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「藍原、昨日の夜何処に行ってたんだ」
「え、昨日は急にバイト先に呼び出されてバイトしてたけどなんで?」
「メールの返信が遅かった」
「ああ、ごめんごめん。結局十一時位までバイトしてたからさ、夜遅くなっちゃった」
「十一時だと?そんな遅くに外に出るな。危ないだろう。何があったらどうする。ただでさえ、お前は小柄で愛らしい顔をしているのに。もう、そんな時間に呼び出すような非常識なバイトは辞めろ」
「あのね、私、平凡で成人した大人だよ?大丈夫だって」
「いや、駄目だ。危ない。それに、愛想を振り撒くような接客業のバイトも辞めろ。万が一、惚れられてストーカーでも出来たらどうする!?」
「だーかーらー!私は平凡!私のストーカーをしたい物好きはいないって」
「俺は藍原をストーキングしたいけど」
おおっと、ここに物好き発見!!
なんて、大嶺君それは真顔で言うことじゃないよ。隣のテーブルの女の子ドン引きしてるから。
あれから大嶺君は、まあ、私になついた。下手したら、桔梗さんの時より執着されている気がする。だが、騙されてはいけない。大嶺君は、決して私自身を好きなわけじゃないのだ。大嶺君は、持て余した狂気を一番近くの私にぶつけているだけで、私以外に親しい人が出来れば簡単にそっちに行ってしまう。
「……そう?いいよ、私は。大嶺君になら何されてもいいし」
「藍原!」
それでも、好意に似た執着を好きな男にされるのは嬉しくないはずがない。それに、大嶺君は無意識かも知れないけど、彼は私に許容されることに喜ぶ。
私が「大嶺君ならいい」と言う度に大嶺君は私に抱き付き、頭を優しく撫でる。かわいいかわいい、藍原かわいい。食べたいちゃい。とぼそぼそ私の耳元で語りながら。
今まで、批判されて受け入れられなかった彼の本質である狂気とも言える執着愛を、私は何てこともなく受け入れた。殆どの人にとって、鋭い凶器のようなそれは私にとってブラックコーヒーをスイートココアに変えるほどの甘い甘い好物で。
私がそんな人間で、彼の全てを受け止めるから彼はそれが嬉しくなって、私がかわいいなんて勘違いしてしまうのだ。
「修司!」
「本当に藍原はかわいいな」
「修司、そんなモブのどこが可愛いの?私のほうが綺麗でしょ?ねえ、やっぱり私たち」
「そろそろ、授業だ。行くぞ、藍原」
「あ、ああ、うん。えと、桔梗さんは……」
彼が目に見えて私に執着してきた頃、焦った様子の桔梗さんが大嶺君と復縁したいと迫ってきた。大嶺君は、それガン無視。桔梗さんを空気のように扱っていて、視界にもいれていない。
私も少し焦ったから、大嶺君のその以前ではあり得ない反応にほっとしたが、それ以降、毎日一年前の私みたいにアタックをしに来る桔梗さんをあそこまで頑として目にいれないのは、寧ろ意識しているからじゃないかと不安にもなってきた。
「ねえ、いいの?桔梗さん」
「あんなやつ、どうでもいい」
如何にも、忌々しそうに言う大嶺君に私はまた不安になる。そんなに憎んでいるのは、執着だけではなくて、私には向けられていない愛があったからじゃないか。もし、めげずに桔梗さんが復縁を迫り続けたら大嶺君は、ふとその愛を思い出して仮宿である私の元を去って行ってしまうんじゃないか?
結局、私は大嶺君が桔梗さんを無視しても、話しても不安になるのだ。私は、小倉桔梗という存在が怖い。
彼に恋をして、彼から狂気を向けられるようになってから私はどんどん弱くなっている。今まで何ともなかったことが、今となっては気になって気になって仕方ない。
大嶺君は桔梗さんのことをどれだけ愛していたのだろうか、とか。桔梗さんのことどんな風に抱いていたのだろうか、とか。桔梗さんと将来の約束をしたことはあったのだろうか、とか。大嶺君が私に近付けば近付くほど、私の不感症な心は愛する喜びと過去の恋人へ嫉妬を覚えていって。彼からの愛が欲しくて欲しくて堪らなくなる。
彼が、私を愛して、これからの生涯私だけを見て欲しいと死ぬほど願ってしまう。人生でこんなに苦しくて堪らなくなるのは初めてだった。もう、私は彼の狂気だけでなく彼という存在を愛している。他の誰でもない、彼からだけの狂気と愛を私は欲しい。彼の魂と私の魂をミシンで縫い合わせて、離れるときは千切れてそのまま消えてしまいたい。彼が、他の人に目を向けるくらいなら彼に死んで欲しい。彼が他の人に目を向けるくらいなら私は死んでしまいたい。
いつの間にか、私の愛も狂気と化していた。
「なあ、辞めるよな?バイト」
「うーん。大嶺君が言うならそうしたいけど、私お小遣い制じゃないし、大嶺君と遊べなくなっちゃう」
「金は俺がだす。何回も言ってるけど俺は金なら余るほどあるんだ。そうだ。藍原がバイトを辞めたらその時間を俺と一緒にいるのまわせ。時給払うから。そうすれば、藍原は楽して稼げるし良いだろ?」
「駄目。そんなの友達じゃない」
「なら、付き合おう?藍原が俺の彼女になれば、藍原の好きなものを与えて良いだろ?」
「……よく分かんない。その定義……」
