第9話 奇人屋敷
丘を下り、街道を横切ると、すぐ西の森でした。ひとりの少年騎士といっぴきの老犬は、この薄暗い夜の森へ踏み込んで行きました。サイハテは、森へ入るとすぐ走るのを止めなければなりませんでした。森へ吸い込まれるように消え入った靄はもう今は完全にその姿を消し、つい先までは微かに残っていた足跡――暗がりに揺れるその残りかすも、これ以上見つけることはできませんでした。ハカナイは、眠たい目をこするように一度身震いすると、サイハテの手をすり抜けて地面に下り、サイハテに先立ってヨタヨタ森奥の方へ歩いて行きました。サイハテは彼に続きました。
西の森自体はさほど広いとは言われておらず、レンジャーたちはここは早々と通り抜けて、西の山の方やある者は深い苔生す森へ入ってゆくのでした。奇人館と呼ばれる興行師オイトマ伯の住み処は確かにこの西の森の中にあって、たまに街の住民たちの、そこには骨董品や珍品のコレクションがあるのだとか、いや恐ろしい拷問部屋があるのだとか、噂話に上るのでした。
実際に歩いてみると、いかに浅い森と言っても、さすがに王都のあちこちにある公園や私有の森とは違い、暗くて湿っぽく、見慣れない木々があるわけではありませんでしたが丈高い草やツタで森中が覆われ歩き回るだけで疲れてしまいそうでした。しかし樹冠の間から十分に星が見え、月影に照らされた森でしたから迷うことはありませんでした。それに先ほどから犬のハカナイが、なにかにおいを嗅ぎつけたかのように、あるいはサイハテには見えない足跡を追っているように一心に彼の前を先導して行っているのでした。今は夏の夜の涼しい風が時折森を吹き抜けていました。
間もなくその風に乗って、サイハテにも、どうも食べ物らしいにおいが運ばれてくるのがわかりました。
「野菜のスープだろうか? いいにおいではあるぞ」
もうすぐ向うの木々の連なる間から、窓明かりが漏れてチラチラしているのが見え始めました。何人か、かなり大勢の人たちがピアノに合わせて楽しげに歌う声も森の奥から微かに聞こえてきていました。
[奇人屋敷・世にも奇妙な奇行士オイトマの見世物館]
と記してある古びた木の看板が、先明かりを漏らしていたコナラの木々のひとつに掛けてありました。ぽとむ、とドングリが落ちました。もう館は目の前にその姿を見せていました。
意外にもひっそりとした洋館風の建物で、三階まで大きな四角い窓がぎっしり付いており、どの窓にも明かりが点っていました。今はさっきまで聞こえていたピアノと合唱もぴたりとやみ、静かでした。屋根のてっぺんにはいささか風変わりな風見鶏(金属製のようで、頭が三つか、四つくらいあるようでした)が、ギィコギコ……と錆びた声で鳴いていました。またぽとむ、ぽとむと、ドングリが落ちました。
ハカナイはもう立ち止まって、クンクン鼻をすするように小さく鳴いていました。サイハテは意を決して玄関の扉へと向かいました。するとまた、ピアノに合わせて、先と違う曲でしたが、陽気な合唱が始まりました。
「どうする? 中はパーティでもやっているのか? 今やこの館に乗り込むという雰囲気でもなし、ではなんと言ってここに入れてもらえばいいだろう。こうなると本当にあの乗り手とオイトマ卿は関係があったのかも疑問だ。あいつらは、もっと奥の苔生す森へ逃げたのかもしれない……。また歌が始まってしまったし、やはり歌の邪魔をするのはしのびない……」
サイハテがそう軒先で思案していると、中からひとり太っちょの男が玄関を開けて出てきました。サイハテは一瞬身じろぎしましたが、全く男には敵意も見えませんでしたし、ハカナイも危険を感じる様子はなくずっとクンクン言ったままでした。
「よくお越し下さいました。お待ちしておりました」
と尻上がりの妙なアクセントで挨拶するこの笑顔の男こそ、あの噂の奇人オイトマ卿その人でした。しかしサイハテは、この優雅なヒゲのこぎれいな服装に身をかためた男が、本当に奇人であろうか、まこと貴人ではないのかと思うばかりでした。
