藤島先輩
現実世界の周囲の話です。ナナは、六回生、特に藤島先輩と仲が良いのです。現実世界はぬるま湯のようです。
昼食の後で勉強するが、眠くて集中できない。
睡魔との戦いに四苦八苦して、3時頃自動販売機の前で一息入れた。
コーヒーでも飲まなきゃやってらんないよ。
ぼんやりしていると、後ろから声を掛けられた。
「七瀬さん、眠そうだね。そんなに眠いなら、散歩に行かない?」
重い体を反転させて振り返ると、藤島先輩が優し気に微笑んでいた。
やったー。ラッキー。藤島先輩、散歩に誘ってくれるんだ。
先輩は、こんなふうに時々、散歩やお茶に誘ってくれる優しい紳士だ。
まあ、先輩だってぎすぎすした勉強の合間に異性の下級生とお茶したり、散歩したりするのは、ストレス解消になるのだろう。
これが恋愛じゃないところが良い。
私と先輩の利害関係が一致するところだ。
六回生の例にもれず、藤島先輩と私は、例のサークルで知り合った。
極論すれば、同じ目標に向かって、一緒に勉強していると言える。
ただ、そもそも私と藤島先輩じゃレベルが違う。向こうは、二留して、今年は合格確実だと言われている人で、こっちは現役だけど、合格するには後一、二年かかりそうな凡人だ。
で、留年できない我が家の経済状況を考えれば、一か八かで受験して、ダメならどっか適当な就職先へ潜り込むしかない。とまあ、やけくそになっている。
やけくそになる前に、もっと必死で勉強すれば良いのに、それもできない私を馬鹿と呼んでくれ。
でも、とりあえず、やれるところまでやりたいのだ。後悔したくないし。
というわけで、私だって、毎日セッセと研究室という名の自習室で定席を獲得するほどには、勉強しているワケで。
でもって、気が付くと、藤島先輩とは、こんなふうに勉強に疲れると、一緒にお茶したり、散歩したりする仲になっていた。
別に藤島先輩だけじゃなく、あの学年の先輩たちとそういう仲になったのだが、一番親しくなったのは、やっぱこの先輩だ。
噂によると、六回生で彼女がいるのは、この人と森田先輩だそうで、どちらの彼女も時々訪ねて来て、応援してくれてるとのことだ。
藤島先輩の彼女なんか、大学で同級生だった人で、自分はさっさと就職して、藤島先輩の合格を待ってるらしい。
彼女に収入があるから、藤島先輩はお小遣いを送ってもらってる。いたれりつくせりだ。
藤島先輩は、彼女のことを『ウチのヤツ』と呼ぶ。
「ウチのヤツがね」というのが、口癖だ。藤島先輩と話していると、彼女ののろけ話に終始する。
「ウチのヤツは、顔はまあまあなんだけどスタイルは良いんだ」とか、
「ウチのヤツが仕事でトラブルに巻き込まれて、えらい目にあって」とか、
「ウチのヤツが、洋裁もできないのに服を作ったんだけど、それって布を丸く切っただけなんだって。周りの人たちに感動されたらしい」
とまあ、そういう話のオンパレードなのだ。
殺伐とした勉強をしているんだから、のろけ話でもしないとやってられないのだろう。
それを下級生に聞かせるという趣味はどうかと思うけど。
でも、藤島先輩がそれほど彼女が好きで、彼女も藤島先輩を好きって関係が羨ましくて、私もこんな恋ができたら良いなって思ってしまう。
キャンパス内にある植物園を二人で歩くと、緊張がほぐれ、さっきまでの眠気が少しずつ取れて来る。
この植物園は理学部が管理している。
ところどころに「マムシに注意」の看板があったりするが、訪れる人の少ない癒しスポットだ。
大きな樹木と放ったらかしのような下草に風情があって、大好きな場所だ。
穏やかな日差しの中、先輩の目がやさしく和む。
やさしい気持ちを共有する時間。
試験に受からなかったらどうしようとか、自分が独りぼっちだという心細さを忘れることができる暖かな時間。
でも、その暖かさは、孤独と背中合わせだ。
だって、先輩には彼女がいるけど、私には彼氏と呼ぶ人はいないんだから。
ああ、恋がしたい。
藤島先輩は、眼鏡の奥の少し落ちくぼんだ目が優しげで、側にいるだけで癒される。噂では、合格したら彼女と結婚するらしい。
その話を聞いたとき、「すごい」と思った。藤島先輩を信じて待ってる彼女も、彼女の好意に報いたいとひたすら勉強する藤島先輩も。
こういうのを糟糠の妻と言うのだろう。
去年の夏以降私と先輩が急接近すると、周りの人たちがヤキモキしたらしい。
何せ、藤島先輩と彼女が両方とも友達だって人は多い。
友達同士のカップルが親しい後輩のせいで別れるかもしれない。と、略奪愛を警戒したという。
中には彼女にご注進した人までいたと聞くが、私に言わせれば、考えすぎだ。
私は『ウチのヤツ』に恋をする先輩が好きなのだ。
万々一、先輩が彼女を捨てたら、そんな先輩に幻滅するだろう。
それほど、藤島先輩と藤島先輩を藤島先輩たらしめる、会ったこともない彼女が好きだった。
15分ほどの散歩を終えて研究室へ戻る途中、五回生の竹村先輩と柴本先輩に出会った。
作物にも『なり年』と『不なり年』があるように、学生にも『なり年』と『不なり年』があるんだろうか。
六回生は優秀なのに、同じように法経職試験を目指して留年している五回生には六回生ほど覇気がない。
この法則で行くと、我々四回生は、結構良い線行くってことになる。
うん。そう、森川くんも長谷川くんも伸ちゃんも私も、みんな頑張ってる。私たちの学年も結構行けてるかも。
それと、五回生はなんかギスギスした感じで、六回生ほど暖かくない。
六回生がパステルカラーの暖かさって雰囲気なら、五回生は白黒はっきりつけないと気がすまないようなところがあって、何となく苦手だ。




