母ひとり、娘ひとり
(どこに行ったんだろう)
タブレット端末を憂いの眸で見つめた。
30年前の2月14日に発生し後に、世間に衝撃を与えた、
オトギノユウエンの通り魔無差別殺傷事件。
新島家の娘婿が起こした、無差別殺傷事件。
犯人である新島知也が起こした悲劇だと思われがちだが
あれから
ドミノ倒しの様に崩れていったのは、新島財閥という存在だった。
世間に衝撃を与えた、
オトギノユウエンの通り魔無差別殺傷事件。
そして明るみになったのは、それだけじゃない。
政財界の裏社会の闇と派閥、政治家達と裏社会の繋がり。
新島財閥と、その当主である人物が
それらの仲介の番人だと明らかになったからだ。
新島家と、
裏社会を交えた癒着のある政治家や国会議員が
芋づる式に名を連ね、マスメディアに追われる日々を送っている。
それは、今も色褪せない。
特に裏社会での
最高峰の権力者と謳われ、仲介役を担っていた
新島財閥という偉大な国家権力の隠し玉が明るみになり
新島家が政治家に崇め奉られた存在である事、
その当主が、政治家から献上された権力と金を使って、
未解決事件を闇に葬った事件があることは
世界に衝撃を与えていた事は言うまでもない。
娘婿である彼は、妻と獄中で離婚。
あの凄惨な通り魔無差別殺傷事件を起こした、
人間の裏の顔を知らなかった、鳥籠の箱入り娘は離婚を拒んだ。
けれど、家の権力を保ち守る為に遂行された。
その後、その妻である長女、
マスメディアに晒された母親は精神を病んだ、とされている。
それでも欲深い新島家の当主は意気消沈する事もなく
その欲望に染まった野心家なのも手伝って、血気盛んに
再び、裏社会での新島財閥の復刻を目論んでいるとか。
(水晶に例えるならば、天秤に掛けてみて
欲望という中身のない国家権力が泡のように軽く
無差別殺傷事件によって命を奪われた人々は
重鎮のように重いのだ)
だが。
(____けれど、どこに行ったんだろう)
長い月日が経てど、
彼にはひとつだけ気がかりがある。
(もう一人の娘は?)
その疑問符だけは、ずっと拭えない。
新島家には、娘が二人いた。
その次女娘と唯織は同い年で、幼馴染だった。
箱入り娘で両親と財閥に依存的な姉とは違い
裏社会に生ける新島家の生業を疎ましく感じ、
両親と姉と距離を置いていた妹。
普通の暮らしを、
平凡な少女になってみたい、そんな経験をしてみたい。
そんな幼馴染は、
唯織には新島の鳥籠では敵わない小鳥に見えた。
能ある鷹は爪を隠す、新島家の毒牙に従うふりした、
健気で献身的な無垢な少女。
『私、高校を卒業したら、家を出るつもり』
と、常々口にしていたけれど、
新島財閥を誇りを持つ父親から離れる事は出来ないだろう。
(あの日と関係があるのは、違いないけれど………)
『お家を出ても、自立出来る様に今のうちに貯金する』
自立心と家から離れたいという願望を持っていた彼女は
家にも両親にも、姉にすら内緒で16歳の誕生日が訪れた時に
待ち構えていたようにアルバイトを初めた筈だ。
彼女が、選んだ場所。
それが「オトギノユウエン」。
オトギノユウエンはひとつ、ふたつ離れた県外にある場所。
彼女が住んでいた場所からだと何時間も要する。
けれど実家に見破られては困るからと
往復何時間もかけて、アルバイト生活を送っていた。
親戚の子を連れて、遊びに向かった時に案内係として
謙虚に健気にスタッフとして働く彼女を見て驚いた記憶がある。
けれど、同時に納得した。
日陰に生きる事に喜びを感じる厳格的な父親が赦さない。
見つかった連れ戻し、手を回して顔見知りの政治家に
その場所を失くさせるだろう。
心優しい彼女は、悔恨の念を抱く筈だ。
