178班
一瞬何が起こったのかわからなかった。
が、一部始終見てはいたので、ヒトセが扉を開けたと同時に中から何かが飛んで来て、それに巻き込まれたヒトセも一緒に飛んでいったんだと気付いた。
そして数秒遅れでハッとして、安否を確認しようと振り返った時、その声は扉の中から響いてきた。
「68班の寝ボケ天使よぉ、これ以上食い下がるってんなら……分かってんだろうなぁ、あ゛ぁ?」
───とっても腹に響く声だ。めっちゃ怖い、逃げてもいいだろうか。
声の感じからして多分女性だろうと思われるが、堅気の人が出すドスの効き方じゃない。絶対にアッチの人だ、正直逃げたいのだが怖くて足が動かない。
完全にビビってしまい閉まっている側の扉の前で情けなくも固まっていると、ヒトセが開けた方へ足音が近付いてくるのが聞こえる。
さっきの声の人か!ヤバイ逃げたい!と体を強張らせて身構えたが……予想に反して、出てきたのは妖精のような非常に愛らしい少女で、思わず呆気に取られた。
自分が、鳩が豆鉄砲を食らったようにポカンとして少女を見るのを、彼女は不思議そうに一目見て、緩くウェーブがかったピンクゴールドの長い髪を揺らしながら、ヒトセが飛んでいった方へとスタスタ歩いて行く。
背中に小さい黄色がかった翼が生えてるから、あの美少女も天使なんだろう。正に天使、これぞ天使、と言った容貌の女の子である。
……最初に会ったのがヒトセじゃなくてあの少女だったら、間違いなく天使と言う存在に心酔していただろう。
ありがとう、天使になると承諾したらしい過去の自分。自分は彼女と同じ存在になれてとても嬉しい。
あの可愛らしさは、もしここが地球上のどこかの国なら、ネットやメディアが大騒ぎだろう。
そんな取り留めも無い事を考えながら先程のドス声の記憶に蓋をして、少女の向かった方へ視線を向ける。
そこには、床に倒れ込むヒトセと、アッシュブロンドのイケメンと、そのイケメンの胸ぐらを掴み上げる先程の美少女がいた。
──────ん??
「だ、だから、この業務は持ち回りの恒例業務で…ぐぇっ」
「こちとら通常業務に加えて、ポヤッポヤしたテメェら正天使共の尻拭いに奔走してんだよ、そこんとこわかってんのか!あ゛ぁ?!私はもう十年休んでねぇんだぞ!!十年だ!!これ以上仕事増やすってんならテメェらの尻拭いはテメェらでやれよ!それすらも出来ねぇだろうがテメェらはよぉ!なぁ!!」
「ふぇぇ……」
───会話だけ見ると、怒鳴ってるのがイケメンで弱々しくふぇぇと泣いているのが少女だと思うだろう。実際は逆だ。
と言うかあの少女の声、さっきのドスの効いた声と全く一緒だ。おお、ジーザス…現実は無情である…。
芽生えかけた天使への憧憬は、泡沫の夢の如く崩れ去った。
大変お怒りのようなのでとばっちりを食らいたくないし、彼女らには近付きたくないんだが、ヒトセがすぐ傍に倒れてるのでそうもいかない。
て言うかピクリともしないんだが大丈夫か?打ち所が悪かったりとかしたら笑えないぞ。
……天使ってそんな簡単に死なないよな……?
