隠されているもの。きっと力仕事だってしているのだわ!」
それにベンは驚いて目を剥く。
「で、デイジー、お前、まさかあんな男に……」
と言われてデイジーは真っ赤になった。別に服の下を見たわけではない。父親に要らぬ想像をさせたくなかったのだ。
「ちょっと! 勘違いしないでよ! フィンさんは紳士よ。服の上から触っただけ!」
そう言われてもベンは疑いの眼差しを強くするばかり。そして溜め息をついて言った。
「ともかく、あんなものは、この夕焼けと同じだ。今はポカポカして暖かいが、やがて暗くて寒い夜を連れてくる」
「なによ。私はフィンさんが夕焼けでもいいわ。すべての民を照らし、晩餐の喜びを教えてくれる。フィンさんもそんな人よ……」
ベンは娘の世間知らずに、またもや深く溜め息を漏らすのだった。
◇
その頃、宮殿の奥──。王妃の部屋である。そこには薄絹のカーテンが幾重も垂れており、芳香漂う煙が舞っている。
暗がりのベッドの上に王妃、さらにその上にのし掛かるように宰相。二人はその姿勢のまま頭を交えて密談していた。
「王妃さま、もはやスタンリー王子の権限は大きく削がれ、ただの飾りです。宮中はあなた様の御子、アローン王子派ばかりです」
「ええ。それでも公爵や王弟たちは未だにスタンリーを担ごうとしているわ」
「ですから、スタンリー王子から命じさせるのです」
「なんと?」
「公爵は長らく都に滞在している。激務に忍びない。しばらく領地に帰り静養するようにと」
「ふふ、なるほどねぇ」
「王弟殿下には、軍事を司る激職に就くべきではないと言わせ、名誉職のスタンリー王子の教育係にするのです。さすれば公爵や王弟殿下の握っている都の兵権は王妃さまの元に帰ります」
「それはいい。それからアローンを王太子に据えてスタンリーには低い役職でも与えてひっそりと暮らさせればいいわね」
「その通りです。スタンリー王子は、ただ優しいだけのお方。担ぐものがいなければ犬のように従順になるでしょう」
「ふふ、悪い男ねぇ」
「その悪い男の子供が王になるのです」
「ほほほ。アローンが玉座につけば、もうこの国は私とあなたの思うがままよ」
二人は顔を見合わせて笑い、密事を続けるのだった。
◇
それから数日。デイジーの元へフィンの訪れはなかった。デイジーは仕事の最中も上の空で、城のほうを見たり、ため息をついたり。
ベンはそんなデイジーの肩に手を添える。
「と、父さん」
「またあの男のことを考えているね、デイジー」
「と、父さんには関係ないわ」
「見なさい。言わんこっちゃない。あの男の気まぐれだよ。今までは何度と運んだ足がパタリだ。仕事もせずに、うろついてる遊び人なんだ。気の毒だが、あの男は……」
「そんな! フィンさんに限ってそんなこと……!」
そんなやり取りをしていると、ベンの知り合いなのだろう、一人の男が農具を持って畑仕事にいく途中だ。彼は立ち止まってベンへと声をかけた。
「よお! ベン!」
「なんだ、ジャックじゃないか。畑仕事か?」
「そうだ。それより、お前さん知ってるかい?」
「なにをだ?」
「かのスタンリー王子は王妃と宰相の策略によって、宮廷の警護役人に命ぜられたそうだ」
「な、なに? 何故そんな低い役職に?」
「そこよ。王妃はスタンリー王子が煙たいのよ。国王陛下の病状がおもわしくないのを利用して、自分の権利で息子のアローン王子を王太子に据えたのだ」
「ま、まさか、そんな……」
ベンは驚きのあまり、膝を落としてしまった。ジャックは気の毒そうに言う。
「まったく。この国も終わりだよ。王妃と宰相はやりたい放題。アローン王子だって、陛下の子じゃなく王妃と宰相のただれた関係で出来た子だって噂もあるくらいだ。他国は混乱を見逃さないだろうとの噂だ。戦火にさらされる前に、さっさと隣国にでも逃げちまったほうがいいのかもなぁ」
「ああ、そんな……」
ジャックはベンの落胆を見てはおれず、農具を携えて畑のほうへと行ってしまった。
デイジーは、ベンを抱えて家の中へと入った。
それは、ベンのクロウバ家だけではない。国全体が重苦しい雰囲気となってしまった。
デイジーは、フィンが最近来なくなったのは、きっと城中が混乱しているからだと思った。
◇
そして、しばらく経ったある日。宰相はいつものように王妃の部屋で密事に耽っていた。王妃は甘い声で囁く。
「まったく、上手く行ったわね。アローンは王太子。スタンリーは僅か十名の部下しか持たない宮廷警護役人。これでこの国は我々のもの」
「はっはっは。実質私は王だな。スタンリーも力がなければ恐れるに足りぬ」
「あなたの言う通り、あんなものただニコニコしている優しいだけの男よ。やっぱりなんの刺激もない国王の息子だわ」
「ヒヒヒ。その通り」
そんな二人の楽しんでいる中、侍女が慌てて薄絹のカーテンの裏からの声を掛けてきた。
「お、王妃さま、王妃さま」
「なんだというの? 今は宰相閣下と政治のお話をしているのよ。控えなさい」
「そ、それが、警護役人の王子さまが……」
「はあ?」
ツカツカと靴を鳴らす音がいくつも聞こえる。王妃と宰相は慌てて服を着用しようとするが、もつれて袖が通らない。
そこに警護役人であるスタンリー王子は無遠慮に入ってきた。