グラスに注いだウィスキーの氷が溶けて、踊る。
琥珀色のグラスを見詰めながら、カウンター式のテーブルに
頬杖を就いた。
ペールブルーの夜明け前。
ただ父親は、次女の真意を見透かしていたようで
自身や妻、新島財閥には忠実に生きる長女とは正反対に、
家や家族に背く姿勢の彼女を、嫌悪感を覚えていた噂がある。
現に長い月日が経過しても
彼は娘を捜す気はないまま、行方不明のまま。
あの日、事件現場に居合わせて居たのかは不明だ。
当時、事件の混乱の中で、
実は彼女自身も
義兄が起こした惨劇に巻き込まれていたのではないか。
あの日、忽然と姿を消したのならば、辻褄が合う。
現実に、神隠しのように、行方は分からない。
何故、あの時、母親という立場を選んだのだろうか。
他の立場も選べただろうに。
『ママ』
『あら、ごめんなさい』
パソコン越し、リモートワークの語学講義中。
小さな少女が母親にすがるように抱き着いて、
思わず複雑な思いになる。
少女の表情が、
怯えと子供離れした大人の哀愁を佇ませていたからだ。
きっと5歳くらいだろうか。
紛争が過激化し、避難民として隣国に降り立った母娘。
「いいえ、こんにちは」
そう言いながら寧ろ、
柔和に頬を緩めて微笑み、優しく幼子に手を振る。
口許を押さえ「懐かしいわ」と思わず、口にした。
『先生は、お子さんいるんです?』
「はい、女の子です」
本音を吐いてしまえば、ずっと母親像が分からない。
否、母親という人が分からないというべきか。
瑠奈の母親は、依存心の強く脆く弱い人、という印象だ。
常に弱さを見せている人だとでも言おうか。
ひとりでは何も出来ない、誰かに依存しないと生きていけない人。
支配的な父親にとってはよい操り人形だったのかも
知れない。
箱入り娘のお嬢様で、
大人に成り切れず、自我が通らなければ
喚き散らし、その身勝手さは時に夫すらも困惑させる。
そして、己の自我を通す。
心を許していると言えばそれまでだけれども、特に
夫に対して深く依存心を抱き、娘達にはとても嫉妬深い。
正直に申して
娘達には興味の一欠片も無かった。
自身が生まれた意味は、父親を繋ぎ止める為だと思う。
母親が興味がある事と言えば
「お父様の機嫌を損ねたの、どっちなの?」
お決まりは母親の口癖。
その時にしか話しかけられた記憶はない。
夫が不機嫌だと娘が何かした___と決め付けるのだ。
そして、夫が娘達に構うと不機嫌な溜息を付いて
軽蔑の眼差しを浴びせ、耳許でこう囁くのだ。
『子供の癖に、媚び諂う事を覚えたわね』
『穢らわしい、卑しい子供だこと』
子供の頃は言葉の意味が分からなかったが、
憎悪と嫉妬を抱いていたのだろう。その視線は怖かった。
まるで
自身の玩具を取られて拗ねる子供のように。
そして
言葉の暴力の後は、自身を傷付けて、父親の目を惹かせる。
姉か、自分自身に傷付けられたのだと。
泣いてすがる、
その表情の裏は勝ち誇る微笑を隠して。
傷を受ける代わりに寄せられ、手に入れられたものに陶酔する。
その母親の背中を見て育った、
クローンのような性格を持ったのが姉だった。
姉は母親に責められるとしくしくと静かに泣き
「里奈じゃない、悪いのは瑠奈よ」と断言するので
姉と母親に騙された父親にいつも怒られていた。
(私は、二人みたいにはなりたくない)
(___これを言葉にするのなら、なんと呼ぶのだろう?)
同族嫌悪、女性不信。
パソコン作業をしながら、芹香は己を嘲笑う。
母と姉は同じ人格。同じ生き生き物。
成長にするにつれ、彼女達の仕草のひとつひとつに対して
気が狂いそうになったのは数知れず。
そんなものだから、母親からなにかを
貰ったという言葉は、夢物語に過ぎない。
(____母親とはなに?)