勝手にうだうだして弱っている私だが、実は大嶺君から何回か付き合おう、と誘われていた。その度に、私ははぐらかして煙に巻く。形だけでも自分のものにすればいいのに、私の最近出来たちっぽけなプライドがそれを赦さない。私が欲しいのは彼女という立場じゃなくて、愛だ。彼自身だ。
「まあ、確かにあのバイトは辞めようかな。時給良いから始めたけど時間の縛りがあるし、私は大嶺君との時間を優先したいしね。それは、私の意思だからお金はいらない。大嶺君と対等の立場でいたいんだ」
「藍原、やっぱり健気でかわいいな、お前は」
「お前は、ねぇ……」
そんなぶらぶらと不安定な関係をぶち壊す日はいきなり訪れた。大嶺君がいきなり、私の部屋にやって来たのだ。手に握られていたのは、私のケータイで。それは、私が今日大嶺君の家に忘れてきた物だった。
「どーした?千紘」
私の狭いワンルームで焦った様子で玄関に向かう私を、ヤンキー君は心配して声をかけてきたのだと思う。その日はたまたまヤンキー君が荷物を取りに訪れていたのだ。
ヤンキー君は、大嶺君が桔梗さんと別れたと同時に無理矢理家から追い出した。今まで、私に好意を持つ相手がそばにいても何とも思わなかったのに、彼が桔梗さんと別れてからは、何故かいけないことをしているような気がしたから。彼が、例え代役としても私だけを見ているなら、たとえ好きになる可能性が全くなくとも、彼のために側にいさせてはならないと感じたのだ。
「なんで!?何で急に追い出すんだよ、千紘!!」
「もう置けなくなった」
「な、理由は!?金かよ?それとも、例の大嶺君?そんな気持ち悪い男やめて俺にしろよ。俺のほうが千紘のこと好きなのに」
ヤンキー君が何か言い続けているにも関わらず、私は部屋にある彼の持ってきたものを袋に詰め、彼のいるコンクリートの冷たい廊下に投げ捨てた。ヤンキー君は青ざめた顔で捨てないで、と繰り返し泣きじゃくった。家の鍵を締め、ドアを叩きながら懇願する彼の声を無視し、これで彼のためになれただろうかと思う。不思議なほどに私には彼をいきなり追い出した罪悪感がなかった。彼が捨てないでと泣き叫ぼうと私の心には響かない。
「千紘がいないと生きていけないんだよ!!ねえ、お願いだからさ捨てないで!何でもするから!」
その言葉にも、今まではなかった微かな狂気が感じられて、彼が私に依存していると分かったが、私はそれを嬉しくは思わなかった。大嶺君の狂気以外は欲しいとも思わない。
流石に、近所迷惑だと思った私はチェーンをかけたまま少しドアを開け、今までに出したこともないような低い声で彼を脅した。
「これ以上、喚いたら警察呼ぶけど」
「!、千紘、なんで」
「今まで、君に興味がなかった。今は、君が邪魔なんだよ。私のために消えて?」
「……千紘。千紘千紘千紘千紘千紘。なんで、どうして…………」
彼は、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになっていて、その憐れな表情はまるで悲劇の主人公のようだった。そして、私は極悪非道のクズみたい。少し、大嶺君に近付けたみたいで嬉しかった。
「君さ、私のために死ねる?」
「え、…………それは、そんなの。死ぬ、だなんて急に」
「まあ、例え死ねるって言われても困るんだけどさ。私は死ねるよ。大嶺君の為なら。もう、分かった?」
ヤンキー君は、まだ混乱していたけど、また私はバタンと扉を閉じた。叫び声は聞こえなくなったけど、私の名前をぽつぽつと呼んでから、一つ、ごめんと謝って、立ち去っていく音がした。ヤンキー君と私の関係は殆ど私の善意で成り立っていた。いや、善意ではない。私は、面倒くさかったのだ。
はずれだと思ったから、出ていくように説得する労力がもったいなくて、ほうっておいた。どうでもよかったけど、ヤンキー君は私みたいだと、うすうす感じでいた。前は大嶺君が桔梗さんに夢中で、好きな人に全く振り向いてもらえない私に。今は彼に関心を、執着を失われる恐怖に怯え「捨てないで、捨てないで」と呪文のように呟いている私に。
ヤンキー君が私に捨てられたように、私は大嶺君に捨てられるのか。その時、ほんの少しだけ可哀想だと思う。決して罪悪感でも同情でもない。違う大陸で起こった大量虐殺の被害者を想う様な、あくまで外側からの視点で可哀想だ。私は、ヤンキー君のようになりたくなかった。
大嶺君に捨てられるなら、死んでしまおう。その時、決心した。パズルの最後のピースがパチンとはまるように、私はその決心に納得した。じゃあ、大嶺君は?私が死んだあと、他の人に狂う程の愛と執着を捧げるのだろうか。私は、そんなこと許せない。でも、私は他の人に奪われるくらいなら大嶺君を殺してしまいたいという欲と、大切な大嶺君を傷つけたくないという思いがぶつかって答えも出ない。
それから、ヤンキー君は度々私の前に現れたが、私はいずれも無視した。
そして、その日ヤンキー君は妙にへらへらした顔で、もう諦めるから私の部屋にあるだろうピアスを探させてくれと頼んできた。それきり、もう二度と付きまとわないと約束するなら、と私は部屋に上げたのだ。
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