「さあお越し下さいませ。私どものとこでは、とびきり優雅にこのセレモニー・ナイトを過ごし明かそうとしているのですよ。このひっそりとした森の控え目なわたくしの洋館で。とびきり素敵な出し物も用意してございますですぞ。もちろんデナーもですぞ。ささ、お越し下さいませ」
サイハテは入っていきました。ハカナイは足に纏わりつくようにしてついて行きました。
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サイハテは一階の奥にある、広い食卓の間に案内されました。先ほど外にいる時に聞こえていたピアノの演奏と合唱はいつやらやんでおり、大きなひとつのテーブルには五十人くらいの人たちが腰掛けて、ただ黙々とディナーを食べていました。豪華な盛り付けで七面鳥やらロブスターやら鯨肉やらがテーブルの上にたくさん並べてあり、客は好きな料理を好きなだけ取っては口にしました。サイハテは、食卓の上座で座る主オイトマの笑顔に、目だけは虚ろで寂しそうに、仲間からはぐれてしまったビー玉の様にくすんでいるのを見ました。
サイハテはおかしな気持ちでした。とてもおいしい食事でしたが、おなかが満たされません。おいしいので幾らでも入ります。食事はどこか別のところにたまっていくような気がしました。そうやってどんどん食べるうちに頭がぼうっとして、考えが浮かばなくなってきました。サイハテは時折ドングリの様なずんぐりしたお面姿の召使いが、ピエロのごとくくるくる回ってやって来ては、新しいメニューや空いたお皿を持ち運びしているのに気づきませんでした。ハカナイはサイハテの腰掛ける椅子の下で、じっとうずくまっていました。
「さあ皆様。そろそろお楽しみの見世物のお時間ですぞ。奥へ参りましょう。食卓の間を出て廊下を右に……ささ、わたくしが案内いたしますぞ」
皆はオイトマに続いて食堂からぞろぞろと出て行き、サイハテも立ち上がりました。くるくる回りながらお面をつけた召使いたちが、テーブルのすっかり空になったお皿を片づけに来ました。ひとりの足に、椅子の下からハカナイがかじりつきました。すると両手にお皿を山積みした小男はバランスを崩して、もう落としそうなお皿をぐるぐる回しながら、自身もサイハテの周りをぐるぐる回って、ようやくバランスを取り戻すと、他の者に続いてひょうひょうと隅の扉(台所でもあるのでしょうか)に消えていきました。サイハテは目が回ってしまい気持ち悪くなって、先行った客たちに続く前に、食卓の間の前にあるトイレに駆け入りました。
サイハテが吐き出したものは、黒っぽい霞のようなものばかりで、すぐにますます霞んで消えてしまいました。サイハテははっとして、さっき自分の周りでぐるぐる回っていたものはなんだったろう? と思いました。そのものの顔も、食べたものの味も思い出そうとするとぼんやりして思い出せませんでした。ただ今はサイハテの頭の中はもうさっぱりとしていました。
サイハテはトイレを出て、廊下を進むとすぐ、人の行列の最後尾に行きあたりました。列はずうっと廊下の端まで続いていました。「なんの行列ですか?」といちばんうしろの人に聞いても返事もありません。しばらくすると行列はごそっと進み、廊下の端の大きな扉の前にオイトマ伯が見えました。行列はまた止まりました。
「もうしばらくお待ち下さいねえ」
大きな扉には[上演中]の札が掛かっていました。
またすぐに、行列はごそっと減りました。サイハテもこの時に、いちばん最後に部屋に入ることができました。ハカナイがポツンとオイトマ伯の足元の、扉の影に座ったっきりあくびをして動こうとしませんでした。ハカナイの姿が扉の影になっていって見えなくなりました。扉が閉まりました。
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「さぁさぁさぁ! 紙芝居だよ! 紙芝居が始まるよぉ~!」