少女の視界に入らないようにそろりそろりと移動して、白目を剥いてるヒトセの袖を掴む事に成功。ズルズル引き摺って通路の脇まで運んだ。
ペチペチと軽く頬を叩くとすぐに意識が戻ったようで、彼は二三度呻いてからゆっくりと瞬きをした。
「ヒトセ、大丈夫ですか?」
「おう、大丈夫……あんがとさん。あ~、もしかせんでもおれ、吹っ飛ばされた感じやな?」
「ですね。ヒトセに飛んできたのは多分、今あそこで怒鳴られて泣いてる青年だと思います」
「お、ミハイルか。あーなるほどな、今回はアイツがユカリちゃんとこに遣わされたんか。災難やなあ、可哀想に」
「どういう意味だヒトセごるぁぁぁ!!」
「「ヒェッ」」
あ、イケメンの人と声が被ってしまった。
◆◇◆◇
「通世管理局総合調整課第178班、班長のユカリです。来て早々に変なとこ見せて悪かったね、えーと、サイカさん?」
「イエ、ダイジョウブデス、オキヅカイナク」
「なんか片言じゃない?……まあいいか。それにしても記憶がないなんてなあ。ヒトセ、舗装課と上には私からも文句言っとくよ。アンタと私じゃ繋がってるとこ違うし、その方が確実でしょ」
「おっ、ほな頼むでユカリちゃん!やー、さっすが鬼の班長!頼りになんなぁ!」
「シバくぞボケ」
廊下でのなんやかんやから十数分、ヒトセの取り成しによって一時的に怒りが鎮火した少女と、あとの三人で室内へ移動した。
そして彼の、ユカリちゃんトコに入ることになってる新人さんやでーとの一言で、部屋中央の向い合わせのソファーへと腰を下ろし、互いに自己紹介が始まった。
記憶がないことは隣に座るヒトセが先に説明してくれたので、自分が発した言葉など「どうも初めまして、サイカです。宜しくお願いします」くらいなのだが、これで良いんだろうか。
それから先程の、イケメンの胸ぐらを掴んで怒鳴っていた美少女。その方が班長のユカリさんらしい。
ヨーロッパ風の顔立ちなのに日本風の名前なのが気になったが、そう言うのを聞く空気でもないので、いつか普通に話せるようになったら聞いてみよう。
て言うか、見た目と違ってびっくりってこう言う意味か。外見は稀にも見ない人間離れした美少女だが、口調はサバサバしていて、そのアンバランスさがちょっとイイ。心の中で姉さんとでも呼ぼうか。
だがしかし今、この人の所に置いて行かれるのかと思うと先行きが不安な気もする。こう、ちょっと萎縮してしまうので。
それを伝えたくて、ヒトセをジッと見つめてみたりしたのたが、その視線に気付いたのだろう彼に「な、びっくりしたやろ?」と屈託なく笑われて、力が抜けてしまった。
今はユカリさん以外の班のメンバーが全員出払っているらしく、お茶を煎れる人がいないからとイケメン……ミハイルさんが煎れてくれた。
他の班の方らしいのに、とても優しい。いや、それともここではそれが普通なんだろうか。自分もお茶汲みを覚えるべきか?
慣れた手付きでソーサーを置いてくれた時に軽く会釈をしたら、天使の頬笑み付きで同じように返してくれた。二重の意味で天使だった。
「さてと。ヒトセの馬鹿は放っておいて──サイカさんさ、準天使になってるって事はこの局で働く事も必ず了承してる筈なんだけど、どうする?」
「どう、とは?」
「了承した記憶もないんでしょ?人手不足とは言え、そんな状態の人を無理にここで働かせる気はないし。上と連絡が取れるまで天上界の何処かで待機して貰って、サイカさん自身が上と会って確認して納得がいってからこの班に入って貰う、って形を取りたいんだけど」
「は、い……そうですね、それは有り難いですが」
「ですが?」
「あの、ここに来るまでヒトセに人手不足の深刻さを聞いたんですけど、良いんですか?」
ヒトセから聞いていた感じだと結構切羽詰まっていたんだが、新人とは言え人手を遊ばせていても大丈夫なんだろうか。いやまあ、自分に何か出来るとも思わないが。
ユカリさんはその言葉が意外だったようで、軽く目を瞠って自分と目を合わせると、数秒後責めるような目をヒトセに向けた。
「ヒトセ、それはちょっとないんじゃない?」
「いや、いやいやちゃうで!記憶ないって聞く前やねん、人手不足やって伝えたんは!そら記憶ないって先に聞いとったら、こっちの事情ベラベラ喋ったりせぇへんわ!」
「準天使に選ばれるくらいの方ですから、そう言った事を伝えてしまうと気に病みそうですからねぇ。その善性は僕達正天使からすればとても好ましいですけど、此方としても申し訳無さが先んじますし」
………天使っていい人ばかりなんだろうか。
心配してくれるユカリさんといい、気を使ってくれるヒトセといい、何故か一緒に悩んでくれてるミハイルさんといい。
渦中の者としてはなんだか申し訳ないくらいに自分の事で悩んでくれてて、どうしても背筋がモゾモゾしてしまう。
しかし、待機か。記憶なしでも働けるならやろう、天使として就職だ。と気軽に考えてしまっていたが、そうもいかないんだろうか。
自分はここに、自分が必要とされたから来たのに。
「(…………ん?あれ、必要とされたから?)」
そんなの、誰かに言われただろうか?
