女装してみた
ああ、これは夢だなとすぐに分かった。
だってそこに広がる風景は、日本で暮らしていたボロアパートで、更にリビングでぼーっとテレビを見ている大きな背中があったから。
声をかけようとしたが、うまく声が出せないようだった。声が出ないならばと、手を伸ばしてみる。指先が震えているのをドキドキしながら見ていた。
しかし、その指先が触れる前にこちらに気づいたのか、首だけで振り返った。
『おかえりーお疲れ様。』
そう言ったのは間違いなく夫だった。
今自分がどんな顔をしているのか全く想像もできない。私自身発言しているような感じもしないが、夫は会話をしているように相槌を打ったり、笑ったりしている。
『えぇー?またママ変なことに巻き込まれちゃったねぇ…』
そうやって苦笑する姿を見るのはどれくらいぶりだろう。少し困ったように下がった眉毛が、可愛らしくて大好きで、その顔が見たくて悪戯したり、サプライズをしたりしたことを思い出す。
テレビを消して、体ごとこちらを向いた夫は、信じられないくらい優しい顔をしている。
そうだ、こんなふうに笑う人だった。
ずっと会いたかった。
何で置いていっちゃったのって縋りつきたかった。
抱きしめて欲しくて動いたら、掌をこちらに向けられ、軽く首を左右に振られた。このままで居ろということなのだろうか。
そこにいるのに近付けなくて、悲しくて、話したいこともたくさんあるのに声が出なくて、流れる涙を止めることができない。
夫はまた困ったように笑っている。
『…ママなら大丈夫だよ。』
何が大丈夫なの?大丈夫なんかじゃない。愛も望もまだ小さいよ。パパがいなくて寂しいよ。一緒にこれからの2人の成長を喜びたいよ。
なのにどうして、そんなこと言うの。
どうして、いなくなっちゃったの。
手を伸ばせば、抱きしめられそうな距離にいるのに、触れるどころか声すら届けられない。
『大丈夫。』
視界がどんどん白くなっていく。
夫はずっと笑顔でこっちを見ているが、どんどんその姿が薄くなっていってしまっている。
待って、行かないで。悲しいことばかりを伝えたいんじゃない。もっとたくさんいろんな話をちゃんとしたい。だから待って行かないで!
「ヒカリ様!!」
大きな声に驚いて目を開けた。
そこにいたのはシリウスさんだった。肩を両手で掴まれていて、相当揺さぶられたのか、セットしていたはずの前髪が顔にかかっている感覚がした。
やっぱり夢だった。
夫がまだ目の前にいる気がするのに、実際はシリウスさんが苦痛の表情を浮かべているだけだ。
どうやら私は帰りの馬車で眠ってしまっていたらしい。
馬車はすでに魔術師団の寄宿舎まで到着しており、愛と望は先にアンネさん達が連れていったそうだ。馬車の中でシリウスさんと2人きりだった。
そういえば、個室で男女2人きりってまずいんだっけ?
ぼんやりとしたままだったが、だんだんと目が覚めてきた。
「すみません、降りなきゃですね。」
そう言って立ち上がろうと体を前に倒した拍子に何かが床を濡らした。
よだれが垂れてしまったか!?と慌てて口もとを抑えたが、よだれではなく、涙が落ちたようだった。
私はどうやら泣きながら寝ていたらしい。これをバッチリ見ていたからシリウスさんは苦痛の表情だったのだろう。変に気を遣わせてしまったかもしれない。今更かもしれないが、このまま顔をあげようか迷っていると、目の前にシリウスさんがしゃがみ込んできた。
急に近くにシリウスさんの顔があったので驚く。何をされるのかと思ったら、シリウスさんは指を振り、魔術をかけてくれた。
どうやら寝ていたし、泣いていたしで、化粧がぐちゃぐちゃになってしまっていたようで、綺麗に戻してくれた。
「あー…ありがとうございます。」
「いえ。じゃぁ、行けますか〜?」
それ以上は何も触れてこなかったので助かった。
どんな夢を見ていたか、はっきりと覚えている。しかし、それを伝えたくはなかったからだ。伝えたところで、どうにかなる話ではない。
小さくため息をついて馬車を降りた。
シリウスさんはミルドレッドさんのところに向かうそうで、部屋の前まで送ってもらって別れた。
部屋に入ると、アンネさん達がパーティーのようなものを準備してくれていたようだ。衣装部の皆さんもまだそこにいてくれて、一緒に食事をすることになった。
皆、口々に労いの言葉をかけてくれる。
いつもよりも大きなテーブルを用意してくれていたので、大人数で食事することができる。
その気持ちが嬉しかったし、賑やかで気が紛れて良かったと思った。
食事をして服を汚すわけにはいかないのでパッと着替えて席について、食べ始める。
「チャーリーさん、ドレス褒められましたよ!流石はチャーリーねって!!」
どうしてもチャーリーさんに報告したかったので、話せて嬉しい。
もちろん、衣装部の方全員に改めてお礼をさせてもらった。チャーリーさんは当然よ!と胸を張っているし、アイリスさんも、マリーさんも嬉しそうにしてくれている。
…ジョンさんだけは不服そうですけどね。あれからジョンさんは私に女性らしくヘアセットをするにはどのようにするのか、髪型はもちろん髪色までも様々なパターンを考え、ウィッグを何個も持ち出したそうだ。女性への執念を感じる。