たくさん並べてある椅子にはもう観衆が腰掛けており、皆が皆部屋のいちばん奥の、風呂敷を纏った小さな老人の方を向いていました。老人は紙芝居の語り部でした。語り部はすぐに観衆の正面にある机の向うに周り、大きな古い額の紙芝居に隠れてしまいました。サイハテはいちばんうしろの列に座りました。
すぐに紙芝居は始まりました。語り部の朗々とした声が場内に響き、観衆からは笑いが絶え間なく漏れ始めました。すると間もなく紙芝居の中の人物がするりと絵の中から抜け出してきて、笑いながら見ている観衆のひとりを掴まえて、そのまま部屋の両脇にあるカーテン幕の片側にフッと消えてしまいました。紙芝居の中からは、次々と同じようなぬっぺりとした、真っ黒で羽の生えた人が出てきて、観客をひとり掴まえては、やっぱり両側の幕の向うへと飛び去っていくのです。彼らは全身真っ黒でしたが、くちばしの様なものが見え、足はなく、音もなく飛びかう生き物でした。目の前でこのようなことが起こっているというのに、観客たちは誰も気づかないようでした。誰も笑って紙芝居を見ているばかりでした。そうして、笑っている自分が黒い化け物にひょいと連れられていくのにも全く気づかず、笑い続けているのでした。サイハテには、なぜかそれが見えました。ただ、肝心――の筈の、紙芝居の内容だけは全くわからず、どこがおもしろいどころか、そもそもなんの話なのか、あるいはこれは本当に話なのかどうかもわからないのです。どんどん周りの観衆はいなくなって、いつやら全く人は消えてしまいました。笑い声だけが残照のように、しばらくサイハテの耳に残りました。
サイハテははっとしました。明かりの点いた部屋に、誰も座っていない椅子が元のまま並んでいる他は、サイハテと紙芝居の語り部しか残っていないのです。語り部はまだ朗々と芝居を読み上げ、サイハテはいつあの顔もない鳥のような化け物が飛び出してきて自分を掴まえ去るのかと不安になりつつも、動けませんでした。紙芝居は全く話もわからないままに終わりました。ですが語り手は、真っ正面後方の席にじっと座っているサイハテに気がついていないようでした。
「次お待ちのお客様方どうぞぉ~!」
語り部が芝居そのままの朗々たる声で呼ぶと、後ろの扉が開いて、次の観衆がどっと入ってきて、またサイハテの周囲に座り、先と同じ紙芝居が始まりました。
同じでした。黒い姿が、また次々と人々を部屋の奥のカーテンの向うへ連れ去っていくのです。サイハテは見かねてとうとう、隣の人に小声で話しかけてみました。
「もし、すいません……あなたには何が見えます? もし……」
しかし、誰も笑ってばかりで、サイハテの声に耳を貸すものはありません。そうこうするうちに、前の人も、先の隣の人もやっぱりカーテン幕の向こうへ連れ去られていきました。
「次お待ちのお客様方どうぞぉ~!」
「だめだ……逃げようにも、扉の向こうにはオイトマがいる。立ち上がってあのカーテンの向こうを見てみるか? いやこうなったらあの語り部と一騎打ちするよりあるまい……! だがそうなれば敵方は幾らでも加勢が駆けつけるだろう、あの紙芝居の中から……!」
サイハテは、この部屋の異常に気がつきました。最初彼が入った時よりも、明らかに天井が高くなっているのでした。そして、伸びた部屋の壁のあちこちに、やはり来た時気づかなかった絵画――肖像画が、出鱈目に散らばって貼り付けられているのでした。肖像画の顔もなんだか出鱈目のようなものばかりでどれもこれも歪んだり引きつったりしていましたが、どうもサイハテはこの肖像画の人たちを見たことがあるように思いました。それは、ここに連れられてきてさっきまで一緒に芝居を見ていた人たちでした。さっきサイハテが話しかけた隣の人に似たものもありました。彼はぞっとしました。どの顔も実物より随分ひどくめちゃくちゃな顔になっていましたが、それでもどれも紛れもなくその人そのものの顔だったのです。そして、どれだけ引きつって歪んでいても、どの顔も一様に笑っていたのです!