王妃はスタンリーを指差し叫ぶ。
「こ、これ、スタンリー! 無礼にもわらわの寝所に足を踏み入れるとは! 誰ぞある! 近衛兵を呼んで早々に刑場で処刑させよ!」
しかし、侍女たちはスタンリーの部下によって取り押さえられて急を告げることが出来ない。
スタンリーは、優しい顔のままで言う。
「いえいえ王妃さま。私は警護役人として賊を追っていただけなのです。なんでも宰相閣下は賄賂を受けているとの話を聞いたので調べるためにここに来ました。すると王妃さまの苦しそうな声が聞こえたので賊に命を狙われていると思い駆け付けて見ればこの有り様です。苦しそうな声は密事で漏れる息だったとは。王妃さまは宰相閣下とただならぬ関係にあった。国王陛下を裏切る国家反逆の現行犯です。お前たち、この罪人を捕えよ!」
「はい!!」
ぞろぞろと嬉しそうな顔をした兵士たち十名が王妃と宰相を取り押さえる。王妃は威圧するように叫ぶ。
「無礼もの! 私はアローン王太子の母ぞ! この高貴な身に触れるでない!」
しかし兵士たちは笑顔のまま答えた。
「我々は任務を遂行するだけです。大人しくなされよ」
両手を押さえられた王妃はどうにもならないと、真っ青になりながらスタンリーへと懇願する。
「せ、せめて服を着用させておくれ!」
その通り、王妃と宰相は一糸まとわぬ姿だった。スタンリーは腕を組んで考えてから答えた。
「なりませんな。警護役人の権限を以て命じます。王妃と宰相はその姿のまま連行します。王妃ザラ・コルドオフと、情夫セオ・バウボアを連行せよ!」
そう言って兵士へと合図をすると、兵士たちは喜んで裸の二人を引き摺りながら大臣たちの控える大広間を通り、取調室へと連行した。
大臣たちは裸の王妃と宰相を引き連れる王子の姿を見て思った。王子は本気の改革をするのだと。
慌てて一警護役人に全員が平伏したのであった。
◇
それから、ひと月。ベンは笑っていた。ただ、ただ愉快だった。
なにしろ、スタンリー王子は宮廷の警護役人という地位を利用して、王妃と宰相がいる部屋に十名の部下とで押し入り、王妃と宰相を捕らえた。
そして、すぐに転進して王太子であるアローンも押さえてしまった。
調べれば、アローン王太子は王妃と宰相の二人の子であったらしく、すぐさま王太子を廃された。
宰相不在となったために、王弟を宰相代理、公爵を呼んで議長代理とし、機能していなかった議会を招集した。
国政は正常に戻り、議会はスタンリー王子が宮中を正した功績を推し、王太子に推薦した。
スタンリー王子は正式な手順を踏んで王太子へと指名されたのである。
それから宰相と王妃は処刑となり、アローン王子だったものは、平民に落とされ、田舎へと追放させられた。
「王国に平和が戻ったか」
ベンは嬉しそうにお茶を飲む。その味は格別であった。そして、デイジーのほうを向いて話しかける。
「なんでもスタンリー王太子殿下は、民間から妃を娶るそうだよ。なんとも国民に沿った殿下さまじゃないか。デイジー、お前にもチャンスがあるかも知れないよ」
するとデイジーはぷうっと頬を膨らませる。
「なによ。私はフィンさん一筋ですからね! 王太子さまがその気で来ても追い返してしまうから」
それにスタンリーを尊敬するベンは眉を吊り上げる。
「無礼な! 殿下さまがおいでになってお前を見初めたら無理にでもお前を貰ってもらう。それにフィンだと? あの穀潰し。あんなのが来たらワシが追い返してやるわい!」
二人は睨みあった。すると窓に夕日に輝くものがある。デイジーは目を細めてそちらを見やると、その姿は馬に乗ったフィンだった。
久しぶりのフィンの姿にデイジーは目に涙を浮かべて叫ぶ。
「ああ! フィンさんだわ!」
そう言って、家の外に飛び出した。
ベンは怖い顔をして、近くにあったすりこぎを掴むと、手の上でポンポンと弾ませる。
「まったく、あの坊主。しばらくデイジーをほったらかしにしてたくせして、夕食時に人の家に訪れるとは、ますます気に入らん。少し脅してやるわい」
と、デイジーの後で家を出た。そのデイジーは、家の前で立ち尽くしているのでベンは声をかけた。
「どうしたデイジー。あの男は?」
「おかしいわ、父さん。フィンさんたら、金の宝冠をかぶって、後ろにたくさんの王国の旗を持った兵士を連れてるの……」
「はあ? どれどれ」
ベンもデイジーに続いて目を細めて、フィンのほうを見る。その出で立ちは王太子しか許されない金の宝冠と、真紅のマントである。その宝冠が夕日を浴びてきらり、きらりと輝いている。
フィンは二人に気付いて馬上から手を振る。デイジーもそれに手を振り返した。
◇
あとは周知のことなので、これ以上は多く語る必要もあるまい。
やがて、スタンリー王太子は国王陛下より御位を譲られ、20歳で国王の座に就いた。
チェンパスで染め上げられた赤き鎧に身を包み近隣の小国を平らげるその輝く姿は『夕焼けの英雄王』と呼ばれ王国の中興の祖となった。
彼の近くには、民間から上がった美しく民の心をよく知る王妃が常にいたと言われる。
彼に近しいものは、ミドルネームであるフィンと親しんで呼んだ。
スタンリー・フィン・クロード・アイルフィールドの若き日の物語。