もう一旦相手にするのやめようと食事を進めながら、王妃様からパーティーのお誘いがあったことを思い出した。
「あの〜チャーリーさん…王后様がですね…私のお披露目パーティーを開きたいとおっしゃってまして…」
「なんですって!?いつよ!?」
ついさっきまで、優雅にマナー完璧で食べていたチャーリーさんが、ガシャンと大きな音を立てて慌てている。
いつになるかはまだ分からないが、王后様の予定に合わせて開催されるであろうことを伝えた。
基本的に王族の予定はギチギチに詰まっているそうで、予定を組み直そうとすると時間がかかるらしい。
チャーリーさんは早くても一月後だろうと当たりをつけた。
「またこれ着てもいいんでしょうか?」
王后様もお気に召したようだったし、私も気に入っているので、また着てもいいのであればこれがいいなと思う。黒い方でもいいけど、どうするのがベストなのだろうか。
「そうねぇ…悪くはないんだろうけど、華やかさは足りないわ。」
昼のドレスと夜のドレスでは形が大きく異なるらしい。簡単に言えば、夜のドレスの方が露出が増えるそうだ。
昼夜どちらにやるかは特に言ってなかったが、どうして夜用のドレスについての話になったのだろうか。
私が考えていることを察して、マリーさんが細く説明してくれた。
昼間の予定を動かすよりも、夜の方が比較的に融通が効くそうだ。昼間はやらなければならない公務が多いのだとか。確かに、普通に皆昼間働いてるもんね。
しかし、夜用のドレスを着るということは露出が増えてしまうということだ。正直それはあまり好ましくない。30歳の肌はきちんと手入れしていたってアラが目立つものだ。
しばらく女をサボっていた身としては少々荷が重い。
「ねぇ、そのドレス、アイリスとマリーに作らせても構わないかしら。」
チャーリーさんは真剣な顔付きで提案してきた。それは私は構わないけど、2人は大丈夫なのだろうか。
突然指名されたアイリスさんとマリーさんは対照的な顔をしていた。アイリスさんは顔を高揚させて、目を輝かせている。任せてもらえることが嬉しいようだ。マリーさんは自信なさげで、顔を青くさせていた。
チャーリーさんはそんな2人をチラリと見ると、話を続けた。
「2人とも基礎的な技術は申し分ないわ。アイリスは着眼点が面白いから、きっとあなた好みのドレスをデザインすることはできるわ。ただ、細かい作業はまだまだ甘いわね。その点、マリーはきっちりしているわ。丁寧で更に仕事も早い。マリーの場合は頭が硬いのが難点ね。一人一人はまだ一人前とは言えないけど、お互いに持つ才能を補い合えると思うわ。」
チャーリーさんは、きちんと2人の性格も分かっているようで、いい上司だなーと羨ましく思った。
俄然やる気のアイリスさんと、やはり困惑気味のマリーさん。アイリスさんはマリーさんに頑張ろうと声を掛けるものの、不安は拭えないようだ。
更に、私は少し気になるところがあった。
「すみません、私のドレスって、普通のドレスとは違うと思うんです。私、お二人が作ってくれるドレス、見てみたいし、着てみたいと思います。
だけど、異質なドレスを作ってもらうっていうのは、お二人の成長の妨げになったりはしないでしょうか?」
きっとこれから衣装部としてたくさんの衣装を作っていくだろう。その時はこちらの文化に則った衣装を作るだろうと思うのだ。そうなると、私の好きなドレスは異質なドレスとなる。もし、変なドレスを作ってもらうことで、2人の技術に変な癖がついてしまったり、今まで培ってきたものが変化してしまうのではないかと心配になったのだ。
しかし、チャーリーさんはむしろちょうどいいと言ってくれた。
奇抜なデザインに触れることで、マリーさんの視野を広げることができるかもしれないということ、また、男性らしくも女性らしくもあるドレスということで細部までこだわり抜いて作らなくては形にならない。そこでマリーさんの自信をつけたり、アイリスさんの技術の向上を図りたいのだそうだ。
そこまでチャーリーさんが考えていたのをマリーさんは初めて知ったようで、口を開けてチャーリーさんを凝視していた。
「…私、2人にお願いしたいんですけど…いいですかね…?」
2人、というか、マリーさんのことを覗き込んで見る。アイリスさんも、マリーさんの返答を不安げに待っていた。
「…やらせてください!」
マリーさんは、覚悟を決めたように力強くそう言ってくれた。アイリスさんはバンザイして喜んでいる。
チャーリーさんもなんだか嬉しそうだ。私も何だかホッとして、にやけてしまう。パーティーがより一層温かなものになっていった。
「あああああああああ!!もう!!また!!俺は仲間外れ!!俺の意見はまるで無視!!ヒカリ様を女の子にしたい!!女の子だけど!!女の子なんだけどおおおおおお!!!!」
たった1人、ジョンさんを除いて。
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