「次お待ちのお客様方どうぞぉ~!」
天井あたりを見ていた彼は、その時また壁が音もなく足早に背伸びをしたのをはっきり見ました。そこにはまた新しい、吐きそうな、口をいっぱいに開いた、またある者は歪めた、しかし笑っている顔の群れが現れたのです。
「あ!」
サイハテは今やとてつもなく高くなった天井を眺めるのに疲れて目線を戻した時、観衆の中にハナグマを見とめました。
「ハナグマ、おいっ、目を覚ますんだ……!」
「んん? き、君は……」
「そこ、そこ静かにぃ~! 紙芝居の最中は静かにねぇ~! 笑い声以外は静かぁに!」
サイハテはしまったと思いましたが、紙芝居は途切れることなく続きました。しかし……
「んあ……? あ、ははは! たいそう面白い芝居だな! ははは!」
ハナグマの顔にもあの奇異な笑いが浮かび、その笑い声はあの前の語り部と同じように朗々と上げられたのです。
サイハテはもう悲しくて、しかしもう怒りを抑えられませんでした。彼はとうとう騎士の剣を抜きました。抜いたが早くも黒い化け物が行ったり来たりする観衆の中を真っ直ぐに、語り部に向かって切りかかりました。
「ハナグマを絵にされてたまるものか!」
「これ、これ静かにぃ~! 紙芝居の最中は静かにねぇ~! 笑い声以外は静かぁに!」
語り部は幾ら切りつけても、靄でも切るようにおかしな手応えがするばかりで、靄のこびり付いた剣はたちまち錆びて使い物にならなくなりました。紙芝居は続けられました。
笑い続けるハナグマが黒い化け物に掴まれてこちらへ、部屋の奥へやって来ました。カーテンの後は何もありませんでした。サイハテが錆びた剣で今度はこの化け物に向かったその時、ハナグマの懐がムクムクとふくらんで、白い大きな卵が飛び出したのでした。
「ハカナイ!」
サイハテは、ハカナイを部屋の外に置いてきていたのでした。ハカナイはひと声してサイハテを飛び越えて、紙芝居を噛み破ってしまいました。古い紙芝居は悲鳴を上げました。途端、崩れ去る古城から逃げるがごとく、ものすごい勢いで、黒い姿がいっぺんに紙芝居の中から飛び出してきました。
観客たちは急に色めき立ちました。立ち上がったり、椅子から崩れ落ちたりしてキョロキョロしながら、まるで出口がわかない鳥のように四方八方の壁に向かって疾走し、ぶつかっては、たちまち絵に変わってしまうのでした。もう人は誰もいなくなりました。黒い姿もありませんでした。語り部は、破れた紙芝居の中にそのおびえた顔だけを残していました。
サイハテは闇雲に走ろうとするハナグマの手を引いて、すぐ部屋を出ようとしましたが、恐ろしいことに今はもう彼にも扉が何処にあるのかわかりませんでした。あたりは闇、闇でした。サイハテはただ薄灯りの様なハカナイの走る姿を追って無我夢中に駆けました。カチャ! カチャ! と、走る彼の足は幾度となく堅い板のようなものを踏みつけました。その度悲鳴のような笑い声が聞こえ(いえあれは笑い声のような悲鳴だったのでしょう)、それに四方八方でしくしく泣き声が聞こえていたのでした。サイハテはなんとなく、ここはとても悲しい牢獄なのだということがわかりました。
ハカナイの姿が斜め上に見えました。彼らは、長い長い真っ暗な階段を上っていました。やがて夜の薄明るい月明かりに照らされ、二人といっぴきは奇人屋敷の裏手に出ました。紛れもなく、さっきの場所は奇人屋敷の中だったのです。
「僕たちは地下室にいたんだ! あのおぞましい紙芝居部屋は一階にあったけど、天井が伸びていたのではなくて床が下がっていたのだ!」
「それできっと、地下は絵画のコレクションになっていたんだね……もっとも、あんなものを集めていたのはオイトマ以外の、他の誰かかもしれないけれど……」
「ああ、ハナグマ、気がついたのか。よかった……!」
「だけど、とりあえずここを動いた方がいい……おいらぁへとへとだけど、それでもここからは逃げたい……」
ハナグマはサイハテに寄りかかって、奇人館の屋根の上から、四つ頭の鉄の風見鶏が、こちらを窺って、今にも飛びかかろうとしている姿を指さしました。いえ、奇人屋敷そのものが、二人といっぴきを呑み込まんと傾いているようにも見えました。
サイハテはハナグマを支えて、このきちがいの家を足早に離れました。彼らが逃げ去る間、館の明かりは目まぐるしく点滅して、調整のずれたピアノに狂ったような合唱が聞こえていましたが、それは人間の声ではありませんでした。館の中で明かりが点滅して見えたのは、あの古い紙芝居の化け物の気が狂って家中を飛び回っているためでした。狂気の合唱は、森を随分来て街道へ出る直前まで聞こえてきましたが、何者も彼らを追ってくる様子はありませんでした。
まだあの合唱が森に消え入るか消え入らないかのうちに、街道を帰途に着いてボツボツと歩いて行く商人や旅客が見えました。人々は口々に、セレモニーはつまらなかった、ひどかったと、言い合っていましたが、誰もオイトマの奇妙な見世物のことを言う者はありませんでしたし、少し耳を澄ませば森の奥から微かに聞こえてくる狂った歌とピアノを気にする者もまたありませんでした。
サイハテとハナグマ、ハカナイは、気力もないのにまだ遠ざかり足りないがごとく街道を渡って丘に向かって歩いて行きました。