琴音と暮らし始めてから、母親というものに
戸惑いを覚え、母親像とはどういうものか、母性とは何か
インターネットで調べて、本を読みふけてばかりいたか。
ただ
所詮は、自身も箱入り娘の世間知らずなのだ。
無慈悲に、無条件の愛情を注ぐ聖母等、珍しい事を知った。
暴力や暴言に支配する母親、
育児を放棄している母親。
子供に嫉妬する母親、と母性も、母親像は様々なのだと
思い知った。
それらを知り、己の母親の姿を重ね
よく考え込んでは何処か反面教師の根性が生まれていく。
けれど自信はない。
“母親”というものが分からない。
演技は出来ても、そのものになれる事はない。
意識し過ぎてしまうと駄目だと、
不安を与えないように
やり過ごすのが精一杯だった。
どう振る舞い、どう接していけば、よいのか。
今では、母親を演じながらもありのままの自身を消さず、
彼女の母親にはなれなくともいい、そんなものはおこがましい。
それに成りたくてなれるものではないから。
その代わり、彼女の人生に母親のふりをして演じ見守る。
娘を尊重しながら、自身は自身らしく生きればいい。
それからは戸惑いながらも
自由奔放に娘と接する様になれたと思いたい。
基本は心優しく時に厳しく、相手を尊重する。
そして娘が何かに迷った時は、静かに助け舟を出し、
後腐れなく風のようにさればよい、そんな話だと思いたい。
けれども、たったひとつだけ。
無自覚な、無意識的な、なにかの影。
三面鏡の如く新島家の人格が写らないようにと
幼い頃からドキュメンタリー、
本を経て視聴を経て人間性を育み人間性の教育、というのを
厳しくし過ぎてしまった反省している。
そして琴音に対しての、思いは強くなる。
____この娘が、望むものは、叶えてあげたいと。
それが誘拐犯としての自身に出来る、
唯一無二の償いなのだと。
この贖罪を抱えた心で娘を見ると痛む時は頻繁にある。
そして謝りたくなる衝動に駆られて、抗い抑えている。
新島瑠奈の片鱗を見せてしまったら、其処でこの生活は終わる。
迷惑をかけ、傷つけるのも、嫌だ。
嘘を付き続けるのは、身勝手で美徳の罪なのかも知れない。
それでも、この娘の為ならば、命懸けで生きていく。
それが、運命なら。
夏なら陽が沈むのが遅く、5時
冬ならば早いので1時間遅い6時に、
塔から独特のメロディーが町に響く。
学校の授業が終わるのが4時過ぎ。
塾のある日は、学校から然程さほど離れていない、
塾にそのまま向かい、同じマンションに住む親友と帰宅する。
塾の勉強時間は2時間と決められているそうだ。
なので岡野家の門限は基本的に6時。塾のある日は7時前と決めて
いるがたまに帰らない時がある。
琴音は品行方正なので、真っ直ぐ帰り、自宅勉強に勤しむ。
娘が帰らない現象を
芹香は「例外の事変」と呼んでいる。
特に夕飯の支度を終えた後が知らせだ。
おかずの仕込みを済ませて、羽織り、外を出た。
紺色の世界。
満月と星々を見詰めながら
家とは反対方向にある民家に向かって歩いていく。
日本屋敷の玄関と門に、
わらわらと人だかりが出来ていた。
親と子供が混雑化している中で
制服を着ている子、ロングヘア、と視点を当て目を凝らす。
心配を他所に呑気に玄関から現れた少女に、芹香は手を振る。
「お母さん」
「おかえり、お疲れ様」
帰ろうか、と微笑みながら告げると
すかさず、初老の女性が深々に頭を下げながら
小走りに此方へ此方に訪れた。
「岡野さん、
申し訳御座いません。今日は数学メインだったのですが
主人が熱血指導になってしまって。お時間が延びてしまいました」
「………いえいえ、頭を上げて下さい。
此方こそ、いつも娘がお世話になり、有難う御座います」
頭を下げた。
夫人は岡野家の門限事情を知っているからこそに
尚更、申し訳なさそうに詫びていたが、
母娘で夜散歩出来るのが良いです、と微笑んだ。
人間関係は浅い。
顔見知りと言えば同じマンションに住む、親友家族しかいない。
(あまり、心中を明かしたくない)
自身の行動や振る舞いに自信はない。
リモートワーカーという職業を盾にして
家に籠もっているタイプだ。
それに父兄やママ友関係という未知の世界そのもので
当たり障りなく娘と暮らしたい芹香にとっては避けたい事柄。
人付き合いが苦手で、人見知りがち、という事で片付けている。
それに芹香がもっとも恐れていること。
現実はスリリングで予測不能だからこそ、情報が漏れて、
いつ自身の素性が明らかになってしまうか分からない。
そうなると全てが暗転するだろう。
だからこそ、人付き合いは深くならぬよう
そつなくこなしながらスルーして過ごしていた。
思春期に入り、
多感で過敏な時期である現在は、
絶対にこの罪を、自身が築いた偽りの城と家族という事を
琴音の耳には挟みたくない。
そして
(積み上げてきた、この平穏に、横槍を入れないで)
矛盾というものは多感な年頃は、特に気になってしまう。
これらが土台が出来ればいいな、と思います。
よろしくお願い申し上げます。