ここに来るまでの道中ヒトセに何度も人手不足と言われたが……いや、だけど違う。確か、そうだ、誰にだったか、僕だから必要だと言われた。
「(……ああ、それで、僕は天使になる事を了承して、だから今ここに来ている……んだろうな。そう言えば、ここで働く事に対しての疑問を浮かべなかった気がする。寧ろ、それが当たり前のように受け入れていた)」
記憶が朧気なものだから実際はどうだったのか判別出来ないが、“ここで働くのは当然”と言った感覚がある。多少の不安要素はあるが、それに従っても良いのではないだろうか。
それに今、この記憶とも言えない僅かな感覚のお陰で、自分自身を指す言葉もカチリと噛み合うものを知れた。多分、自分の一人称は“僕”だ。
どんな人生を歩んでいたのか、は知れたら知りたいな程度だったけど、こうなったら興味も出てくる。それに、僕を必要だと言ってくれた誰かの事を思い出したい。
その為には、上の方との連絡を取って貰うにしても、会うまでただ無為な時間を過ごすのはよくない気がする。何となくだがきっと、その人の役に立ちたいと思ったから、了承したのだろうし。
よし、どんな仕事か分からないけどやろう、ここで働いてみよう。と、飛び立っていた思考を現実に戻すと、まだ三人ともポツポツと意見を述べながら頭を悩ませている所だった。
「あの、ユカリさん、それからヒトセとミハイルさんも」
「ん?なに?」
「僕、働かせて貰いたいです。記憶が無いことで足手まといになるかも知れませんが、必要とされてここに居るなら、僕を選んでくれた方の気持ちに応えたいです」
なので、お願いします。とおずおず頭を下げたら、ユカリさんの方から驚いたような空気が伝わってきた。
……やっぱり、記憶はないけど働きたいな!と言うのは、少々不審だろうか?普通はもっと取り乱しそうなものだものな。
そのまま暫く動きがなかったので、あああヤバイ早まったかな様子見がてら連絡待ちすべきだったかな、とドキドキしながら自らの膝を見つめていると、ユカリさんが軽く息をついたのがわかった。
呆れのような感心のような、どちらにも取れそうなそれにハラハラしていると前方からそっと肩を支えられて、自然と下げてた頭が元の位置に戻った。
「そんな畏まらないで、こっちに否やがある訳じゃないからさ。働いてくれるってんなら大歓迎よ、人手は本当に不足してるからね。でもサイカさんはいいの?」
「あ……はい。全部は思いだせないですけど、一瞬脳裏に過ったりする事があって……僕は、誰かに必要とされてここに来た……気がするんです。その誰かが多分、皆さんが言う上の方なんでしょう。それに……」
「それに?」
「…働いてた方が、色々思い出していくかなって」
ちょっとだけ視線を彷徨かせて正直に告げると、ユカリさんは十秒ほど考え込んだのち、フッと挑戦的に笑った。
深窓の令嬢の様な容姿にその表情を浮かべているのがなんだか妙に似合っていて、僕も思わず頬が緩んだ。
それが合図だったかのようにユカリさんは徐に立ち上り、アンティーク調の棚から幾つかの本に冊子、それから握り拳大の黒い玉のようなものを取り出して、パッパと埃を払いながらテーブルの上に全て並べた。
そして再びソファーへ腰掛け、対面からジッと僕を見つめる。
「先に言っとくと、この本はここで働いてる天使しか見れない。局外の天使や人間達に見せても何も書かれてないように見える術がかかってる。つまり門外不出のものでね、これを預けるには契約が必要なの。後でやっぱやーめた、とかは出来ない。いい?」
「はい!」
「よし、わかった。じゃあこの黒いの持って本の上に手を乗せて。あ、掌は上向けでね、それで詠唱が終わるまでジッとしてて、OK?」
「は、はい!」
ユカリさんに言われるがまま黒と白と青の3冊の本の上に両手を乗せ、更にその上にヒンヤリとした黒玉を乗せて、カチコチに固まる。
そんなに緊張しなくてもいいよ、大したことは起こらないからさ。と柔らかい笑顔で言ってくれたユカリさんだが、咳払いを1つすると、すぐさま雰囲気が変わった。
「只今より、この者は世界の記録から外れ、世界を記す者になります。この者の名はサイカ、典を支配せしめる使の一片。始まりの母よ、総合調整課第178班班長ユカリの名において、新たな記主としてこの者の存在をご承認下さい」
「っ!わっ……」
詠唱、と言うにはどこか事務的な口上をユカリさんが言い終えると、玉がグンと重みを増して、両手が玉と本の間に挟まれたような状態になった。
それに驚いている暇もなく今度は玉から漏れだした白い光が僕の手を貫き、体の内側をグングン上ってくる。何故上って来てるかわかるのかと言うと、腕が内側から、それも主に血管の中を通るように発光しているからだ。
咄嗟に手を引こうとしたが玉は非常に重く、また本も接着剤で粘着したからのようにくっついて離れなくて、身動きが取れないまま視界を光に塗りつぶされる。多分、もう光が眼球まで上ってきたのだろう。
余りにも眩しくて眉間に皺が寄ったが、今度はサアァッと波が引くように光が引いて行って、まだチカチカする視界で光の行き先を見ると今度は本に吸い込まれていく。
不思議なものだなぁと観察していると白い光はやがて鎮静し、最後に黒い玉が真っ黒の光をその球体に沿うように放ち、それが沈黙した後にフッと軽くなった。
凄く、不思議な光景だった。体の中に光が入ってくるのは正直ビックリしたが嫌な感じではなく、今思えば寧ろ非常に懐かしいような暖かい感じだった。貴重な体験だ。
さて、玉も軽くなったしこれは契約?が終わったと見て良いのだろうか?確認の意味も込めて、動きがない三人に目を向ける。
「………なに、いまの……?」
「あの光、全身に行き渡ることあるんやな……」
「いや、それより最後ですよ!最後の光!今までみたどの光よりも黒かったですよ!」
ユカリさんは、唖然。ヒトセは純粋に驚いたような表情でポツリと呟き、ミハイルさんは何故だか興奮している。
えっ、えっ、なに?何かよくないことだった?と内心大慌てになりながら尚も玉を握り締めてオロオロしていると、ユカリさんが肺の中の空気を全部押し出すような溜息を吐いた。
思わずビクッとして、何か恐ろしい宣告でもされるんじゃなかろうかと深く俯いた彼女を窺っていると、ユカリさんは何度か悩ましげに唸ったのちゆっくりと頭を上げた。
その表情は、なんだか申し訳なさそうで───
「仕事はゆっくり教えるつもりだったんだけど……ごめん、サイカさんにしか出来ない仕事が浮上した。今日から早速、調整が必要な世界に入って、未来を修復してきて。お願い。バックアップはするから」
「───へ?」
なん…………ですと…………?